8.王太子の熱情
「僕は、待っていて、と言ったはずだよ。なのに、あの男は何?」
こちらに一歩づつ近づきながら彼が声をかけてくる。
静かな声だった。だがその奥底に熾火のような熱が隠されている。それが分かる。
怖い。リージェは彼のことを初めてそう思った。
「あの男とぴたりと重なって踊りながら、君は笑っていた。この半年、僕にはそんな顔を見せたこともないのに。僕が君の妹とばかりいるから? だから君は他の男と? ……僕だって、できるなら君とだけ踊りたい。なのに」
空気が重い。いつもとは違う彼に気圧されてリージェは後ずさる。それを見て目をすがめたクロードが、さらに前へ進んで開いた距離を埋める。周囲の皆もしんっと固唾をのんでこの場を見守っている。
「何か渡されたようだね。それはなんだい? 僕の婚約者として、他の男から受け取ってよいもの? 今はどこにあるか見えないけど、どこへ隠したの?」
見えない? 今もこの指にはまっているのに?
急にあの男の言った、命の炎が見えると言う不吉な言葉を思い出した。リージェの命が危ういという予言も。だからだろうか。指輪のはまった手をつい隠してしまったのは。ぴくりとクロードの眉が上がる。
「何を隠したの。僕には見せられないものかい?」
クロードがさらに歩を進めた。一気にリージェとの距離をつめ、肩をつかむ。
「リージェ、僕は……!」
激情を隠さない声だった。いつも周囲に気を配り、完璧な礼儀で己を覆っている人が余裕のなさを隠せずにいる。それでも人前だということを思い出したのか、このままではリージェを傷つけてしまうと思ったのか。彼はリージェを揺さぶろうとした自分の手を押しとどめ、顔を伏せると、別人のような声でつぶやいた。
「つかれただろう、リージェ。別室にいこう」
「……っ、殿下、何を」
リージェは思わず悲鳴に近い声を出していた。有無を言わせず、クロードがリージェを抱き上げたからだ。しかも彼はそのままリージェを広間の外へ連れて行こうとする。リージェはあわててクロードをたしなめた。
「殿下、まだ夜会が、人が見て……」
「かまわない。何とでも好きに噂させておけばいい。皆が決めた公平性を重んじる、でないと君を選んだ時、私情で選ばれた妃と君が責められる。だから我慢した。君の妹とも交流する建前を貫いてきた。だがもう限界だ」
最初からこうすればよかったんだ、と。
吐き捨てるように言うと、彼は足早に広間を出た。驚く侍従や護衛の横を通り、休憩用にと用意された客間の一つに入る。ばたんと後ろ手に扉を閉めると、彼はリージェを長椅子に降ろすなり激しくかき抱いた。
「で、殿下……?」
俗世に戻って二年、彼に婚約者として接してきた。だが彼はいつも品行方正な王子の態度を崩さなかった。だからリージェはこんな強引な真似をされたことがない。
「……頼むよ、リージェ。君と僕は神託によって引き合わされた仲だ。愛など介在する余地のない、政略結婚と変わらない間柄だ。僕も最初はそう思っていた。だけど今は違う。僕は君をただ一人の伴侶だと思ってる」
それはリージェも同じだ。物心ついたころからずっと彼の妃になるのだと言われて育った。彼以外知らない。だが彼はそんなリージェの言葉が気に入らないと言う。足りない、とばかりにさらに深く、強くリージェを抱きしめる。
「初めて会った時、君は言ったね、初対面の記念の贈り物は何がいいと僕が聞いた時に。君は、ひとかけらでいい、愛というものが欲しいと言った。僕はあの時、目が開いた思いがした。あの時から誰が何と言おうと僕の妃は君しかいない」
彼は絞り出すように言った。
「あれから何度、聖域にいる幼い君の元へ面会に行かなかったと自分を責めたか。そうすれば、君の父君より深い愛を得られていたかもしれないのに。もう遅いのかい? 今さら君の愛を得ることなどできない? もしそうでないなら、欠片でも望みがあるなら頼む。君さえ望むなら今すぐにでも恋人の愛だって、家族の愛だって、なんだって僕は与えてあげる。だからお願いだ、リージェ。僕を愛して。神が定めた相手という建前ではなく、一人の男として僕を見て。そして妹の手ではなく自分の手を取ってと言ってほしい」
彼が自分の想いを綴る。
「……僕は、一人の女性だけを愛したいんだ」
それは彼の心からの言葉だと、聞いた誰もが分かる声だった。
リージェは混乱した。彼のことは好きだ。だが彼が言う一人の男としてという感覚が分からない。今のまま、婚約者としての彼を頼りにし、好ましく思う。それだけではだめなのか?
クロードの息が首筋にかかっている。熱い。熱いのは彼の息だけではない。リージェを逃すまいと抱きすくめる腕も、厚い胸板も。彼のすべてが熱を持っている。
向けられる激しい熱。これが愛というものか。
リージェにはわからない。
父母が言う「殿下は誠実な方だからお前にも声をかけているだけ」との言葉が脳裏にちらつく。それに父の顔も。聖域に会いに来てくれた時の父の優しい顔。そして都で再会した時の困った顔。その隣には頬を膨らませたマリアージュがいた。「お姉さんだから、少しだけ我慢してくれるかい?」そう、申し訳なさそうに言っていた父の顔がリージェを見る度に嫌悪をにじませるようになるまで時間はかからなかった。
人は変わる。あっという間に。愛してほしいというリージェの勝手な望みを父は持て余した。クロードがそうではないと誰が言いきれる?
リージェはこの人が好きだ。だからこそ父のように失望させたくない。嫌われたくない。だから彼の言う愛と自分が望む愛、その違いがはっきりしないと前には進めない。
黙ったままのリージェに、クロードがかすれたような声を出す。
「どちらが聖王妃か力に目覚めないとわからない。だから君は応えてくれないの? 君はもう十七歳だ。なのにまだ力は発現しない。そもそも二人の候補が生まれること自体が異例だ。君たちのどちらかがここ数年の間に覚醒すると誰が言いきれる? へたをすれば十年、二十年と時間だけが無為に過ぎていくかもしれない。その間、どちらがほんものの聖王妃かわからないまま、僕はずっと待ち続けることになるのか?」
むごすぎるよ、と言う彼の顔が、苦し気に歪んでいた。
「リージェ、君の妹が現れなければ、僕たちはもうとっくに結婚していたんだよ。君が十六歳になった瞬間に」
言うなり、クロードがリージェを長椅子の上に押し倒した。驚く暇もなく、硬く重い男の体が覆いかぶさってくる。
「で、殿下?!」
「リージェ、愛してる」
彼がリージェの胸に顔を埋めながら言う。
「僕だって生身の男だ。さっきも言っただろう? もう限界なんだ。いや、違う、僕が苦しいのは君の心が見えないからだ。妹に遠慮ばかりして、僕を欲しいと言ってくれないから。君は僕をどう思っているんだい?」
悲痛な声に、リージェはただ、殿下、と呼びかけることしかできない。
「聖女のような君、流れる水のようにすべてを受け入れるように育てられた君。なら……このまま僕が君を汚しても、君は受け入れてくれるのかな。あのひどい家族のしうちにもずっと黙って耐えている君なら、今、僕が君を自分のものにしても僕を嫌わずにいてくれる……?」
何を言い出すのか。びくり、とリージェの体が強張る。クロードが立ち上がった。そのまま扉まで歩いていき、鍵をかける。
金属がきしむ音が、部屋に重く響いた。
リージェは聖域育ちだ。男女のことはよく知らない。だが俗世に戻ってから妃教育の一環として教師から知識は授けられた。だからこの状況が何を示しているか、彼が何を求めているかは薄々分かる。
「殿、下……?」
問いかける声が我ながらおかしいほどふるえていた。
がたがたとふるえるリージェを見たクロードの顔が、くしゃりと歪む。
「……リージェ。僕は」
そして彼はふり切るように顔を背けると、扉に両手をついた。
いきなり自分の額を扉に打ち付ける。
がんっと痛そうな音がした。
「殿下っ?!」
「……何でもない。頭を冷やしているだけだ。だから怯えないで」
ごめん。これ以上、強引なことはしないから、と彼が言った。
ふり向いた彼の額から血が出ている。扉の装飾で切ったのか。
目の前で大切な人が血を流している。その衝撃で頭がいっぱいになったリージェはあわててドレスの隠しから手巾をとり出すと駆け寄った。
「殿下、かがんでください、いいえ、どうかそちらにお座りになって」
彼の傷に手巾をあて、支えるとクロードが言った。
「……僕が怖くないの?」
「え?」
「ふつうはこの隙に逃げようとするよ。僕は君にひどいことをしようとした」
「で、でも、怪我を……」
「君は優しいね。だけど覚えておいて。僕は……君の前では完璧な王子であろうとしているけど、本当はいつだって君に触れたいと思ってる。だからこの距離は危ないんだ」
言われて、ぴくりとリージェの手がゆれた。先ほどの恐怖がよみがえる。でも……。
「……私は、殿下を信じています」
リージェは言った。
さっきは突然でおびえてしまったが、落ち着いて考えればこの人が人の嫌がる真似をするわけがない。一時の熱情にかられて動く人なら、二年もの間こちらの我儘に辛抱強く付き合ってなどくれなかった。そんな彼をここまで追い詰めたのは。
「……私が悪いのです。妃教育を受けたはずなのに、周りに与える影響も考えず、見ず知らずの方と踊ったりしたから」
そんな真似をすれば、クロードの名に傷がつくのに。
せっかく彼がリージェの立場を回復させようと手を尽くしてくれた夜だったのに。どう考えても悪いのは、軽率だったのは自分だ。
「ですから、せめてこの血が止まるまで私をここにおいてください。それとも……私がお傍にいることで殿下のお悩みが増すのなら。これ以上、殿下のお心を煩わせはしません。お暇をちょうだいいたします」
唇を噛んで離れようとすると「待って、行かないで」と彼がリージェを止めた。無意識のように腕をつかみ、それに気づくとあわてて手を離す。
「……ごめん。今さらこんなことを言える立場じゃないけど。傍にいて欲しい」
そしてかすかに目をそらせて言った。
「こんなことをしてしまった僕をもう信じられないかもしれないが君が嫌がることは絶対にしない。誓う。だから僕のためを思ってくれるなら、どうかここにいて。……僕の心を煽るのは君だけど、僕を鎮められるのも君だけなんだ」




