1-1 プロローグ
それは、とある冬の夜のことだった。
薄雲に煙る月が、淡い光を地上へと落としている。
時刻は既に日付を跨いだものの、街は未だ喧騒の最中にあった。
どこかの酒場で陽気な笑い声が上がり、どこかの賭博場で負けた者の悲鳴が上がる。数多の欲望と熱狂が至る所で渦を巻き、石畳の上を人々の影が踊るように闊歩する。
眠ることを忘れて絢爛に煌めく都市の姿は正しく不夜城。その街並を俯瞰すれば、満天の星空のように見えるかもしれない。
一方で、光が強くなる程、闇もまた色濃く浮き出るのが世の摂理だ。
表通りからほんの少し脇に逸れ、裏路地に足を向けてみれば。そこには夜が支配する別世界が待ち受けている。
屹立する摩天楼によって作り出された、都市の暗部。月明りはおろか、喧騒の微かな余韻さえも深い闇に呑まれて消えてしまう。
要するに、真っ当な感性を持つ人間からすれば、本能的な恐怖を喚起される、非常に近寄り難い場所であった。
従って、ここに敢えて足を踏み入れる者がいるとすれば、その性質は概ね二分されると考えて良いだろう。
即ち。
闇を友に謀を巡らす無頼の徒か。
――或いは図らずも迷い込んでしまった、哀れな獲物かのどちらかである。
「はっ……はっ……!」
荒々しい息遣いと靴音が、無音の夜気を搔き乱す。
コートを着込んだ年若い男が、路地裏を必死の形相で駆けていた。
「ああくそッ、ちくしょうッ!なんだってこんなことに!」
自らに降りかかった災難を、男は心の底から呪った。
ここまで休憩なしの全力疾走である。体力などとっくの昔に底を突いており、呼吸すらも覚束ない有様だった。
おまけに足全体が激痛を訴えていて、気を抜いたらすぐにでも転倒してしまいそう。
それでも、彼に立ち止まることは許されなかった。
理由は至って明快だ。そうした瞬間に、全てが終わるという確信を抱いていたため。
「いい加減、しつこいんだよ!」
男の怒声に応えはない。
だがいる。間違いなくいる。
姿は見えない。足音も聞こえない。
それでも一定の距離を保ったまま、"何か"が自分を追いかけている。
恐怖に膝が竦みそうになるのを懸命に堪えて、彼は疾走の速度を上げた。
――男はこの街に店を構える仕立て屋だった。
店こそ祖父の代から続いているものの、特段名が知られている訳ではなく、取引先も古くからの馴染みばかり。売り上げの方も時勢によって山と谷を繰り返し、帳簿と睨めっこを続ける平凡な生活。
それでも男は変化を望むことはなかった。
世の中には、分相応という言葉がある。
特筆できるような商才に恵まれなかった彼にとって、衣食住に困らず、偶の贅沢も享受できる今の環境は十分に満足できるものだった。
何より、この街では欲を欠いた者から破滅する。商人の家系に生まれた彼は、その事実を幼少の頃からよく言い含められていた。
だから今日も、普段と変わらぬ時間を過ごしたのだ。
客から一通りの仕事を受けた後は、店を閉めて仲間たちといつもの酒場に繰り出して盛り上がる。酔いが回った所を、幼馴染の女給仕に窘められるのもお決まりだ。
そんな細やかな日常を男は愛していたし、これからも続くと信じて疑っていなかった。
なのに、最後に待ち受けていたのはこの仕打ち。神様は何と残酷なのだろう!
「げほ……うぇ……!」
咳き込むと鉄臭いものが込み上げる。嘔吐いた拍子に目の下の辺りが熱くなって、鼻の奥がつんとした。
彼が普段立ち寄らぬ路地に踏み入ったのは、ちょっとした怠惰が原因である。
酔い潰れた友人を家まで送ったせいで、帰りが遅くなったから。余りの寒さに早く自宅の寝台に潜りたくて、近道しようと考えたから。
とは言え全ては後の祭りだ。彼が日常に戻るためには、追跡者を振り切る以外に道はない。
走って、走って、時折角を曲がって、また走る。
死にたくない。ただその一念だけが、男の体を愚直なまでに突き動かしていた。
そうして何度か角を通り過ぎた所で――ありふれた結末が彼を待ち受けていた。
「嘘、だろ……?」
愕然としたうめき声が、喉から溢れた。
逃走劇の果て、辿り着いたのは袋小路。冷たい石造りの壁は余りにも高く、分厚く、男の行く手を阻んでいた。
「あ、あぁ……」
男の中で何かが折れる音がした。
力なく、その場に膝を突く。途端、鉛のような疲労が全身に圧し掛かった。肉体的にも精神的にも、もう立ち上がることは出来そうにない。
――かつん。
背後で、乾いた靴音が鳴った。
弾かれたように、男は振り向く。視線の先、果てなく続く暗黒の奥から、追跡者がその姿を浮かび上がらせる。
それは、女の形をしていた。
俯きがちな面には深い陰が張り付いており、その表情を窺い知ることはできない。淡い夜風を浴びて朧げに揺れる輪郭は、墓場に佇む亡霊を彷彿とさせた。
だが何より男に恐怖を抱かせたのは、自らを見つめる双眸である。
ぼうと燐光を帯びた、鮮血で染め上げたような赤色の瞳。
そこにはあらゆる感情が宿っていなかった。力尽きた獲物を嘲笑う諧謔も、嬲り殺さんとする悪意も、何一つとして宿っていない。
丹念に磨かれた硝子玉のように、ただ男という風景を映しているだけ。
命の鼓動を一切感じさせない虚ろな雰囲気は、彼女が人ならざる何かであることを物語っていた。
「く、来るな……!」
間近に迫った死の恐怖に、男は這いつくばったまま後退するも、すぐに背中が壁に触れてしまう。
追跡者は相変わらず無言のままだった。緩慢な足取りでこちらに近づいてくる。
次の瞬間、彼の全身を浮遊感が包み込んでいた。
(……え?)
ぐるぐると目まぐるしく回る視界の端で、腕を振り上げた女の姿を捉える。
ああ、投げ飛ばされたのか。
他人事のようにそう思った頃には、男は地面に体を強かに打ち付けていた。
「あ、が……ッ!」
受け身など取れる筈もなく、背中から胸にかけて鈍い衝撃が突き抜ける。
元より荒事に無縁であったこともあり、激痛は男から自由を容易に奪い去った。地面をのたうち回り、酸素を求めて苦し気に喘ぐ。
そんな彼の襟首を、女は容赦なく締め上げた。
凄まじい力だ。なけなしの抵抗を試みても、まるでびくともしない。自分よりも明らかな細腕だと言うのに、鉄柱で押さえつけられているかのようだった。
「ひ……っ」
女の顔が、男の目の前に寄せられる。硝子玉の瞳と、視線が合う。
直後、頭の中をかき混ぜられるような感覚に襲われた。
脳髄から指先まで痺れが駆け抜け、四肢の力が急速に失われていく。ぐにゃぐにゃと視界が歪んで、頭の奥で激しい耳鳴りがする。
酒に酔った時より何倍も酷い酩酊感。ただひたすらに、気持ちが悪い。
「――――ッ」
これまで味わったことのない、言い知れぬ苦痛に男は悲鳴を上げようとした。
だが声が出ない。喉は自らの機能を忘れてしまったかのように、ひゅうひゅうと吐息を零すのみ。
そうしてだらりと脱力した男の眼前で、女はゆっくりと口を開いた。
露になるのは、異様に鋭く長い犬歯。……否、それは最早、牙と形容するのが相応しいだろう。
肉食獣を彷彿とさせる一対の牙が、男の首筋へと迫る。
果たして、その行為が何を意味するのか。
それを理解する前に、男の意識は闇の底へと沈んでいった。
至らぬ点が多々あるかと思いますが、どうぞよろしくお願いします。