1-11 夜に誘う 其之二
夜の帳が空を覆い、マルクトの街に享楽の光が灯り始めた頃。
ヘイズとセリカは港近くの閑静な裏路地に佇んでいた。
「流石にこの時間になると冷えますねぇ」
ほう、とセリカは宙に白い息を吐く。日中は陽が出ていたので比較的過ごしやすかったが、夜になると途端に冬の寒波が猛威を振るう。
道行く人々もどこか足早で、誘われるように無数のネオンの光の中へと消えていく。
そんな情景をぼんやりと眺めながら、ヘイズは退屈そうに欠伸を零した。この寒空の下、ただ人が来るのを待つというのは中々の苦行である。本でも持ってくれば良かったか、などと益体のない考えがつい頭に浮かんでしまう。
ヘイズもセリカも場慣れした魔導士なだけあり、これから行おうとしている事に対する気負いは一切感じられない。寧ろ緊張に欠けるとすら言い表せる程、彼らの間には和やかな空気が流れていた。
「そういえばオーナーが言っていましたが、ヘイズの故郷は大陸西部だそうですね。となると、アルビオン王国辺りの出身でしょうか」
「……あ?なんだよ、お前たちの頭領やシャロンさんから何も聞いてないのか」
ヘイズは意外そうにセリカを見る。昼間にシャロンから情報を買ったと言っていたので、こちらの事情も粗方知っているものだとばかり思っていたからだ。
「ええ、貴方の来歴については何も。そういった話は本人の口から直接聞くべきでしょうから」
「ああ、そう……」
きっぱりとした否定を返される。
どう反応したものか、困惑したようにヘイズは眉尻を下げた。傍若無人に人を振り回したかと思えば、こうして妙に潔かったりと、今一掴み所がない女だ。
ともあれヘイズの過去だが、取り立てて隠すようなことはない。丁度暇を持て余しているのだし、当たり障りのない範囲で答えることにする。
「お前の予想通り、俺の出身はアルビオン王国だよ。魔導士の免許取得を機に国を出て、各地を適当に巡って、半年程前にここに至る……という訳だ」
「おや、それでは私と同じような境遇なのですね」
「なんだ、お前もマルクトの外から来た口か?」
ええ、とセリカが首肯する。
「私は元々、帝国北東部にあるインベルという都市の出身なのです。数年前にオーナーからスカウトを受けて、このマルクトにやって来ました」
「へえ。ならこの場にいるのは、奇しくも長年いがみ合ってる国同士の出身って訳か」
「さて、表向きは友好関係を築いている事になっていますから、不用意な発言は控えた方が良いと思いますけどねぇ」
くつくつと皮肉気に笑うヘイズをセリカは咎めるものの、体裁を整えているだけなのは明白だった。何故ならヘイズが口にしたのは、大陸に住まう者に広く知れ渡っている事実であるため。
この大陸において帝国の名を冠するのは、エリジウム帝国をおいて他にない。
ヘイズの出身であるアルビオン王国とかの国は、どちらも巨大な規模とそれに見合うだけの古い歴史を誇る。史書によれば建国は星暦の黎明にまで遡り、隣接している事もあって資源や領土を巡る争いを幾度となく繰り広げてきたという。
公的な記録に残る最後の衝突は戦乱期の末期である。以降は大陸全土で和平と協調を重んじる風潮が高まり始めた事から、武力による争いは鳴りを潜めることとなった。
が、昔日から続く確執は早々解消されるものではない。争いは表立った場所から技術や経済、或いは諜報といった水面下へと移行し、現代においても未だ小競り合いが続けられているのが実情である。
周辺諸国も動向を見守る所か便乗し、暗闘は日々混迷を深めていくばかり。
もっとも、何も悪い面ばかりではない。
国同士が鎬を削り合うことで新たな技術が次々と誕生し、結果として今日の著しい魔導産業への発展へと繋がったのだから。
そんな具合でとりとめのない雑談を交わし、やがて話題の種が尽きてきた頃。丁度良い機会か、とヘイズは兼ねてからの疑問を訊ねることにした。
「一つ、昼からずっと気になっていた事があるんだが、聞いても良いか」
「どうぞ、私に答えられることであれば」
「何だってあんな詭弁を持ち出してまで、俺に協力させるんだ?」
今の状況について、ヘイズの中に不満はもうない。セリカは間違いなく一流の魔導士であり、『アンブラ』の情報網も期待できる。
だからまあ、精々利用させて貰おうと半ば開き直りとも言える境地ではいたのだが、それだけが気になっていた。
セリカと出会ってから言葉を交わした時間は短く、実力を見せた場面に至っては昨晩の一件のみである。にも拘らず、彼女は随分とヘイズを買ってくれているようだった。
その理由が分からない。だからこれを機に尋ねてみようと、そんな腹積もりだったのだが。
当の本人はと言うと、問いに対し顎に手を添え、思案気な顔を浮かべるばかりであった。
「……うーん、何故でしょう?」
「……おい、何となくでどこの馬の骨とも知らん在野の魔導士に声をかけたのか?」
呆れたとばかりに肩を竦めるヘイズを尻目に、セリカはしばし考えを巡らせる素振りを見せ、
「そうですね、似た者同士だと思ったからでしょうか」
やがてぽつりとそんな言葉を口にした。全く予想していなかった返答に、ヘイズは目を瞬かせる。
「意味が分からん」
「そうですか?私は結構、的を射ていると思っていますよ」
じっとヘイズに向けられる紫水の瞳。真っ直ぐ自分を見据える視線に訳もなく居た堪れなくなって、ヘイズは思わず顔を逸らした。
それっきり会話は途絶える。けれど人によっては気まずい沈黙も何故だろうか、不思議と居心地の悪さを感じない。セリカの発言の真意はともかく、こうした空気が苦にならないのは、確かに似通った部分があるからなのかもしれない。
そんな事を考えながら、ふと人の気配を感じて視線をそちらに向ける。すると、丁度路地の入口から男が歩いてくるのが見えた。酒が入っているらしく、顔は暗がりの中でもはっきり分かるくらいに赤らんでいて、足取りも覚束ない。
その容姿はシャロンから聞いていた特徴と一致する。ヘイズとセリカは無言で頷き合うと、男に近寄っていった。
「よう、あんたがエリックだな?」
「ああ?なんだ兄ちゃんたち……っと」
エリックの視線がセリカの方に向いた時、その鼻の下が分かり易く伸びた。まあ確かに見てくれは良いからなあ、と思いつつヘイズは話を続ける。
「最近、あんたの羽振りが随分良いって噂を耳にしてね。俺たちも最近商売を始めたんだが、これがどうも軌道に乗らない。儲かる卸先があるなら教えてくれないか?謝礼は弾むからさ」
「なんだ、兄ちゃんたちお仲間かよ」
エリックの瞳に警戒心が宿るのを、ヘイズは見て取った。恐らくはこちらを商売敵と認識したのだろう。
だが、それも直ぐに好色そうな趣に代わった。彼の視線はあからさまにヘイズの隣、無言で成り行きを見守るセリカの顔に向けられている。
「そうだなァ……そこの姉ちゃんがサービスしてくれるなら考えてやっても良いぜ?」
「悪いがこいつは……あー、うん、相棒?的な存在でな、商品じゃないんだ。金なら相応の額を払うから、それで勘弁しちゃくれないか」
「いやいや、金なら良いんだ。兄ちゃんの言う通り、最近はたんまり稼いでるからなぁ。ただちぃっと潤いにゃあ欠けていた所だったんだよ。なあに、一晩隣でお酌して貰うだけさ、良いだろ?」
欲望を隠そうともせず、エリックは気安くセリカの肩に触れようとする。
あ、とヘイズが咄嗟に制止の声を挙げるも既に遅かった。
「へ?」
間抜けた声はエリックが発したものだ。彼の体は弧を描くように宙を舞い、間もなく腰から地面に激突する。
止める暇も無い早業であった。腰を押さえて悶絶するエリックを尻目に、ヘイズは手で額を覆いつつ、この暴挙に及んだ犯人を睨みつける。
「お前……問答無用で投げ飛ばすなよ」
「そうでしょうか。腕を斬り落とさなっただけマシだと思うのですけど」
「左様で……」
全く悪びれる様子の無いセリカに、ヘイズは嘆息を零すしかない。
確かに初対面の女性に馴れ馴れしく触れようとしたエリックにも非はあるのだが、何の躊躇もなく暴力に打って出るのは如何なものかと思う。
そして当然、いきなり投げ飛ばされたエリックも黙っていない。顔を真っ赤にしてがなり立て始める。
「テメェら、いきなり何しやがる!」
こうなっては仕方がない。元よりこのような展開になる事も想定はしていたので、騒ぎを誰かに聞きつけられる前に片を付けよう。
取り繕っていた友好的な面相を崩し、ヘイズは冷たい眼差しでエリックを見下ろす。
「俺たちが誰かなんてどうでもいい。単刀直入に聞くぞ。お前はここ最近、誰と取引していた?」
「けっ、こんなことされて素直に答えるとでも思ってんのかよ!ああ!?」
怒髪冠を衝くとはこの事か、エリックは完全に頭に血が上っていて真面に取り合おうとしない。
「さて、どうしましょうか。無理にでも口を割らせることは出来ますが」
「あー、待て待て雇い主殿。ここは俺に任せてくれ、慣れてるしな」
これ以上セリカに任せると、本当にふとした拍子にエリックを切り捨ててしまいそうだった。
だが幸いなことに、ヘイズはこの手の輩の扱いを心得ている。
ヘイズは唾を散らすエリックに近づくと、胸倉を力任せに掴み上げた。そしてそのまま肺を圧迫するように壁に向かって押し付ける。
「ぐ、ぉ……テメェ、なにしやがる……!」
「少し黙れ」
だん、とエリックの首の僅か横に短剣を突き立てる。首の皮一枚に刃が食い込む絶妙な位置。あとほんの少し、柄を横に倒すだけでエリックの頸動脈は裂かれ、血が吹き出すことだろう。
「俺は同じことを言うのが嫌いだ。だから一度しか言わないから、よく聞け」
ヘイズはあくまでも滔々《とうとう》と、ともすると諭すような声色で言葉を紡ぐ。
このような場合、必要以上に凄む必要はない。体力の無駄だし、余計に相手の反骨心を煽りかねない。ゆえに意識するべきは相手に自分の立場を正しく理解させることである。
「お前が俺たちの質問に正直に答えてくれるなら、相応の報酬をくれてやる。ただし、俺たちは別にお前にこだわる必要はない。……百戦錬磨の商人殿、俺の言いたい事は分かってくれるな?」
「わ、分かった!分かったから放してくれ……!」
顔を蒼褪めさせたエリックは慌てて懇願する。
「流石ですねヘイズ、実に鮮やかな手管でした。私も見習わないといけませんね」
「全く嬉しくない褒め言葉をどうも」
とりあえず要求通り解放してやると、エリックは「くそっ」と悪態を吐きながらその場で胡坐をかいた。
「……で、何だよ。俺の取引相手を知りたいんだったか?」
「そうだ。お前が最近、何度か大量の自動人形の部品を卸した事は調べがついている。誰に依頼された」
ヘイズの質問に、エリックは不機嫌そうに答えた。
「お前らには悪いが、実は俺っちも相手先の事は全く知らねぇんだよ。何せ仕事を受けてから、一回も依頼主と会ってねぇんだからな」
「一度も?では商品の受け渡しはどうしていたのですか?」
「仲介役を名乗る奴と主にやり取りしていた。商品の受け渡しや報酬の支払いも含めてな。金払いは良かったし、そいつの背後に誰がついてるかなんてのは、正直どうでもよかった」
下手な藪を突きたくもないしな、とエリックは最後にそう締めくくった。裏稼業を営む人種らしい慎重さである。
「その仲介役とやらに会う事は可能か?」
「無理だな、基本的に連絡は向こうからなんでね」
予想していた返答に、そうだろうなとヘイズは内心で同意する。だが裏を返せば、用がある時は必ずエリックに接触してくるという意味でもある。
「なあ、エリック。次の商談の目途は立っているのか」
「あ?それがどうし……いや待て、まさか」
どうやらヘイズの言わんとしている事を察したらしい。エリックの顔が先程よりも更に色を失くす。
「無理、絶対無理だ!」
「何も引き合わせろとは言っていない。ただ次の商談が来た時に、俺達に一声かけてくれれば良いだけだ。後はこっちで勝手にする」
「勘弁してくれ!お前らが何を調べてるかは知らねえが、余計な事されちゃあ真っ先に俺に矛先が向くじゃねえか!」
エリックの危惧は最もである。闇商人である彼を利用する時点で、その客は非合法な手段を実行する事に躊躇いがない。そんな相手に保身のため情報を流した事が知られでもすれば……そこから先の展開は想像するまでもない。
だがヘイズ達としても、事件解決のための手掛かりは少しでも欲しいところだ。と、そこでセリカがさも今思い出したとばかりに口を開く。
「ああ、そういえば。この近くには貴方の根城があるそうですね。隠れ家も二番街にあるのだとか」
「っ……!」
エリックが愕然と目を剥く。非合法の商売に精を出す彼にとって、拠点は商品を保管する倉庫であると共にいざという時の逃げ場所でもあるのだ。つまりは闇商人として活動するための生命線であり、その所在を握られているともなれば内心穏やかではいられまい。
セリカは更に畳みかけるように続ける。その瞳に悪戯っぽい光が浮かんでいるのを、ヘイズは見逃さなかった。
「実に軍警局が欲しがりそうな情報です。一人捕まえれば芋づる式に、という事も珍しくないのですから。そうなれば最初に逮捕された者はさぞ恨みを買うでしょうね。……ああご安心ください、これは単に思い出した事実を述べただけです。気になさらずとも結構ですよ」
つい先ほど見習うなどと宣っていた人物とは思えない、実に悪辣な脅迫であった。
だが効果はあったようで、エリックは見るからに狼狽している。依頼主を探るのに手を貸すか、それとも軍警局から追われる身となるかの二択を天秤にかけているのだろう。
結局の所、彼が懸念しているのは自身の安全である。それさえ保障してやれば、こちらの要求を通す事も容易いだろう。
さてどう切り崩したものか。ヘイズは考えを巡らせる。
――彼の直感が危険を察知したのは、その瞬間であった。
「ヘイズ!」
セリカが声を上げるよりも早く、ヘイズは行動を起こしていた。足元のエリックの襟を掴み、後方に大きく跳躍する。
直後、彼が立っていた地面が捲れ上がった。石畳であったものは瞬く間に幾本もの杭と化し追いかけてくる。
後退を続けながら、ヘイズは空いた手で短剣を抜き放った。視界の悪さをまるで物ともせず、琥珀の瞳で自身を貫かんとする切っ先を正確無比に全て打ち払う。
「な、なんだぁ……!?」
エリックは何が起こったのか理解できず、へたり込んで目を白黒させている。だが彼を顧みている余裕はヘイズはもちろん、セリカにも無かった。
路地の奥にこびりつく濃密な暗闇。まるで奈落へと続くようなその場所から、視線を逸らす事が出来ない。
「行け」
顔も向けずに、ヘイズは短く命じた。
「へ……?」
「見逃してやると言っているんだ。つべこべ言わず表まで全力で走れ、邪魔だ!」
「は、はいぃ!」
凄むとエリックは脱兎の如く走り去っていく。
「何者ですか」
遠ざかる靴音を背に、セリカが暗闇に向かって冷ややかに問いかける。
するとじわり、と。さながら黒い紙の上に、白いインクの雫が滲むかのように。
闇の中からぼんやりと人の姿が浮かび上がった。
「こんばんは」
低く、落ち着き払った声が、路地の中に染み入る。
白い法衣をまとい、黒塗りの杖を手にした痩身の男だった。背中にまで届く射干玉の黒髪は艶に溢れ、面立ちは彫像の様に精密な均衡を体現している。
翻って紅の双眸に渦巻くのはどこまでも深く、どろどろと壊滅的なまでに煮詰められた妄念。ただ視線を向けられているだけで、泥の様な悪寒が背筋にまとわりつく。
それでいて男の存在はひたすらに希薄だった。目の前に確かに立っているのというのに、今にも見失ってしまいそうな程に現実感が無い。
そのただならぬ気配は明らかに常人が持って良いものではなかった。間違いなく魔導士で、それも最も性質の悪いタイプだろう。倫理道徳を踏みにじり、私欲のためにあらゆる冒涜を良しとする……端的に言えば人であることを辞めた者。
警戒も露わに、セリカが太刀の柄に手をかける。
対してその横に並び立つヘイズの反応はより顕著であった。彼はまるでありえないものを前にした時のような、驚愕と困惑の入り混じった眼で男を凝視している。
それに気付いた男は、ヘイズの方を興味深そうに一瞥すると、
「ああ、君は眼が……いや違うな、その手の感覚が鋭いのか。なるほど、これは羨ましくもあるが、同時に憐れむべきでもあるのかな?」
男がそう呟いた途端、ヘイズの眉が不愉快そうに歪む。それは憐憫の情を向けられた事による屈辱ではない。もっと彼の根本でくすぶり続ける、熾火の様な感情の発露に見えた。
両者のやり取りの意味をセリカは理解できなかったが、他の事に気を取られるには、眼前の男は余りにも不気味過ぎた。
「申し遅れた。私の名前はヨハネス・エヴァーリン、今宵は君達の命を頂戴すべく参上した」
麗しくも穏やかな笑顔の中に、隠しきれぬ程の魔性を宿しながら。
白い魔導士は恭しく一礼した。




