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星辰のマギウス  作者: 空蝉
第一章 彼方に捧ぐ哀歌
16/67

1-16 彼方に捧ぐ哀歌 其之三

 「ご明察だ。いやはや、こうもあっさり見抜かれてしまうと、少し自信を無くしてしまうね」

 沈黙を破ったのは、本気で感心したようなヨハネスの声だった。対してセリカは得意げになるでもなく、淡々と続ける。

「そこまで難しい話でもないでしょう。錬金術の歴史を紐解けば、自ずと辿り着く類の推理です」

『賢者の石』。

 それは太古の昔――星暦という時代が始まるより前、錬金術師達がこぞって追い求めたという、究極の物質の名である。

 曰く、炭を黄金へと変える力を持つ。

 曰く、煎じて飲めば不老不死を手に入れる。

 まつわる伝承、逸話は数知れず。だが敢えてその性質を端的に評するのであれば、奇跡を実現する物質である、という点に尽きる。

「デズモンド氏に施した術式も、錬金術の一環ですね。それも『賢者の石』との併用が前提となっているのでしょう。そうでなければ、あそこまでの埒外な力は発現しません」

 事実として、アンドリューは間違いなくただの人間であった。そんな彼が魔導士マギウスを軽々凌駕する身体能力を得るに至ったのは、強大な神秘の後押しがあってこそ。そしてその起源が何であるかを考えれば、直前に取り込んだ赤い水にあるのは明白であった。

「その通り。最も、あそこまで術式を馴染ませるには中々苦労させられたがね。我が友ながら、辛抱強く付き合ってくれたと思うよ」

 苦笑を浮かべつつも、ヨハネスは冷ややかに目を眇めていた。その視線はさながら獲物を前に鎌首をもたげた蛇を想起させ、つまり彼が本気になったことを理解する。

 だがセリカにとっては好都合だった。先日の闘いで、彼は自分達を殺すと告げながら、しかし様子見の気配を滲ませていた。よって真意が分からぬ以上は、手の内を限らざるを得なかったが、今回は違う。

 本気になるということは、自らを曝け出すということ。

 ヨハネス・エヴァーリンという男の核心に迫るには絶好の機会と言えた。だからセリカは臆することなく、更に言葉を重ねていく。

「しかし、よくもこの時代に再現できたものですね。過去の遺物ですから、てっきり製法などは失伝したものと思っていましたが」

「ああ……正確な所を言わせて貰うと、あれは()()()()『賢者の石』だ。何しろこの物質の研究が最も盛んに行われていたのは千年以上も前のことだからね。お陰で伝承には事欠かないが、どれも人の手垢に塗れてしまって実像は見えないし、辛うじて残っていた研究資料をかき集めてみても、成功記録は見つからなかった。……ここまでくると、もう真実は自分で創った方が早いだろう?」

 ヨハネスは平然と言ってのける。傲慢とさえ呼べるその姿勢は、古き神秘の探究者としての理想を体現していた。

 結局のところ、魔導士にとっての最優先事項は、己の目的の達成である。

 そのためならば受け継がれた伝統、積み上げられた歴史など、一顧だにせず踏み荒らす。寧ろ大なり小なりそうした感性がなければ、かつては神の知恵であった魔術を人間の身で極めようなどとは思うまい。

 しかし、あの赤い水の正体がはっきりとヨハネスの口から語られた以上、追求すべきことがある。

 つまるところ、『賢者の石』とはあくまで奇跡を実現するための道具でしかない。ならばヨハネスが最終的に目指す場所は、一体どこになるのか。

「デズモンド氏の変化は、ただの肉体の活性にしては違和感がありますね。霊素の循環経路は貴方が手を加えたのでしょうが……あの再生能力は解せません」

 治療魔術は様々な種類が存在するが、対象の代謝能力を向上させることが基本的な原理となる。

 だが、アンドリューが見せた再生は、そうした類のものではない。あれは強いて言うならば、水が流れた先に満ち渡るような、そう在るべきと定められた形に戻らんとする自然現象めいた何かに見えた。

 そこまで思い返して、セリカは一つの可能性に思い当たる。

「まさか……」

 吃驚の声が零れた。だってよく似た現象を起こす存在を自分は、いや魔導士達なら誰もが知っているから。

 そして、先刻ヘイズから授かったヒント、そして万物の変成を司る錬金術という神秘の思想。

 これらを統合して導き出された答えは、我ながら荒唐無稽だったが、だからこそ魔導士の目指す境地に思えてならない。

「貴方の目的とは、人を魔術に……いえ、星霊へと錬成することだとでも?」

 それは言い換えれば、人の定義を根底から覆すということだった。

 星霊とは霊素の集合体であり、純粋な力そのものだ。つまりは生ける魔術、現象の類と言って良い。

 だからこそ彼らは在るだけで現実を捻じ曲げ、寿命といった物質的なしがらみにも囚われない。

 そう考えると、アンドリューの不可解な再生にも説明が付く。

 彼は大気中の霊素を取り込み、血肉へ変えて自己の欠損を補填したのだ。

 人知を超えた、強大にして不滅なるもの。そうした存在は、神と形容するのが相応しいかもしれない。

 であれば『賢者の石』を作り出そうとしたのも頷ける。人を神の次元へと押し上げんとするのなら、奇跡という特大のご都合主義の一つや二つはあって然るべきだろう。

 果たしてセリカの推理を受けたヨハネスは。

 「いいや。()()はあくまでも手段に過ぎないよ」

 と、緩やかに頭を振って否定した。

「私の目指す先は、今も昔もただ一つ。かの悪しき病を人から取り除き、無窮の幸福をもたらさん――」

 虚空に投げられた瞳は、最早セリカを映していなかった。

 幾夜を超えて尚胸に焼き付いた、いつかの誓い。ただそれだけが、彼の視線の先に浮かんでいる。

 そっと紡がれる呟きは、大切な宝物の形を確かめるかのようで。

 けれども清廉な祈りは、猛毒じみた情念と不可分な程に混ざり合い、名状しがたき音色となって世界を侵す。

「即ち、"永遠"だよ」


 ◇◇◇


 拳打と蹴撃が乱れ舞う。

 牽制の一撃さえも必殺の威力を誇り、叩かれた大気が悲鳴のような音を上げて爆発する。絶えず降り注ぐ暴力の雨霰は、触れることごとくを粉微塵に砕き散らす。

 その渦中ともなれば、苛烈さも推して知るべし。まっとうな生命であれば、一秒たりとも原形を保つことなど許されまい。

 しかし生憎と、嵐に立ち向かうのは、他ならぬ神秘の体現者。

 驚くべきことに未だ五体満足のまま、ヘイズはアンドリューの猛攻を掻い潜り続けていた。

 なりふり構わぬ体捌きはいっそ無様とさえ映るが、神懸った勘の良さで以て極限の回避を実現している。

 圧倒的な膂力を誇る相手であれば、つい先日対峙した犬妖精コボルト老王種エルダーを連想するが、厄介さならばアンドリューの方が格段に上だった。

 何せ彼の星霊の戦法は、溢れんばかりの力に物を言わせ、我武者羅に敵を押し潰さんとする荒ぶる獣の猛り。翻って老人が繰りだすは己の感情を制御し、最低限の力と動作で敵を確殺すべく、人が連綿と練り上げてきた技術である。

 打突の姿勢はもちろんのこと、技の緩急、退路に滑り込む立ち回り。何れも高い水準で完成されており、アンドリューが持つ優れた戦士の才を示している。

 実際、急所こそ辛うじて外しているものの、捌き切れずに何発かの攻撃がヘイズの体を掠めていた。

「どうした、小僧!貴様も魔導士ならば、この状況を覆してみろ!」

 怒声と共に踏み抜く震脚は、地面を陥没させるどころか、衝撃波を生み出してヘイズの平衡感覚を狂わせる。

 そうして体勢を崩したところに突きこまれる正拳は、真面に食らえば即死は免れない。

「なら望み通りにしてやる」

 しかしヘイズは回避ではなく、むしろ正面からそれに挑むことを選択した。

 全霊で防御力を高め、両腕を顔の前で交差する。直後に拳が叩き込まれ、全身を鈍痛が貫く。 

 みしみしと悲鳴を上げる骨。

 それを構うものかと一蹴し、押し込まれる力に従うようにしてヘイズは後方へと倒れ込んだ。

 同時に感覚の失せた腕を無理やり動かし、伸びきったアンドリューの腕を絡めとり、更に右足で鳩尾を蹴り上げる。

 所謂、巴投げである。

 本来の技と比べれば余りに拙く、力任せも良い所だが、さしもの老人もこれは予想外だったらしい。碌な抵抗もできずに、身を宙へと投げ出された。

「燃えろ」

 さかしまの視界にアンドリューの姿をしかと映しながら、魔法の呪文を唱える。

 中空に浮いた老人の四方八方に発生する鬼火。それらが一斉に炸裂し、火の粉を撒き散らした。

 体を蝕むダメージに耐えつつ、ヘイズはすぐに体勢を整える。

 この程度で仕留められる敵ではない。濛々と立ち昇る煙を睨みつければ、程なく隆々とした人影が浮かび上がる。

「今のは驚かされたぞ。悪くないな小僧、見込んだ通り骨がある」

 心から愉しそうな笑みを浮かべるアンドリューは、全くの無傷であった。

 爆発の影響で無残なことになった背広を破り捨て、彼の鋼の如き上体を露わにする。その皮膚に走る赤い脈にさえ、一切の綻びが見受けれない。

 正確には、傷を負わせることには成功している。だが端から即座に再生されてしまい、痛手を与えるに至っていない。

 結果として、ヘイズばかりが体力を消耗する状況に陥っていた。

「ふむ、闘いの中で成長しているという訳ではないな?だと言うのに、明らかに動作のキレが増している。……ははあ、珍しい手合いだ。成長ではなく、思い出しているのか」

「……べらべらと、殺し合いの最中によく喋る」

 不快そうに、ヘイズは吐き捨てる。

 しかし認めたくはないが、アンドリューの指摘は的を射ていた。

 ここ数日、短い期間に連続して死線に晒された結果だろう。マルクトを訪れて以来、温い仕事で鈍った感覚が、急速に熱を取り戻し始めている。

 落ち着け、とヘイズは細く深く息を吐いた。

 冷静さを欠けば死ぬ。魔導士になるずっと前から、自分に言い聞かせてきたことだ。

 温度の引いた思考で、アンドリューを改めて観察する。

 まず老人の力の源は、今も体表で脈動を続ける赤色の術式であるのは間違いない。では肉体を損傷させれば良いかと問われれば、それも否だ。

 この世界における生命は、主に三つの要素によって確立されているという。

 一つは有機物によって構成された物質体。

 次に霊素によって構成された幽体。

 最後に情動を司る魂である。

 アンドリューがその身に帯びた術式は、恐らく幽体に対して直接刻まれている。仕組みとしては、吸血鬼達に組み込まれていたものに近い。

 循環する霊素の流れを意図的に誘導し、意味のある形を象ることで効果を発現させている。

 最も、幽体に手を加えるなど正気の沙汰とは思えないが。

 何故ならそれは自ら存在を根底から覆すのと同義であり、下手をすれば人の形すら保てなくなる危険性を孕んでいるからだ。

 にも拘らず、アンドリューが非常に安定した状態を見せているのは、十中八九例の赤い水の恩恵だろう。加えて術式の効果も最大限に増幅されているのだから、触媒としてはやはり規格外だである。

 結論を明確にしておくと、今のままではアンドリューには勝てない。

 少なくともヘイズの魔術ウィル・オ・ウィスプに、彼の再生力を打ち破るだけの力はなく、恐らく対魔術の類も効果が薄いと見た。

 となれば切れる手札は限られている。後は最も効果的なタイミングを見極めなければならないが……。

 そうヘイズが思考を巡らせていると、老人が唐突に口を開く。

「おい小僧、お前俺の下で働かんか」

「……は?」

 余りに突拍子もない提案に、ヘイズは闘いの最中にも関わらず、間抜けな声を上げてしまった。

「いやなに、中々気骨がある小僧だと感心してしまってな。劣勢でも折れず、勝ち筋を見出さんと足掻くその在り様、気に入ったぞ。だから俺の部下にならんか」

「……意味が分からん。俺を殺したいんじゃなかったのか?」

「そうとも。だがそれ以上にお前には価値を感じた。そうなったらもう言わずにおれん」

 実に参ったと、自嘲の笑みを浮かべながら、アンドリューは大仰に肩を竦める。

「商人というのはどうしようもない人種でなぁ。欲しいと思ったら手に入れたくて仕方が無くなる。喉が渇いてたまらなくなるんだ」

 アンドリューの口調は、徐々に熱を帯びていく。

 さながら歌劇の独唱のように、商人という存在が如何なる業を背負っているのかを謳い上げる。

「金も名声も権力も、凡そ人が欲するものを、俺は全て手に入れてきた。だから次は、誰もが到達し得なかったものが欲しいのだよ」

「だったらなんだ。奇跡でも起こしてみるか?」

 ヘイズの発現は明らかな揶揄だったが、アンドリューは至極真面目な顔で力強く頷いた。

「応よ。この力こそ、その第一歩だ!」

 軽やかに放たれた拳をヘイズは身を翻して躱し、がら空きの胸部に短剣を突き立てんとする。

 だがその切っ先は、あろうことか老人の親指と人差し指が摘まむように止めてしまう。どれだけの握力が籠められているのか、引こうとしてもびくともしない。

「俺達が求めているものを教えてやろう――"永遠"だ。幾千幾万の魔導士が挑み、敗れ去った至高の奇跡、"死の克服"ッ!なんと美味そうな果実であることか」

 老人の顔が、眼前にある。

 ぎらぎらと底なしの欲望を湛えた双眸が、ヘイズを燃やすように映していた。

「お前もこちらに来い。安心しろ、あの娘も引き入れる予定だ。ヨハネスと渡り合ったお前達にはそれだけの価値がある。共に前人未到の偉業を成そう、そして何れは神話の領域さえ食らおうではないか!」

 猛々しい感情の発露が、轟然と世界を震わせる。傲岸不遜極まる宣言は、紛うことなく神に対する宣戦布告であった。

 しかし仮に本当にこの世の全てを手中に納めたとしても、きっとアンドリューの渇きが終わることはないだろう。

 次へ、次へと決して満たされず、何もかもを食いつくして尚止まらない。

 "強欲"の化身。

 なのに卑しい印象は微塵もなく、これこそが王道なりと他者を追従させるだけの覇気を伴っている。

 対照的に、ヘイズは黙して何も語らない。鉄仮面のごとき冷めきった表情で、アンドリューの顔を凝視している。

 それはきっと、嵐の前の静けさにも似た不吉の先触れだったのかもしれない。

「くは――」

 遂に、これ以上は堪え切れぬとばかりにヘイズは盛大に噴き出した。

 響く哄笑には明らかに嘲弄の気配が含まれていて、アンドリューの演説の余韻を瞬く間に掻き消していく。

「お前の言い分は分かったよ。経緯も事情も理解した。しかし、なるほど"永遠"ときたか。ああ、それは良い、傑作だ。確かに実現すれば偉業だろうなァ……」

 ヘイズは笑う。けらけらと、よくできた喜劇でも観たかのように。

 だが、彼の双眸には灼熱の色が渦巻いていた。

 それは義憤などでは断じてない。もっと利己的で、ひたすら悪意に満ちた、悍ましい想念の発露。

 今この瞬間、自分の中で決定的な歯車が噛み合ったのを、ヘイズははっきりと自覚していた。

 奇跡だの、永遠だの、何やらごちゃごちゃと大言壮語を抜かしていたが。結局彼らがやったこととは、自分達が面白可笑しく暮らすために、他者の命を踏みにじっただけ。

 どこにでもいる悪党の所業であり、それ以上でも以下でもない。

 よって答えは迷うまでもなく、ただ一つ。

 この超越者気取りの老害に、必ず吠え面をかかせてやると決意を籠めて、拒絶の意思を叩きつけた。

「お断りだ、糞爺。寝言は寝て言え」

「ならば死ね」

 直後、大気を爆裂させるアンドリューの拳が、ヘイズの鳩尾へと叩きこまれた。


◇◇◇


 轟音と共に吹き飛ぶ青年の体は壁に着弾し、その威力によって砕けた瓦礫の下へと沈んでいく。

 会心の一撃である。

 傍から見ればそうとしか判断できず、青年の命運はここに尽きたに違いなかった。

「……?」

 しかし、当のアンドリューは怪訝そうに己の拳に視線を落としていた。

 手応えが酷く軽かった。まるで実体のある陽炎でも殴りつけたような、あやふやな感覚が残っている。

 ――そう、彼が疑念を抱いた矢先だった。

 立ち込める粉塵の中でゆらり、と。影が起き上がった。

 一歩、また一歩。

 這い出るような足取りで、灰色の魔導士はアンドリューの前に立つ。

「どうした、この程度で何を驚いてるんだ。奇跡を起こしたいんだろ?」

 頬を歪に釣り上げて、青年は嘲るように言い放った。

 先の一撃で遂に限界を超えたのか、体のあちこちから血が滴り出している。

 目に見えぬ箇所においても、骨どころか内臓さえ傷ついているはずだ。満身創痍とまではいかずとも、真面に闘える状態では決してない。

 だのに炯々と老人を睨めつける琥珀の眼光は、まるで衰えを見せていなかった。寧ろ燎原の火のごとく、取り返しがつかぬほどの熱量が宿っているように思える。

 ぞわり、と老人の背筋を戦慄が走り抜けた。

「……なるほど。お前も魔導士、ただでは死なんということか」

 表情を崩さないよう努めつつも、青年の纏う得も言われぬ不気味さに、アンドリューはこれまでにない程の警戒心を抱いていた。

 何らかの魔術によってダメージを相殺したのは明白だ。その正体までは門外漢ゆえ掴めないが、物理的に肉体の強度を高めたといったところか。

 ヨハネスから聞いた話によれば、結界を用いた防御は自身を空間ごと隔離するために、そもそも攻撃が届かないのだという。となると拳が触れた事実がある以上、この仮説が最も有力と思われた。

 しかし相手は魔導士。追い詰められた鼠が猫に噛みつくように、全く予測外の反撃に打って出てくる可能性もある。

 これ以上の戦闘は危険だ。アンドリューは早々に決断し、構え直す。

 死なすには惜しい人材だと、本心から思う。

 けれど次の一撃は全身全霊だ。己の持ち得るあらゆる技術を総動員して、この敵を抹殺する。

「だが俺も暇ではないし、徒に苦しませる趣味も無い。早く楽になるがいい」

 その言葉と共に、アンドリューはするりと踏み込んだ。

 意識の間隙を突く歩法と、莫大な脚力で以て実現する縮地。老人の姿は刹那の間に、青年の真横に移っていた。

 次いで放たれた拳は、過去最高の速度と威力を秘めていた。

 音を置き去りにしたと見紛う程の打突は回避は勿論、よしんば防御が間に合ったとしても、それを貫通して余りある。

 一方で青年の動きは、余りにも緩慢だったと言って良い。

 彼がとった行動は、ゆるりと自らの左手を拳の射線上に置いただけ。さながら空から落ちてきた雪を、掌で柔らかく受け止めようとするかのように。

 アンドリューの拳打に反応したことは称賛に値するが、愚策としか評せぬ行動であった。

 老人は自らの勝利を確信し、青年は冷めた目で結果を待ち望む。

 そして、激突した。

「………………なに?」

 直後に起きた現象は、音一つ生まれなかった。

 必殺であったはずのアンドリューの拳が、青年の左手の中に収まっている。殴りつけた時に生じるべき反動が無く、そのため受け止められたのだという実感が遥かに遅れて訪れる。

 とても許容できる結果ではなかった。

 アンドリューは本気で殺すつもりで拳を振り抜いた訳で、こうして受け止めようものなら腕どころか、半身が弾け飛んでいても可笑しくない。

 なのに空気の震えさえ起きなかったのは、一体どうしたことなのだろう。

 全く予期し得なかった出来事を前に、アンドリューの思考が完全に停止する。

 この瞬間、彼の敗北が決定した。

 仮に敗因があったとするならば。アンドリュー・デズモンドは卓越した商人であり、優秀な戦士としての素質も持ち合わせていたが。

 魔術が持つ不条理さを、本当の意味で理解していなかったのだ。

「間抜けが」

 氷柱のごとき侮蔑と共に、ヘイズの拳が無防備なアンドリューの顔面に深々と突き刺さった。

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