『尾崎幸太郎の怖い話』
「こんちゃっす」
病室の戸から尾崎が顔を覗かせていた。物部が手招きすると小走りで寄ってくる。
「知った匂いがするなあと思ってたんすよね〜! …………なんか大怪我っぽいっすけど大丈夫なんすか?」
「…………………………別に?」
「ぜってー嘘じゃん……」
それから尾崎はベッド横の椅子に座って、何をするかと思えば、ずっともじもじしている。何かを喋ろうと何度も口を開いてはやめる。どうにも挙動がおかしいので理由を問うと、尾崎は少し躊躇った後に小声で話し始めた。
「実はさっき……」
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そもそも今、尾崎が病院にいるのは友人の見舞いのためだった。神社の件で負傷していた部活の仲間たちが、もうすぐ退院出来そうだということで様子を見に来たのだ。
「なんでか記憶があやふやでさ、すっげえ怖かったことしか覚えてないんだけど、尾崎が助けてくれたような気がするんだよな」
「やだなあ、そんな訳ないじゃないっすか」
部長の言葉に半笑いで返す。ススキ機関の記憶消去はしっかり効いているようだった。
「おれそろそろ帰るんで、お大事に」
「ありがとな尾崎! 今度の差し入れエロ本くれ」
「買える訳ないでしょ! もう!」
失笑して病室を出る。エナメルのてらてらした床を暫く進むと、急に寒気がした。直感的に、何か来る、と思って視線を上げると、そこにエレベーターが丁度上がってきて、見舞い客らしい老婦人が降りてきた。
その背後だ。カートを押して看護師が、老婦人に続いてエレベーターを降りる。
顔のない看護師が。
首がすっぱり落ちたみたいに赤黒い断面を見せている。そこから勢い良く噴き出す血が、看護師の通った後を汚した。老婦人は看護師を気にも止めない。それもそうだ、見えていないのだから。
汗でじんわり掌が湿っていくのを感じながら、尾崎はゆっくりと踵を返した。気づいていることを、気づかれぬように。
友人達の病室に戻って、見慣れた顔に少し安心する。
「どうした? 忘れ物?」
きょとんとして尋ねてくる部長に生返事をしつつ、息を整え、すれ違う心構えをした。ああいう手合いは、目を合わせず、見えている素振りをせず、何ということはない風にすれ違うのが一番なのだ。
再び廊下に出て、キュッと足音を立てて右に進路を変えた時、その心構えも何もかもが吹き飛んだ。
目の前にあの看護師が立っている。
内臓が縮み過ぎてブラックホールになるんじゃないか、というくらいの怖気がする。しっかりバレてんじゃん、出待ちとかズルだろ、色々な思考が脳内を走り抜けた。
一瞬動きを止めた尾崎に、看護師がずるりと手を突き出してくる。反射的に躱してしまった尾崎は、咄嗟に前のめりになって膝をつく。
「す、滑るなあこの床……」
緊張で乾いた、わざとらしい声だったが、看護師を誤魔化すには十分事足りたらしい。何でもないように再び歩き出した尾崎は、骨まで拍動する心臓を胸に、少しだけ足早に去った。
その背中にまだ、ぬるついた気配を感じながら。
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「そんで階段降りたら見知った匂いがしたもんで、覗いてみたんすよ」
「それはまた何というか……妖怪のくせに怪奇現象に巻き込まれがちですね、あなたは」
「ああいうヤベーのとおれらを一緒くたにしないで欲しいっす!」
尾崎は小声で反論する。彼らにとってもアレは、よく分からない、怖いものであるらしい。
「しかしそんな怪異がこの病院をうろついていたとは気が付きませんでした。遊馬さんも何も言っていませんでしたし」
「いやあ気付けないと思うっすよ、ほぼ裏にいるようなもんでしたし」
「裏?」
「いわゆるアッチ側って奴っすね。何つーのかな、世界が……重なってる? みたいな」
曰く、規則正しいコチラ側とは正反対に時間も距離も物理法則も歪んだ、人智の及ばぬ領域なのだという。人間如きには見ることも叶わない、混沌と狂気の混合。
「ほんと、引きずり込まれたらどうしよう〜って感じっすよ」
肩をすくめて言った尾崎が、遊馬の置いていった雑誌をパラパラめくる。
物部が横目で時計を見るともう夕方になっている。季節柄、外はまだ明るいが、暗くなり始めればすぐ闇に染まるだろう。
「そろそろ帰った方が良いのでは? あんまり遅くなると幾らあなたでも危ないですよ」
そう告げると、尾崎は目を丸くしてから、背を丸めて上目遣いにこう言った。
「もう少し時間潰していいっすか?」
「まだ、後ろにいるんすよ」




