『オサキキツネ』
遠くの家が焚き火を燃している。太陽は山の向こうに消えかかっていて、漏れる陽光が秋色の木々を赤く染める。
その中を甚平姿の少年は風呂敷を抱えて歩いていた。
彼の頬には少し血が滲んでいる。
暫く歩いて、ようやく大きな屋敷の前につくと、その縁側に座っていた幼い少女が歓声をあげた。綺麗に揃えられたおかっぱ頭がさらさら揺れる。
「おかえり! 幸太郎」
裸足のまま駆け寄ってきた薄桃色の着物の少女は、尾崎の顔の傷に気がついた。
「血が出てる」
「向こうの家の人に見つかっちゃって」
事も無げにそう返した尾崎は風呂敷から栗の実を幾つか取り出した。心配そうに傷を見ている少女に差し出す。
「これ、山で拾ったので。おやつにどうぞ」
「!! ありがとう、ばば様に茹でてもらってくる!」
ころころと表情の変わる少女に、尾崎の頬も緩む。元気よく奥に消えていく彼女を見送ってから、玄関に向かった。
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畳敷きの間。やけに高価そうな着物を来た壮年の男が尾崎を睨む。
「これだけか」
「ごめんなさい、でも、一等良いものを持ってきました」
風呂敷包みからは絹の布地と懐中時計が見えている。男は不満そうな態度を隠さずため息をついてみせた。
「憑き物の癖に役に立たん奴だ。他のオサキならもっと稼いできたのに」
男は煙管に火をつけながら呆れたように言った。
「まずお前は頭が目立つんさ。その、犬っころみたいな藁色の髪だよ」
次行く時は染めていけ、と髪をきつく掴んだ。
もういいとばかりに手を振る男に軽く頭を下げて、尾崎は部屋を出た。
出た先の部屋では、仲間達がひそひそと話をしている。
「今の旦那様はどうしようもないね」
「先代様の頃はまだ良かった、自分で畑を耕していたもの。今は我々に盗ませてばかりだよ」
「小豆飯もくれなくなった」
「向こうの山に弟の一族が暮らしていたろう、そっちに移ってもいいんじゃないか」
子どものような見た目の者も、小さなイタチのような姿の者も、口々に文句を言う。
尾崎が見ていることに気がついた彼らは、彼に同意を求めた。
「幸太郎、お前もこの屋敷にはほとほと愛想が尽きたんじゃないかい」
尾崎は困ったように眉をひそめると、視線をずらして曖昧に返事した。仲間達はそんな様子の彼を良くは思わなかったようだった。
「もしかして娘御に気兼ねしているのか。どうせ直ぐに大きくなって性根の悪い女になるよ」
「お前だって大して盗みが上手い訳じゃなし、役立たずでいるのも嫌だろう」
重ねて声を上げる同胞を振り切って廊下に出る。
「おれらは憑いた家から離れない、そうでしょう」
なんだか嫌な気持ちになって、冷たく言い放ってから足早に立ち去った。
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剥かれた栗が湯気を立てている。
「また、父様に怒られちゃったの?」
縁側で足をぶらぶらさせている少女が、口に栗を放り込みながらそう尋ねる。答えを聞く前に彼女は尾崎の頭をそっと撫でて言った。
「ね、オサキキツネは何でも思ったことを叶えてくれるんでしょう?」
「ええ……まあ。おれは全然上手く出来ないですけど」
「でも私、栗が食べたいなぁって思ってたところだったの。ちゃんと出来てるよ」
それは山で偶然見かけただけで……と口籠る尾崎に少女は笑いかける。
「私、お友達が欲しかったの」
この屋敷は山中深くで、一番近い里でも人の脚では半日かかる。決して、同年代の子供と遊べるような環境ではなかった。
「父様は遊んでくれないし、母様は死んでしまったし、ばば様とは外じゃ遊べないし。寂しかった。でも幸太郎が遊んでくれたんだよ」
尾崎の手を掴んで顔を近づける。
「私ね、盗んだ物なんて要らない。綺麗な着物も、豪華なお皿も要らない。幸太郎が父様の言うように盗めないのはきっと、私がそう思ってるからなんだよ」
幸太郎は私の思ってることを叶えてくれてるんだよ、と説得するように語りかける。
彼女の真っ直ぐな瞳を見つめた尾崎は手を握り返して目を細めた。
「……そう、そうかもしれませんね」
彼女なら大丈夫だと、心底から思えた。少女のことが好きだった。彼女が幸せになれると信じて疑わなかった。
彼女と同じように尾崎もまだ子供だった。
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「私、大人になったら町に行ってみたいな」
いつか連れてってあげます
「そしたらねぇ、見たことないお菓子を一緒に食べようね」
お小遣い沢山準備しないとですね
「あ、その前に学校にも行きたいなぁ」
きっとお友達がたくさん出来ますよ
「でも幸太郎が一番の友達だからね、心配しないでね」
心配なんかしませんよ
「うふふ、楽しみだねぇ」
そうですね
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あの日はちょっと遠くへ行って、街で小さなかんざしを買ったのだ。帰るのが遅くなったのをどうやって謝ろうか考えながら田んぼの中のあぜ道を進んでいた。
すると向こうからふらふらと寄ってくる獣がいて、それはよく見れば自分の同胞であった。身体を引き擦るように這うように、死にかけのオサキキツネが近づいてくる。
「な、何が」
驚いて声をかけると、相手は力を振り絞って人の姿に変化し、尾崎に縋りついた。
「ススキだ。里の奴ら、術師を雇いやがった」
平安の世から術師の連合として存在してきたススキが、近頃その体制を一新したという話があった。朝廷のいち部署という立場をやめ、民間からも依頼を受けて妖怪退治をする、傭兵じみた路線変更をしたという。
そんなススキが屋敷を襲ったとその仲間は言った。それから詳しいことを聞く前に彼は息絶え、姿が溶けるように掻き消えてしまった。
草履を脱いで裸足になって勢いよく駆け出した。山道に差しかかっても、かんざしを握り締めて、足裏が傷つくのも厭わない。
木々の間を抜けて広い土地に飛び出、見慣れたあの光景を期待するが、既に屋敷はそこに無かった。
完膚なきまでに崩壊した屋敷。あれほど沢山いた仲間達の姿は何処にもない。呆然としてゆっくり足を進めると、瓦礫の中に薄桃色の布切れが見えた。
傍に寄ってみたけれど、そこに生きているものの匂いはしなくて、何度も確認したけれど、あの子みたいな何かがあるだけだった。
かんざしを地面にそっと置いて、黙って考え込んでいた。後処理をしにススキが戻ってくるかもしれなかったからいつまでもいる訳にはいかないが、それでもそこを離れられなかった。
どうしたらあの子の願いが叶えられるか考えた。考えて、考えて、考えて、考えて、食べることにした。
案外、たくさん食べられるものだった。
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その後は町へ下りて、放浪の旅に出た。
舶来の菓子を齧りながら海を見た。都の人混みには驚かされた。歴史ある寺社仏閣を巡った。
戦後の混乱に紛れて初めて学校に通ってからは、何回も何回も場所を変えて学生を繰り返した。友達が何人も出来た。卒業するまでの一時の関係に過ぎなかったが、気のいい奴ばかりであった。
あの子の為に何回も学生生活を続ける内、いつからか自分がそれを楽しんでいることに気がついた。すると急に怖くなってきた。ススキはきっと今も自分の行方を探しているに違いない。見つかれば今の生活は二度と手に入らないだろう。
ススキ機関と関わりのありそうな所は徹底して避けた。心霊スポットや神社には近寄りもしなくなった。
それも、昨日までのことだったが。
雛菊小雪には申し訳のないことをしてしまったと思う。自分が弱かったから、心のどこかで、きっと助けてもらえると期待してしまった。優しさに甘えてしまった。巻き込んでしまった。
自分の生活を守りたいが為だけに。
だから、ここでススキに捕まろうと、それはきっと天罰に違いない。
まだ心の何処かで、誰かにそれを否定してほしい自分がいることに、尾崎はひっそり苦笑いをした。