『異界神社』【序】
「ありがとうございます! ありがとうございます!」
蜘蛛がせわしなく脚を動かして、拝むような動きを見せる。小雪は少し進みを速めて、遅れを取り戻そうとした。
「あの門のあるお家だね」
「そうです、そこでございます」
広い庭だと前々から思っていた家が、蜘蛛の目的地であった。
「あの家に何の用があるの?」
「家人の方へお礼をしに行くのです。娘があそこに住んでいたのです。孫も産まれたと話を聞いていました」
「そうなんだ、良かったね」
「本当に、ええ本当に」
話し終わる頃に丁度着き、門柱の上に乗せてやる。
「ありがとうございます、貴方のように蜘蛛に親切な方はなかなか居りません。ああ、この御恩は忘れませんとも」
「そんな大袈裟なことじゃないよ、気にしないで」
「ええと、申し訳ありません親切な方、あと一つだけお願いしてもよろしいですか、お願いします」
「どうしたの?」
「門を開け、『どうぞ』と招いては頂けませんか」
「え?」
小雪が首を傾げる。蜘蛛の身体であれば門を開けて入る必要はない筈だ。
「門の下から潜れない? それくらいの隙間はあると思うんだけど」
「隙間はありますが、入れません。私は入れません。開けてください」
「だ、駄目だよ、勝手に開けたら。私はここの家の人じゃないもの」
「招きの言葉だけでも構いませんよ。招きの言葉が大切なのです。さあ、親切な方、さあ」
小雪は後退る。
「困ります、ここまで来たのに、入れません。招いてください。招いてください」
蜘蛛は脚をバタバタと動かして迫る。
「ススキが、邪魔をしています。入れなかったら、私は、私は」
ススキ、という言葉を聞いて、小雪は昨日のアルヴィンとの会話を思い出した。
そして、もう一度、訊いた。
「貴方、この家へ何しに行くの……?」
その瞬間、大きなヒトの顔が、上からこちらを覗き込んでいた。
「お礼ですよ」
耳にまとわりつくような雑音交じりの声。大きな蜘蛛が、人面の蜘蛛が、目と鼻の先にいる。
声も出ず、足も動かず、息が詰まったまま立ち呆ける。
「ああ、恨めしや、恨めしや。我が娘、我が孫が何をした、蠅を食らい、蚊を食らい、人に役立ち生きていただけというのに」
蜘蛛というだけで殺されなければならぬとは。
「恨めしや、恨めしや。ススキは何故あ奴らを守る。小癪な結界など貼りおって、憎い、憎い、人が憎い」
どろどろと口から唾液を溢し、蜘蛛はゆっくりと小雪を睨めつけた。
「憎い」
純粋な敵意というものを、小雪は今初めて受けた。肌がビリビリとして、目を逸らすことは出来なくて、何かをしようとする考えさえ浮かばない。
────これが怪異なんだ。
先程までどれだけ好意的であろうと関係ない。その心を人間の物差しで測ることは出来ない。
ここで終わりだ、と思った。食べられるとか死ぬとかじゃなくて、これでお終い。というか、今以降の自分が何も想像出来なかった。
蜘蛛の首が落ちるまでは。
気が付くと、気味の悪い人の顔がごろりと足元を転がっていて、蜘蛛の胴体からは粘液がとめどなく溢れていた。誰の悲鳴もない。まだ意識があるらしい蜘蛛が、ぎょろりと目玉を動かして、呟いた。
「…………なんと醜き我が身かな」
それから黒い靄のようになって、消えてしまった。小雪は何も言えないまま顔を上げる。今まで蜘蛛がいた場所より少し向こうに、若い男が立っている。
朝方とはいえ、じっとり汗ばむ時季に黒スーツ。漫画の中から飛び出してきたかのように、手には日本刀。
「危ないところでしたね、お嬢さん」
そう言われて初めて、この人が蜘蛛を退治したのだと気がついた。
「ところで貴女、まだ呪われているようですが」
男が近寄ってくる。
どこかまだぼんやりしていた頭が、急に引き戻された。よぎったのは先程の光景。男はまだ刀を抜いたままだった。
「アンケートさん!」
反射的に叫ぶ。男が振り抜いてきた刃を、赤黒い鋏が食い止める。彼が狙っていたのは、小雪ではなく『アンケートさん』だった。
男は止められたと見るや直ぐに刃を引き、素早く突きを繰り出す。鎌がそれを弾いた。
「な、何するんですか!」
慌てて叫ぶ小雪に、男は不思議そうな顔をした。
「はて、呪われているご自覚が無い?」
「分かってます、分かってますけど!」
「なら大人しくしててくださいね。間違えて斬ってしまうかもしれません」
スーツの男の攻撃の手はさらに速度を上げ、アンケートさんはじりじりと押され始める。遂に鋏が押し負けて跳ね飛び、空いた左側からもろに一太刀食らってしまった。
アンケートさん、と呼びかけようとするが、声が出ない。異形の姿がすっぱりと両断され、掻き消えた。
小雪は力が抜けて、ぽす、と座り込んでしまった。
男が刀を鞘にしまい、小雪に手を差し出してくる。
「大丈夫で…………」
言い終わらない内に男が横に吹き飛ぶ。そのまま勢い良く塀に叩きつけられた。
再び姿を現したアンケートさんが、蹴りを入れたのだ。相手も流石に直ぐには立ち上がれないようで、うずくまったままだった。
理解の追いつかないまま、小雪はアンケートさんに抱えられて学校へ運ばれた。
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男がようやく意識をはっきりと取り戻すと、少女も怪談もいなくなっていた。
「ケケケ、まともに食らったなァ! 綴」
姿のない声が聞こえる。
「油断しました。あの怪談の本質は別のところにあるようですね」
綴、と呼ばれた男はスーツについた砂埃を叩いて落とした。
「忠義、何か解ったことはありますか?」
「何も解らん」
「何も解らないということが分かった、ということにしましょう」
すぐ向こうに見える高校の校舎を見てから、男は歩き出した。
「一度支部へ戻りますか。薬を切らしてしまいました」
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「雛菊さん今日遅かったね、何かあった?」
部活も終わり、手を洗いながら部長がそう尋ねてくる。彼女は気の良い人で、誰でも分け隔て無く話しかけてくれるような人だった。
「えっと……変な人に会って…………」
絵の具を落とした筆を布で拭く。部室には、秋の展覧会へ出す絵が所狭しと並べられている。
「不審者ってこと? 大丈夫だったの?」
「はい…………まあ……」
部活のほうぼうから、「暑いのが続くとねー」「向こうの本屋に露出狂いたんでしょ?」「ヤバーイ」と声が上がる。
「先輩いつも一人で通学してるんですから気をつけてくださいよー?」
後輩にも釘を刺されてしまった。
先生にも言っときなー、と声を受けながら、部室を出て廊下を歩く。
両側に教室のあるこの古校舎は、どうにも廊下が薄暗い。渡り廊下まで出てしまえばかなり明るくなるのだが、その明暗差が少し苦手だった。
校舎を移り、階段を降りようとして、ぎょっとする。廊下から死角になっている位置に生徒が体育座りで啜り泣いていたのだ。
(私と同じ色の上靴……二年生だ)
「あの……大丈夫?」
素通りするのも冷たいような気がして、声をかけた。
「ここでしゃがんでると危ないよ」
生徒はごにょごにょと返事をした。
「…………てください」
「え?」
「肝試し一緒にづいでぎでぐだざい!!」
「………………え?」
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自販機からコーラが転がり出てくる。蓋を開けると、爽快感のあるあの音と共に白い煙が洩れ出した。
「尾崎くん……だっけ、二組の」
「覚えててくれたんすか! ヤッター!」
尾崎幸太郎は小雪と同じ高校二年生で、陸上部に所属していた筈だ。彼は小雪よりも背が低く、本人の態度も相まって年下を相手にしているような気分になってくる。
「それで、どうして肝試しなんて」
「隣町に神社があるじゃないっすか、それで部活の人達で肝試しに行こうって話になって……でもオレ怖くて行かなかったんす」
隣町の神社というのは随分と古びた小さな社だけの場所で、周囲が木に囲まれていて昼間でも薄ら寒く仄暗い為に、子供達からは心霊スポットとして恐れられていた。
「そしたら先輩とか同い年の奴らにチキンって言われ゛で…………!」
話している内にまた泣きそうになる。
「お、落ち着いて、ほら、ティッシュティッシュ」
「あ゛り゛か゛と゛う゛」
ずびーーーっと一際大きい音が鳴る。
「だから後からでも行って写真撮ってくれば見返せるかなって思ったんすけど…………」
「一人じゃ怖かったんだね」
「うす」
朝に怖い思いをした手前、あまりそういうことに首を突っ込みたくはない。けれど、ここまで事情を聞いておきながら行かないというのも酷な話だ。
「しょうがないね、一緒に行こう」
「いいんすか!?」
「良いよ、いつ?」
尾崎は心底嬉しそうな顔をしている。勢い良く振られる尻尾が目に見えるようだった。
「先輩たちは今晩行くって。だから明日の夜にどうすか」
「明日ね、分かった」
連絡先を交換して、その日は別れた。
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明くる日、とある街角。
「はい、俺です」
「そうですか、神社ですね」
「はい、…………はい、分かりました」
「早急に解決します」