7.異国の男
どうしてこうなったのだろう。
リージェは内心、首を傾げながらダンスのステップを踏んでいた。
聞きなれない異国のイントネーションで見知らぬ男に話しかけられたのは、クロードがマリアージュの手を取り、広間の中央に出たすぐ後のことだった。
「もう殿下はいらっしゃらないのだから、こんな上座にいては無礼だろう」
父に言われて玉座の傍から下がり、離れた柱の陰の目立たない一画に移動した時だ。
男が、父に声をかけてきた。
「これはリリューシュ侯爵、お久しぶりです」
父が怪訝そうな顔で向き直る。
「えっと、君は。誰だったかな……」
「これはつれない、侯爵閣下。私をお忘れですか?」
「あ、ああ……そうだった。君か」
話すうちにとろんとした目になった父が、リージェの背を押して命じた。
「リージェ、この方は私の恩人だ。異国の人でな、この国には慣れておられない。だから殿下が戻られるまでお前がお相手しなさい」
え? と聞きなおす暇もなかった。フロアに引き出されて踊る羽目になっていた。
いったいどういう人なのだろう。恩人と聞いたがまだ若い。父とはどこで知り合ったのか。
(殿下に「どこにもいかずここにいてくれ」と言われたのだけど……)
今さら踊りの輪を外れるわけにもいかず一曲だけと思いつきあうことにした。が、リージェは今までクロードとしか踊ったことがない。男の強引なリードについていくだけでせいいっぱいだ。相手をしろと言われても気の利いた会話が喉から出てこない。
だが男は気にしないようだ。
「いい気持ちだな、この国の貴族どもが注目しているぞ。聖女と踊るあの男は誰だとな」
異国の人だからか、聖王妃ではなく聖女とリージェのことを呼び、気分よさそうに派手なターンを加える。このままでは悪目立ちをする。声をかけ、諫めようとして、最初に礼儀として紹介されたはずの彼の名がすっぽりと記憶から抜け落ちていることにリージェは気がついた。いくら頭をひねっても思い出せない。
とまどうリージェに彼が問いかけてきた。
「見事なサファイアだ」
「え」
「それにドレスの色も。あの王子の色だ」
言われて、自分の装いを見る。青に白金。それで父が機嫌を悪くして、皆の前だというのに強引に殿下にマリアージュの相手を願ったのかと納得した。
「美しい白銀の髪にアメジストの瞳、お前なら紫のドレスや黒が似合うだろう。そこをあえて青にした。婚約者に己の色をまとわせ皆に見せつけるとは独占欲の強いことだ。なのに当の思い人のお願いで他の女と踊らされるはめになるとは、今頃はらわたが煮えくり返っているだろうな、あの王子は」
言って男が背後に眼をやる。つられて見ると遠くフロアの中央でクロードとマリアージュが寄り添い踊る姿があった。願ったのは自分だ。それでも見ないようにしていたのに視界に納めてしまい、リージェはあわてて顔をそむける。そんなリージェを男がじっと観察している。
「姉妹だそうだな」
リージェは黙ってうなずく。声を出さないのは失礼だが、幸せそうなマリアージュを見ると喉がしびれて、声が出なかった。
「ずいぶんと男の気を惹くのがうまい娘のようだ。王子の他にもあれはブローニュ伯の子息のフィリップか。それに、ほう、ルシアン卿まで。蕩けるような眼で見つめている。自国の王太子の婚約者に向けるにしてはいささか不躾な眼差しだな。皆、何故か何も言わないが」
父から異国の人と聞いたが男はこの国の貴族の名をよく知っていた。前から宮廷に出入りしていたのだろうか。なら、なぜ自分はこの男を知らないのだろう。半年前まではきちんと公式の場にも出ていたのだが。リージェは疑問をもつ。
だが男のこの口調。黙っていると自分の大切な人たちをさらにけなされそうで、リージェはしびれる喉を叱咤した。反論する。
「殿下は寛容な方ですから。それに皆が見つめるのもしかたのないことです。マリアージュが殿下の婚約者となったのは半年前のこと。その前に恋をしてしまったのならあの方々に罪はありません。想いを断ち切るには時間もかかります。妹は私の目から見ても魅力的ですから」
「なるほど。だから姉のほうはさっさと聖域に囲い込まれたわけか。悪い虫がつかないように。あの王子にしては英断だったな」
揶揄するように言われて、その思い違いに思わず笑みがこぼれた。この人は傲慢そうな言動をするわりに甘い恋物語を好むようだ。訂正する。
「私の聖域入りは陛下のご指示です。殿下ではありません」
そもそもその頃のクロードは四歳だ。幼すぎて婚約時の顔あわせもなかった。会ったこともない相手にそんな想いをもつわけがない。
「私と殿下の婚約は神が定めたもうたものです。ですから私の聖域入りにそんなうわついた理由はありません」
「ああ、神託とやらか。だが神のお告げは聖なる力をもつ乙女が生まれたと告げるものだろう? それがなぜ王族の妃が現れたとお前が聖域に入るはめになっている。それは先方がそう望んだからではないのか、お前を囲い込むために」
言われてリージェは言葉につまった。
たしかにそうだ。代々の聖なる乙女は王妃になっているが、神のお告げ自体は王妃にせよと言っているわけではない。
だが物心ついたころからずっと「神託だから」と教えられてきたのだ。今さら異なる見方を聞かされてもすぐには受け入れられない。とまどう。
「どう考えても聖なる力をもつ乙女を囲い込みたい権力者のこじつけだろう。お前はいくらでも別の男を伴侶に選べた。なのに今まで疑問すら持たないお人形でいたのは今回のお前が聖域育ちだからか? 大人に囲まれ、よってたかって洗脳されて育てば俺のような檻の外にいる男が珍獣に見えて、違う考え方があることが理解できないのもわかる」
言われて、この人は本当に聖王妃の神託がない国から来たのだと思った。知識として異なる考え方をもつ異国の人たちがいることを知っていた。が、実際にこうして言葉を交わすのは初めてだ。彼が言うとおり自分は閉じられた箱の中で育ったのだと実感した。
「……あなたには聖王妃の伝承を信じる私やこの国の民が檻の中の珍獣に見えるのですね」
「俺は野蛮な野育ちでな。自分の目で見た物しか信じない。だが聖なる乙女の力は信じるぞ。何しろ俺にもその力の一片がある」
「え」
「俺には命の炎が見えるんだ。こうして話していても相手の寿命が分かる。その額の辺りに輝く金の炎が見えるんだよ、お嬢さん」
そんなことがあるの? リージェは目を瞬かせて、思わず自分の頭上を見る。
「冗談だ、自分でそんなところが見えるわけないだろう、変な顔になってるぞ」
笑われて、リージェはあわてて視線を戻す。
男はまだ笑っていた。いつものリージェであれば人に笑われても気にしない。流れる水のようであれとの聖域での教えの通り受け流している。なのに何故だろう。この男が相手だと妙に心を揺さぶられる。なつかしい。初めて会った気がしないのだ。名も知らない相手なのにずっと前から知っているように感じる。信頼できる同志か、家族のように。
「……あなたは、いったい」
「さあ、俺は誰だろう」
目を意味深に細めると、男がリージェの手を取った。何かをするりと指にはめる。
「麗しの聖女殿に、これを」
指輪だ。
無骨な太い金属の輪を手袋の上からはめられていた。細かな文様が彫り込んであるが、装飾性があるとはいいがたい。女性に贈るものではなさそうだが、あつらえたようにリージェの中指にぴったりだった。
不審に思って見上げると、目が合った。
磁力めいた男の瞳に魅入られたようになって、はめられた指輪を外せない。
もし本当に命の炎というものがあるのなら、この男の瞳こそがそれだ。ゆらゆらと妖しく燃えて、見ていると頭の芯がくらりと熱を持つ。
「おいおい、そんな不思議そうな顔をするな。最初にこれが欲しいと言ったのはお前だぞ?」
つい見つめていると、言われた。
だが、何それは。リージェは今まで宝飾品を欲しいと口にしたことはない。
「まったく。毎回毎回、不審者扱いをされながら一から説明する俺の身にもなって欲しいな。これはただの指輪じゃない。そこらの貴婦人向けのものよりよほど価値がある」
低く囁いて、男が「見ていろ」と、リージェの指輪を操作する。
「あっ」
男が親指で輪の一角をなぞると側面が立ち上がり、鋭い刃になった。
「指輪型の護身具だ。たっぷり即効性のしびれ薬を塗ってあるからかすり傷でも相手を倒せる。自分でふれないよう気を付けるんだな。強烈だから三日三晩は意識を失う」
くくっと男が含み笑いをする。
「毎回思うが、平和主義のくせに物騒な品が必要になるものだ。常に身につけておけ。近いうちにこれをつかう時がくる」
確信をもって言われて、リージェは指輪を見る。禍々しいもののように見えてきた。
「……私が、つかうというのですか、これを?」
「言っただろう? 俺には命の炎が見えると。それによればお前の命は長くない」
「なら、これをいただいても意味はないのでは? 寿命とは人が受け入れるべき運命と私は学びました。運命とは変えられないものでしょう?」
「ほう、まさかここで反論するとは思わなかった。流されるだけのお人形にされたかと思っていれば、なるほど、無条件に人形になるのは相手によるわけか。知っているか? お前のような子どもを俺の国では父親コンプレックスというんだよ」
意味は分からない。だが、かっとなった。父を侮辱された気がして。
そんなリージェの反応に、くっ、とまた喉を震わせて、男が髪を一筋すくいとる。何をと抗議する暇も無かった。男がこれ見よがしにリージェの髪に口づけた。
「なっ」
髪を取り戻し身を引く。ここは公式の場だ、淑女らしく冷静であれ、そう思うのに声がふるえてしまう。
「……やめてください。お国ではどうか知りませんが、この国ではむやみに女性の髪にふれるものではありません」
「お前のお行儀の良い王子様と目が合ったからな。少し挑発してやっただけだ。この距離と人出だというのに良くこちらを見つけたものだ。ご褒美に挨拶くらいはしておかないとな」
男の目線の先を追うとクロードがいた。顔を強ばらせている。
「どこにもいかずここにいて」と言ったクロードの言葉を思いだした。リージェはあわてて男から離れる。そんなリージェを見て男が笑う。
「ほう、そんな顔もできるのだな。お前のまだ牙を折られていない一面を見られて安心した。今度こそ希望をもてそうだ。曲は途中だがここで退散しょう。あちらの王子も射殺さんばかりの目で見ているしな。では、な。お前が今回の死地を乗り越えることができればまた会おう」
「いいえ、もうお会いすることはないでしょう」
死地? 乗り越える? 彼の言葉が恐ろしく感じられて、リージェは身震いした。彼女にしては珍しくきっぱりと拒絶する。が、男はまったく意に介さず悠々と去っていく。
リージェは心が鎮まらない。
男の去ったほうを見つつ胸の動悸をおさえていると、声をかけられた。
「リージェ、何を話していたの?」
聞き慣れた声だった。婚約者として無条件で従ってよいと教えられた王太子の声だ。
リージェはほっとして振り返った。だがそこで息を飲む。
そこにいたのはいつもの優しい微笑みを浮かべた彼ではなく、昏く、強ばった顔をしたクロードだったのだ。




