1-15 彼方に捧ぐ哀歌 其之二
「それではこの後の段取りを確認しておきましょうか」
懐中時計を取り出しながら、セリカは視線を上げた。その先には地上へと通じる階段が伸び、終点に据えられた扉が隙間から微かな光を零している。
ここがヘイズ達の目的地。あの扉一枚を隔てた向こうに、ヨハネスの潜伏先と思しきデズモンド商会が有する研究所がある。
「あと十分程で、地上の班の準備が整います。彼らはそのまま正面から研究所を襲撃し、施設内の目を引き付けます」
「で、裏側から潜入する俺達が本命を仕留める、と」
カジノでの一幕から早二日。それがこの作戦が実行に移されるまでの時間であった。
表側で陽動を担当するのはテオドアとイヴ、そして彼らに率いられたアンブラのメンバー複数人。一方、ヨハネスを直接狙うのは自分達二人だけだ。
客観的に見れば明らかに戦力が偏っているが、こちらは役割の都合上、大人数での行動は得策ではない。何よりアンブラでも最強の一角と評されるセリカが担うということで、異論なくこの作戦は実行と相成ったのだった。
ヘイズからしても、この編成はやり易い。何せ彼の術式は効果範囲が広く、全力で行使すれば味方を巻き込みかねないからだ。
それに見ず知らずの相手よりも、ある程度互いの呼吸を知っている相手の方が背中を任せられる。
これは全く個人的な気分の問題で、決して口には出さないけれど。そう思える程度には、ヘイズはセリカの事を信頼していた。
『こちらイヴ。準備完了したわ』
その時、セリカの持つ懐中時計から静謐な夜に染みる鈴の音のような声が上がる。
通信術式による遠距離会話である。何でもこの懐中時計は様々な魔術的機構を備えた特注品で、アンブラのメンバーに結社に属している証として配られているのだとか。
魔術と機械学が一体化したその品は、現代の在り方を象徴していると言って差し支えない。
「こちらも待機地点に到着しています。あとはそちらの匙加減でどうぞ」
『了解』
短い応答が返ったかと思うと、にべもなく通信が切断される。
「……随分淡白なもんだな」
何となく意外に感じて、ヘイズは目を瞬かせる。
カジノで顔を合わせた時は、気の置けない関係のように見えたが、両者のやり取りは酷く乾いていた。
それに自分は結社に所属したことがないので勝手な幻想なのだが、こういう時は仲間の無事を祈ったりするものではないのだろうか。
「まあ、彼女の場合はいつもこんな感じですよ。余り感情を表に出さない性格ですから。それに」
セリカがにっこりと良い笑顔をこちらに向けてくる。
「どれだけ武運を祈っても、死ぬ時はあっさり死にますからね」
「ああそう……」
現実的を通り越して血も涙もない一言に、ヘイズはそう返すことしかできなかった。
直後のことである。ずん、と腹に響くような音と共に天井が揺れて、ぱらぱらと土埃を降らせた。次いで連続して聞こえてくるのはくぐもった銃声。
表側の班が行動を開始した合図だった。なるほど、陽動としての役目を担う以上、殊更襲撃を強調させるのは常道である。彼らの行動は至極最適なものだ。
だがしかし、これだけは言わせてほしい。
「なあ、お前たちは裏で何かと暗躍するタイプの結社なんじゃないのか?」
「何事も時と場合によるものですよ、ヘイズ」
「ああそう……」
ざっくばらんな物言いに、ヘイズは頭痛を堪えるように眉間を揉んだ。
「一応補足しておきますが、今回は軍警局に大義名分を与える意味もあります。何せ相手が相手です。未だ疑惑の域を出ない状態で手出しをするのは、余計な面倒を呼び込みかねません」
「……つまりわざと騒ぎを大きくして、軍警局が介入できるだけの状況を作ってやる訳か」
そういう事です、とセリカは頷いた。
軍警局が第一義としているのはマルクトの治安維持だ。ゆえに市中で起きた銃撃戦やら、魔導士達の闘いやらに介入してくるのはごく自然な話である。
ちなみに当然の如くというか、今回の作戦は既に彼らに情報を流してある。今頃は踏み込むタイミングを計っていることだろう。
酷く迂遠なやり方ではあるが、致し方あるまい。公機関である以上、動くにしてもそれなりの理由が必要なのだ。
正義の味方も大変だなァ、とヘイズは内心同情を禁じ得なかった。
「では、こちらも動きましょうか」
すらり、と涼やかな音を立てて、セリカが鞘から太刀を抜く。
そのまま流れるような所作で一振り。扉は金属製で、しかもそれなりの厚さを備えていたにも関わらず、バターの様に綺麗に切り裂かれた。
崩れ落ちる鉄屑を踏み越えて、ヘイズが先んじて研究所に踏み込む。
同時に、がちゃがちゃ、がちゃがちゃと。横合いから歯車が回り、鋼線が擦れる耳障りな音が聞こえる。
それを認識した瞬間に、ヘイズは咄嗟に身を屈めていた。彼の頭上を飛来した鉄の礫が通り過ぎ、壁とぶつかって弾けた。
横に視線を転じると、予想通り敵の姿があった。人の形をしていながら、人ではないもの。
肉も臓物も全てが機械で構成された、鋼の衛兵たち。
数にして十体以上もの自動人形達が、それぞれの得物を構えてヘイズを取り囲んでいた。
「まあ、そう上手く事は運ばないよな……」
不機嫌そうに鼻を鳴らしながら、ヘイズは短剣を構える。
立ち塞がる人形達に、吸血鬼と呼ばれていたモノのような生々しさはない。つまりは質よりも、量を優先して作成された道具という訳だ。
とは言え多勢に無勢なのは一目瞭然。数の暴力というものは、時に単純ながらも闘いの優劣を決定づける要因になり得る。
しかし、彼らにとって不運だったのは。
ヘイズの魔術は、多対一の状況でこそ真価を発揮するという点だった。
術式が起動する。生み出された鬼火は、掌の上で踊る程度の大きさしかない。ヘイズはそれに向かってふっ、と蝋燭を消す様に息を吹きかけた。
千々に散る鬼火は宙を迸り、前方の人形達へ纏わりつく。火種を得た炎は途端に勢いを増して、連鎖的に他の個体へ燃え広がり始める。
その様はさながら燎原の火だ。際限なく伝播していく炎熱は生けるものを墓へ引き摺りこまんとする亡者のごとく、慈悲なく人形達を髄まで嘗めとっていく。
無論、相手は痛みを感じぬ機械の身体。人間であれば痛みと呼吸困難でたちまち身動きがとれなくなるところを、構わず飛びかかってくるものもいる。
「邪魔だ」
掌から刃を突き出してきた人形の足を払い、前のめりに倒れた所で上から頭を踏み砕く。
ぐしゃり、と余り心地良くはない感触が足裏から伝わるが、人間の頭蓋を潰すよりは遥かにましだった。
続けて襲い来る人形の首を、短剣で断つ。それでもまた動き続けたので、心臓部に切っ先を突き立て抉り抜いた。
「人形とは言え、人の姿をしたモノの頭を何の躊躇いもなく踏み潰すのはいかがなものでしょう」
「生憎、誰かさんと違って武芸を修めている訳じゃないんでね。殺されないように必死なんだよ」
控えめに言って野蛮では、とでも言いたげなセリカに、ヘイズはぶっきらぼうに応じる。
確かに彼の闘い方は武術からは程遠く、杜撰と称して差し支えない。だが効率良く敵を殺すことにかけては人後に落ちぬ自負があり、だからこそセリカの声には揶揄はあれど嘲弄する気配は皆無だった。
さて、と気を取り直してヘイズは辺りを見回す。
増援が来る気配はない。今しがた片付けた人形達は、丁度正面の方に向かっている最中でかち合っただけのようだ。
薄ぼんやりとした灯りが、無機質な色合いの廊下を照らしている。如何にも研究所といった風情で、気密性の高さゆえかどこか窮屈な印象をヘイズは覚えた。
「予想通り、大当たりだったって訳だ」
足元に転がる残骸に視線を落とす。
研究所といった施設でこうした警備用の自動人形を配備されているのはそう珍しくはない。が、既に廃棄された場所で稼働を続けているのは妙だ。となれば、ここがヨハネスの潜伏先であるという可能性が俄然真実味を帯びる。
「このままヨハネスを探します。行きましょう」
ここからは時間との勝負になる。人形遣いにとって、自動人形は手足であり、同時に目鼻でもある。よって先の戦闘で、自分達が侵入したことも勘付かれた可能性が高い。
ゆえに、ヨハネスが再び逃走を図る前に、片をつけなければ。
研究所の構造は、地下を往く道すがら大凡頭に叩き込んでいる。迷いなく進路を定め、ヘイズ達は駆けだした。
陽動は充分機能を果たしているようだ。幾度か自動人形の一団に遭遇するもその数は少なく、瞬く間に突破していく。
最も、ヘイズの出る幕などここに突入した時以来、一度たりとも訪れなかったが。
それというのも、接敵した端からセリカが問答無用で人形達を斬り伏せているからであった。彼女が太刀を抜くだけで、そこに斬閃の嵐が吹き荒れる。
留まることを知らぬ、洗練の極致とさえ評せる剣の冴えであった。
駆けながらヘイズはちらと、隣を奔るセリカの横顔を流し見た。
あれだけの剣技を披露したにも関わらず、疲弊している様子などまるで感じられない。紫水の瞳は凛と正面だけを見据えている。
なるほど、アンブラ最強の一角というのは伊達ではない。我ながら数日前に斬り合った際、よく死ななかったものだと今更ながらに思う。
「どうかしましたか?見惚れるのは結構ですが、ここは敵地です。余り気を抜かないように」
「時に謙虚さは美徳だと思わないか」
「過剰な謙遜は、時として嫌味に映るものですよ」
「左様で……」
などと軽口を叩き合いながら進んでいると、不意に辺りを漂う空気が変わったのを感じ取った。
実験室の並ぶ区画に足を踏み入れたのだ。近場の扉を潜り抜けると、不快な臭いが鼻を突く。
まず目に入ったのは、巨大な円筒形の水槽である。濁った培養液の中には、人造生命の成れの果てと思しき崩れた肉片が浮かんでいる。
続いて部屋の中心には簡素な診療台が置かれていた。表面は錆色の染みが幾重にも塗り重ねられていて、この施設で行われていた実験の凄惨さを物語っているようだった。
「全く……本当に悪趣味な真似をしますね」
室内の有様を認めて、セリカが不愉快そうに呟いた。いつも沈着な彼女にしては珍しい反応であったが、全く以て同意だった。
魔導士の工房というのは、往々にして血生臭い光景がつきものであるが、それにしてもここは明らかに行き過ぎていた。吸血鬼と呼ばれる自動人形が製造される過程で、一体どれだけの人造生命が切り刻まれ、部品として使い捨てられてきたのか。
この一室はほんの断片にしか過ぎないだろう。にも拘わらず、ヨハネスが内に秘めた妄執が、大気にさえこびりついているかのようであった。常人はおろか、同じ魔導士であってもただいるだけでもじわじわと正気を狂わされてしまうだろう。
「時間が惜しい。さっさと行くぞ」
ヘイズが普段通り愛想のない口調で声をかけると、セリカは呆れ返ったとばかりに半眼を向けてきた。
「ヘイズ……血生臭い現場を前にした女性にかける言葉がそれですか」
「お前がこの程度で狼狽える玉かよ」
間髪入れずにそう返すと、セリカはそれもそうですねと嘆息しながら同意した。
ヘイズとしては褒め言葉のつもりだったのだが、どことなく拗ねているような表情である。女心というやつは、何時になってもよく分からない。フランツ曰く、それがまた楽しいとのことだったが、まだその境地には至るには先が長そうだ。
ともあれ、顔色は常と変わらず、動じた様子は案の定見受けられなかった。
長居などしたい筈もなし、ヘイズ達はそそくさと実験室を後にする。
研究所の奥へと進むにつれて、悪寒は徐々に強くなっていく。先の実験区画とは異なり、物理的に空気が汚れている訳ではない。ただこの先にいる怪物が放つ情念が、空間に遍在する霊素をさざめかせているが故であった。
やがて二人が辿り着いたのは、広々とした部屋であった。天井は高いが窓一つなく、金属製の壁で囲まれていることも相まって、さながら檻を連想させる。
そして、その中央には。
「やあ、待っていたよ」
先日と変わらぬ美しい姿のまま、白い影法師が佇んでいた。
◇◇◇
「しかし感心はできないな、同業者の工房に無断で踏み入ってくるとは……。魔導士とは言え、人としての礼節は果たすべきではないかな?」
「これは失礼しました。ですが私達も仕事なのです、どうかご寛恕頂きたいですね」
表面上はにこやかに、しかしてその裏側で互いに殺気をぶつけ合う。
既に闘いは始まっているのだ。ヨハネスも、セリカとヘイズも。相手が僅かでも隙を晒そうものなら、即座に必殺の一撃を加えるべく動くだろう。
「それにしても、少し驚かされました」
あくまで意識はヨハネスの全身に留めながら、セリカは彼の左腕に視線を落とす。血の通った瑞々しい左腕に。
「そちらの腕は先日、確かに斬り飛ばした筈ですが……綺麗に治療したものですね。仕事柄生傷が絶えないもので、良い医者をご存知でしたら是非ご教授頂きたいものです」
「ああ、これかい?自前で何とかしたよ。自分で言うのも何なのだけど、私は中々しぶとい性質でね。生き残るための術を色々と知っているのさ」
「なるほど、そうして50年前も生き残った訳ですか」
セリカが切り込んだ。それはヨハネスの核心へと迫る問いかけであり、彼は意表を突かれたと目を瞬かせる。
「ふむ、どうやら私の過去はそれなりに調べたということか。まあ、名前を明かした以上は当然かな」
「ええ、偽名で無かったのは少々意外でしたが。貴方が帝国で起こした事件と、その顛末は一通り知っています。しかし実に興味深いですね、一体どうすれば心臓を破壊されても生き延びることができるのやら……」
皆目見当もつかない、とセリカは大仰に肩を竦める。
これは演技だ。ヘイズとの会話の中で、ヨハネスの生存力の絡繰りには当たりをつけている。その確証を得んがため、少しでも情報を引き出そうとしている。
最も、ヨハネスがそう都合よく疑問に答えてくれるとは端から思っていない。ゆえに多少なりとも油断するか、こちらの意図を探ることに集中を割いてくれれば儲けものだった。
しかし、そんな彼女の思惑は、突如横合いから挙がった声に掻き消された。
「ほう、言葉を弄して思考の誘導を狙うか。中々どうして、油断ならない娘じゃないか」
セリカ達が入ってきたのとは別の場所から、新たな人影が現れる。
老人だ。眉間や目元に刻まれた深い皺は、彼が重ねてきた歳月の深さを表している。しかし覇気に満ちた佇まいと背広を押し上げる筋骨が弱いを感じさせず、眼光からは煮えたぎる野心が窺えた。
「……ふむ、こう来るとは考えていませんでしたね」
セリカの顔が一層愉快気な笑みを形作る。何故ならその老人の正体は、余りにも場違いであったから。
そしてそんな彼女の反応を見て、ヘイズも老人の正体を悟ったらしい。
「アンドリュー・デズモンド……」
呆然と、その名を呟く。
老人は悪戯を成功させた子どもさながらに、無邪気に頬を釣り上げた。
「全く、堪え性のない方だ。私の合図を待ってくださるという話ではなかったのですか?」
「そう言うなよ。折角我らの敵が態々来てくれたんだ。手ずからもてなさんと、俺の沽券に関わる」
アンドリューはヨハネスの横に並び立つ。数年来の知己のような親し気なやり取りと、ヘイズ達を敵と明言したことからも、彼が吸血鬼事件に関与しているのは間違いなかった。
「ヘイズ」
「分かってる」
セリカの忠告に、ヘイズは頷いて身構える。
アンドリューが研究所にいたことは驚かされたが、問題はその理由である。
彼はごく一般的な人間だ。特に魔術的な加護を帯びている形跡もない。なのに敵対する魔導士達の前に態々姿を晒すなど、自殺行為も良い所だ。
つまり何らかの企てがあるのは間違いなく、それが彼の大胆な行動に繋がっているのは明白であった。
「さて、お前達の反応を見るに、自己紹介は不要か。……ああ、俺がここにいる理由が気になるか?なに、そう大した話じゃない」
大きくはないのに耳に自然と入るような、朗々と張りのある声。こちらの顔色から思考を看破する技術といい、流石は海千山千の商人と言うべきか。
「無論目障りなお前達を排除するため、というのもあるが……一つ、実験をしてみたくてな」
「……実験ですか?」
「ああ。聞けば先日、お前達はヨハネスを退けたそうじゃないか。ならば検証の相手としては申し分ない」
言いながらアンドリューは背広の内に手を入れる。取り出したのは、血よりも深い赤色の水が入った小瓶。
そして、その蓋を開けて躊躇なく中身を呷った。
予想外の行動に絶句するセリカ達の視線の先で、アンドリューの喉がごくり、と嚥下する。
「おお……!」
歓喜の声がアンドリューから上がった。
彼の皮膚に、幾何学的な紋様が浮き出る。それは血管の如く脈動し、噴火染みた霊素の爆発を巻き起こした。
まるで存在そのものが置き換わったかのような変化だった。常人であった筈のアンドリューの身からは、今やそこらの魔導士を軽々凌駕する霊素が溢れ、纏う神秘の気配は上位の星霊にさえ匹敵するだろう。
「では、行くぞ?」
小瓶を投げ捨てたアンドリューの姿が、唐突に掻き消える。
それを認識した次の瞬間、気付けば老人はヘイズの眼前に立っていた。
踏み込みと共に、床が轟音を立てて陥没する。全身の捻りを以て放たれた拳打が、ヘイズに迫る。
刹那、白刃が閃いた。
宙を走る鮮血と、靡く白金の髪。拳が激突する前に、疾風の如き抜刀で以てセリカが老人の手首を切断したのだ。
「む――」
この結果はアンドリューも想定していなかったのか、驚いた様子でセリカの顔を見る。
だが直ぐに喜色を表情に浮かべ、傷など意に介さず回し蹴りを放った。風ごと薙ぎ払うような膂力を孕んだ一撃。
迎え撃つべくセリカは太刀を返し、しかしすぐに視界の真下を切り払う。いつの間に術式を起動したのか、蛇の如くのたうつ液体金属が足元に迫っていたのだ。
セリカは己の失策に舌打ちする。止むを得なかったとは言え、ヨハネスの攻撃に対応したことで隙を晒してしまった。
アンドリューの蹴りは肩を掠めつつある。
今から躱して間に合うか。身を屈めつつも、霊素を巡らせて肉体の強度を向上させる。手傷を覚悟した上での行動であった。
――不意に、背後から強く引っ張られる感触があった。
立ち位置を入れ替えるように割り込む、灰色の背中。
ヘイズだ。当然、セリカが受ける筈だったアンドリューの蹴りは、彼の脇腹を薙ぎ払った。
弾丸さながらの勢いで吹き飛ばされ、受け身も取れず地面に激突するヘイズ。
セリカが回避できぬと踏んで、庇ったのか?否である。
彼の目的は隙を生み出すことに他ならない。
それを察したセリカの行動は迅速だった。蹴りを放ったばかりのアンドリューの首目掛け、最短の経路を以て太刀を振り抜く。
大商会の総帥であることなど関係無し。都市を脅かす事件の元凶であるならば、斬り伏せるのみ。
「浅い」
掌に残る会心とは程遠い手応えに、セリカは冷然と呟く。
首を撥ねるつもりだったのに、驚くべき反応速度でアンドリューが後退したのだ。
しかし流石に無事とはいかず、喉に裂傷が刻まれていた。ごふ、と血の泡が口端から零れて、上等な衣服を汚す。
そんなアンドリューを追撃せず、セリカは太刀を慎重に構え直した。普通の人間なら致命傷に違いないが、きっとそう事は上手く運ばぬという確信があったため。
現に、彼女の予想を上回る異様な現象がアンドリューの身に起きていた。
零れ落ちた血液が、一滴残らず傷口に戻る。切り落とされた手は塵となり、腕の断面を塞ぐように集まると、新たな五指を象っていく。
それは治癒や再生などと呼べる代物ではない。そうあるべきと定められた形に戻るのは、回帰と表現して差支えない。
「調子はいかがです?」
「ふむ、悪くないな。痛覚のコントロールもかなり融通が利くらしい。復元の速度については、傷の多寡によるだろうから何度か試さんとな」
冷静なアンドリューの言葉に対し、真剣な面持ちで頷くヨハネス。その光景はさながら売り出す前の商品の品質を検証しているかのようだった。
舐められたものだ、などとセリカは憤らない。寧ろ侮ってくれた方が仕留め易くなるので助かるくらいだ。
最も、こちらも仕切り直しが必要で、今仕掛けるのは愚策というもの。セリカは未だ倒れたままのヘイズの元に歩み寄ると、
「いつまで寝ているのです。早く立ちなさい」
「……体を張った奴を、もう少し労ってくれても罰は当たらんと思うがな」
いつもと変わらぬ不機嫌そうな返答と共に、ヘイズが身を起こす。
「貴方があの程度で倒れるものですか」
先程の意趣返しとばかりに即答する。罰が悪そうに顔を顰めるヘイズに、思わず口元が綻んだ。
実際、あれ程の衝撃に見舞われながら、ヘイズの体に目立った傷は見当たらなかった。セリカと位置を交換する時には既に、『強化』の術によって防御力を最大限に高めていたのである。
それが分かっていたからこそ、セリカはヘイズを気にすることなく、即座に攻勢に転ずることができたのだった。
「とは言え助かりました。躱せるか微妙なところでしたから」
「礼はいらん。元はと言えばお前が俺を守ってくれた訳だしな。まあ、お前ならあの状況でも自分で何とかしたかもしれないが」
言いながら、ヘイズが短剣を抜く。彼の視線の先、一しきり話を終えたらしいアンドリューとヨハネスがこちらに向き直った。
「さて、小手調べはここまでだな。……うん。決めたぞ、俺はそちらの小僧の相手をするとしよう。中々骨があって楽しめそうだ」
「承知しました。では場を整えましょう」
ヨハネスがぱちり、と指を鳴らす。
魔術の発動を察知したセリカ達は、左右に散るように跳躍する。
すると液体金属が床から吹き上がり、天井にまで伸びていく。瞬く間に形成されたのは、重厚なる鋼の壁。
かくして分断された広間にて、セリカとヘイズは己が敵と向かい合う。
◇◇◇
(面倒なことになったな……)
セリカと引き離されたヘイズは内心で毒づきながら、目前の敵へと視線を戻す。
そこには悠々と佇むアンドリューの姿があった。
「さて、では始めるとしようか」
アンドリューが腰を落とし、拳を構える。
完全に体に馴染んだ、酷く洗練された所作。長年に渡って鍛え上げ、練達の域に至った武芸者の動きだった。
「商人という連中は得てして腕力ではなく、口先で闘うものだと思っていたんだがな」
「俺をそこらの木っ端と一緒にして貰っては困るな」
傲然とアンドリューはヘイズの揶揄を笑い飛ばす。
「若い頃から何かと敵が多くてなぁ。命が狙われたことなど、最早両の指では数え足りん」
物騒なことこの上ない内容だが、アンドリューの語り口はどこか懐かしむようだった。
きっと彼にとって、その頃は黄金時代だったのだろう。他者にとっては恐ろし気であったとしても、現在のアンドリューを作り上げた輝かしき思い出の断片。
「そんな訳で護衛の魔導士を雇いもしたが、これが中々金がかかる。しかも策謀によって俺から引き剥がされることも少なくなかったよ」
「だから鍛えたと?」
「応とも。ほら、体は資本と言うだろう?自分が強くなった方が生き残る確率は格段に高まる。何より鍛えるだけなら無料と来た。だから徒に多くの護衛を雇うより……安上りで済むのだよッ」
突如砲弾じみた勢いで、ヘイズに肉薄するアンドリュー。放たれる正拳突きが狙うは心臓である。
それを、ヘイズは半身をずらしていなした。紙一重での回避を選んだのは、反撃を狙ったがため。
短剣の切っ先を、老人の下顎から脳天を貫くべく突き出す。
されどアンドリューも然るもので、頭を傾けるだけでこれを易々と躱してのけた。
至近距離で、両者は視線をぶつけ合う。片や闘いの高揚に酔い痴れながら、片や敵への冷酷な殺意を漲らせながら。
「良い目だな、精々楽しませてくれよ小僧」
「舐めるなよ、素人が」
大商人と魔導士。余りにも異色すぎる組み合わせの死闘が、ここに幕を開けた。
◇◇◇
「おや、早速始まったようだね」
壁越しに伝わる轟音に、ヨハネスが呟いた。痺れるような空気の震えは、あちら側で繰り広げられている闘いの苛烈さを物語っている。
「盛り上がっている様で結構なことです」
対するセリカも動揺した素振りを全く見せず、淡々と述べた。そんな彼女の態度が意外だったのか、ヨハネスが訊ねてくる。
「随分と余裕そうだね。仲間のことが心配ではないのかな?」
セリカの目から見ても、アンドリュー・デズモンドは最早人ではない。現世の軛から完全に解き放たれ、今や神秘そのものに昇華されている。
おまけに強大な力は往々にして人を冗長させ、破滅を呼び込むものだが、先の攻防を見るに彼は思いの外慎重な性格だ。
油断せず、驕らず。時に大胆に、時に狡猾に、目的の達成を阻む障害を着実に排除する。そんな彼だからこそヨハネスは友誼を結び、計画を共に進めてきたのだ。
しかしセリカは表情一つ変えぬまま、頭を振った。
「特には。死ねばそこまでの男だったというだけのことでしょう」
迷いなく断言する。虚勢でも何でもなく、セリカは心底からヘイズのことを案じてなどいなかった。
何故なら予感があったから。
あの男ならば負けないと。きっと目を瞠る何かを見せてくれるに違いないと。
セリカ自身ですら驚いてしまう程の、理由も根拠も一切不明な予感が。
だから今は己に課せられた役割を果たすことに集中する。セリカは太刀を自然体で構えつつ、さりげなく腰に下げた懐中時計の蓋を撫ぜた。
「闘いを始める前に、一つ答え合わせに付き合って頂けませんか?」
「ふむ……?」
セリカの提案に、興味深そうにヨハネスが首を傾げる。
無防備とさえとれる態度だが、彼の視線一つでその足元に沸き立つ液体金属は牙を剥くだろう。
つまり今もって余談ならぬ状況ではあるのだが、表面上は綽綽とした風に微笑を浮かべて見せる。本来ならば今すぐ切り掛かりたい所ではあるのだが、こちらを引き受けたからには仕方がない。
そうしてセリカは初手から決定打を叩きつけた。さながら犯人が仕掛けた謎を暴き立てる探偵のように。
「貴方が吸血鬼達に造らせていた赤い水ですが――あれは『賢者の石』ですね?」




