5.無垢なる少女が大人になった時のこと
妹マリアージュ視点です。
――リージェが父に叱られていた、その同じ頃。侯爵家のもう一人の令嬢、マリアージュは自室の窓から邸の庭を眺めていた。
父の戻りを待っているのだ。父は南の庭園に面したこの窓からは見ることのできない、北の離れにいる〈姉〉を諭しにいった。離れと本邸の間には目隠しになるよう木々が植えてあるから、ぐるりと塀際を回り込んでいかなくてはならない。だから離れの様子は見えないが、ここにいれば本邸に戻る父を誰よりも先に見つけられるはずだった。
マリアージュはなかなか姿を見せない父を思って、ぎりりと形の良い爪を噛んだ。
(だって、狡いわ)
傍らのテーブルには侍女が気をきかせたつもりで広げた贈り物がある。
美しいドレスに装飾品。「殿下が直々に選ばれたそうですよ」と侍女は言った。さすがは王家からの品だけあってどれも素敵だ。マリアージュの瞳に合わせたのか首飾りの宝石は最高級のピジョン・ブラッド。ドレスは今都で一番注文を入れにくいと評判の人気店のもの。
確かにフリルの沢山ついたシフォンのドレスは可愛い。だけど駄目。いらない。
(〈愛〉がこもってないもの)
マリアージュはぷいと横を向いた。唇をとがらせる。
あの女、離れにいる女を姉なんて呼びたくない。目障りな娘。王子はあの女にもドレスを贈ったという。しかも執事に聞いた。あの女へは殿下の騎士が直接渡したそうだ。
(そんなこと許されると思う? 私だって殿下の婚約者なのに不公平よ!)
前からそうなのだ。あの女ばかりがひいきをされる。
マリアージュの物心がついた頃、この家には他に子どもはいなかった。マリアージュだけがこの家の娘で、王女様だった。
だが時折、母が遠い眼をすることがあった。
古参のメイドに聞くと、マリアージュには〈姉〉がいたらしい。
「たいそう愛らしい方でしたよ。私にまでにこにこ笑いかけられて。だからでしょうかねえ。可愛い盛りの三つの歳に〈聖王妃〉に選ばれて。王太子殿下の伴侶として王家に差し出すことになったのですよ。貴族であれば名誉なことですけど奥様も旦那様も欲のない方ですから。国のためとはいえ御子を手放すことを悲しまれましてね。今も心を痛めておられるのですよ」
それを聞いて四歳だったその時のマリアージュはむっとしたのだ。
自分は父母の唯一ではなかった。自分だけを愛していると思った父母はマリアージュを裏切って、その顔も知らない女の子のことをも愛していたのだ。それに気づき不快になった。
その時は幼すぎて分からなかった。が、そのときに感じた不快は不安からきていたのだと思う。今までのマリアージュには親の愛を競う相手はいなかった。なのに知ったのだ。自分はその子の代用品ではないかという恐怖を。その子が帰ってきたら父母をとられてしまうのではないかと幼い心で考えると怖くなった。
だからそれからのマリアージュは徹底的に甘えた。母が遠い目をするたびにこちらを見てと怒った。父がその子に会いに行くのは王家と交わした決まりで止められなかったが、母が行くのは泣いて止めた。
(だってそうでしょう? その子は選ばれて王家の人になったのよ? この家よりずっといい家の子になったの。なのにこれ以上何を望むの? この家にも居場所がほしいなんておかしいわ。私の家をとらないで……!)
自分はこの家の子だから愛してもらえる。姉とかいう子はもうこの家の子じゃない。だから王様たちに愛されていればいい。
それからのマリアージュは頑張った。親の愛を独占した。なのに神はさらなる試練を与えた。〈姉〉がこの家に帰ってくることになったのだ。しかもマリアージュのものだった本邸の部屋の一つをつかうという。
〈姉〉はすぐに王家に嫁ぐから少しの辛抱だと言われた。なら、最初から邸に入れなければいい。どうしてそんな相手にマリアージュが譲らなくてはならない?
「お父様もお母様ももう私が可愛くないの? そんな会ったこともない子のほうがいいの? 本気で分からない!」
ぐずると父が〈姉〉は離れで暮らさせると言って、やっとマリアージュは泣き止んだ。
そして〈姉〉が来た。
姉妹といっても似ているのは髪の色ぐらい。赤の他人としか思えなかった。
それになんてみっともない服を着ているのだろう! 灰色で、何の飾りもついていなくて。貴族の義務と言われてしかたなく行く慈善事業の小汚い孤児院にいる修道女みたいだった。
後で聞いたら本当に修道女服だった。戒律の厳しい聖域にいたからドレスを一枚も持っていないとか。信じられなかった。しかも中身まで地味でお固くて男の子を喜ばせる首をかしげる仕草さえ知らない。こんな人が身内だと貴族の子ども仲間に紹介しなくてはならないと思うと恥ずかしくて死んでしまいたくなった。そのうえ〈姉〉のドレスをいそいで作らないといけないからとマリアージュのドレスの仕立てが後回しになった。最低だ。
だがいいこともあった。〈姉〉に会いに、王子様が来てくれたのだ。
絵本の王子様ではなく本物の、この国の生きて動いている王子様。皆にも羨ましがられた。自分たちはまだ子どもで社交界には出られない。だから噂の王子も見たことがなかったのだ。
王子は、「君がリージェの妹? よろしく」と、身をかがめて目を合わせてくれた。
その時からマリアージュは自分の隣に立つ人は王子しか考えられなくなった。
欲しいと思った。女の子たちが素敵と噂するのを聞いていたがそれ以上だった。こんな人の恋人になれたらと夢想した。だが彼もまた〈姉〉のものだった。
(どうして? 私のほうがふさわしいのに。私のほうが可愛くえくぼをつくれるし、男の子たちだって皆、可愛いってうっとりした眼で見つめてくるのよ? こんなの絶対おかしい!)
だからマリアージュは聖堂で祈ったのだ。神は願いを聞いてくれた。マリアージュにも聖王妃の資格である、光の加護が現れた。
これで自分が王子の妃になれる。結婚は十六歳の成人まで待たないといけないが、十四歳なのにもう婚約者ができるのだ。子ども仲間の中で一番自分が早い。一番乗りだ。
そう思ったのに、王家は姉妹の二人ともを婚約者にする、生か死かと言ってきた。
王はあまりにむごいと反対したそうだが、なんでも昔、聖王妃となるべき聖なる乙女をさらって妻にして、それを理由に王位継承の正当性を認めろと反乱を起こした男がいたらしい。
なので「英雄も聖女も必要以上に民の心を集める者は危険だ」と聖職者や貴族たちが会議で押し切ったそうだ。
それを聞いた時はわけがわからなかった。そんな大昔の聞いたこともない男のためにどうして自分がそんなめにあわなくてはならない。父も母も「大丈夫、選ばれるのはお前だ、心配いらない。私たちがなんとかする」とあの女をにらみつけたのですっとしたが、それからは二人とも夜も眠れないくらい悩んでいた。これもすべてあの女のせいだ。憎らしい女!
そんなある夜のことだ。マリアージュが王子のもう一人の婚約者になって一年が過ぎたころ。
ふと目が覚めると階下から父の大きな声がするのに気がついたのだ。
階下に降り、書斎をのぞいてみるといつの間に来たのか、王子がいた。
「侯爵、あなたがリージェへの扱いを改善しないというなら私にも考えがある。これらの違反と不正を公にする」
彼は真面目な顔で父に書類の束を見せていた。よく分からないが父が王に叱られることをしたようだ。頑固だけどお人よしの父のことだからわざとではなく、うっかりだと思うが。
「リージェはあんなにされてもあなたを慕っている。その心を傷つけるのは本意ではない。私も未来の妃の家に汚点をつけたくない。今後、リージェと彼女の妹との待遇に差をつけないと誓うなら、これらの件はたんなる報告の遅延と処理しよう。処罰まではおこなわない」
「……取引を持ちかけるおつもりか。あの娘のためだけにこれだけのことを調べて。平等にとの建前はどうされた。あなたの行動はあきらかにリージェをひいきするものだ」
「平等? あなたがそれを言うか、侯爵。先に黙認できないだけのことをしたのは誰だ。彼女は満足な使用人もつけられず、この半年一人で離れにいる。普通の貴族令嬢なら一日たりとも暮らせない環境に。不幸なことに彼女は修道院育ちでたいていのことは一人でできる。だから不満を言わないらしいが、あなたはそれにかこつけて図に乗りすぎたのだ。もう一人の娘にはこれだけの不正を犯してまでも贅沢をさせる金を集めたというのに!」
へえ、殿下って真面目な話をなさるときは、〈私〉っておっしゃるのね。かっこいい、と、ときめいて、父の言葉に聞き捨てならない言葉があるのに気がついた。
「リージェをひいきする」とはどういうことか。書斎に飛び込んで王子に抱きつこうとしていた動きを止め、聞き耳をたてる。どうやら王子はあの女の暮らしを改善させるとかいう理由で、わざわざ父の弱みを調べてきたらしい。
「もちろん二人のうち一人をとの決定は無情だ。あなたが胸を痛めるのもわかる。妹のほうに肩入れしたくなる気持ちも。だから私もできうる限りの代償をあなたがたに……」
「代償。それはあなたが王の決定には関係なく、リージェを選ぶと決めておられる、そう受け取ってよいのですかな。いったいどちらが平等か。マリアージュはこの妃選びに参加させてももらえないのか。殿下、あなたのほうが今回の決定を下した陛下の何万倍も残酷だ!」
ぞっとするほど昏い声で父が言った。
「殿下、あなたはあの神託が降りた時はまだ幼くご存じないのかもしれないが。私ども侯爵家は十三年前にすでに泣く泣く娘を一人、王家に捧げたのです。王家は一度、私たちから愛する者を奪っておきながら、今また唯一残された最後の娘まで捧げよと仰せか!」
「侯爵、それは……」
「代償? 馬鹿にしないでいただこう。侯爵たるこの私、王妃の外戚などという地位に惹かれて媚を売るような真似はせん! そもそも娘を王妃にしたいなどと思ったことはない。これ以上、私から娘を奪うと言うなら、娘たちは二人ともこの手で殺して邸に火をかける!」
いつも娘に甘い父の顔が追い詰められた獣のように恐ろしく歪んで、マリアージュは父が本気だと悟った。
そんなことを言われてもマリアージュはまだ死にたくない。王妃にだってなりたい。だから父を止めに入ろうとした。
だができなかった。いつの間に来たのか母が後ろにいてマリアージュの肩を両手でつかんでいたからだ。ぎゅっと肩に食い込んだ爪がすごく痛かった。
「……マリアージュ、私の可愛い娘、今度こそ私たちはあなたを守るわ、ええ、今度こそ」
ぶつぶつつぶやく母の顔は血の気が失せていて、マリアージュは初めて父や母を怖いと思った。部屋にお戻りなさいと言われて大人しく従った。
だが、その後よく考えたのだ。あの夜の出来事を。
物心ついてから今までマリアージュを好きにならない人など周りにいなかった。あの女だってマリアージュの愛をほしがって〈お願い〉と言うとどんなことでもしてみせる。
(馬鹿みたい、私があんな地味な女なんか好きになるわけないのに)
王子だってそうだ。自分と一緒にいれば本当に愛しているのは誰かをすぐに気づくはずだ。だって今までずっとそうだったのだから。
だからマリアージュは王子に甘えた。顔を見上げて睫毛をパチパチさせた。
(……だけど、効かなかったわ)
マリアージュは〈お願い〉と言わないと王子は動いてくれない。
なのにあの女は黙っていても王子が動いてくれるのだ。
ショックだった。自分は何を見ていたのかと思った。地味で無口なあの女なんて眼中になかった。でもあの女が邸にいない十一年の間に父母の愛をマリアージュが独占していたように、あの女も王子の唯一の婚約者でいた一年の間にすでに愛らしき絆を築いてしまっていたのだ。
その絆を何とかしないと駄目だ。でないと自分が殺される。
(そんなこと、許さない)
今思うとこの時マリアージュは大人になったのだ。皆から愛されていればいいだけの子どもから、何とかして幸せになろうとあがく大人の女に。
今までは目障りとしか思わなかったあの女が困るのを見ると〈いい気味〉と思うようになったのもこのころから。自分たちを苦しめる悪魔のような女。あの女の鼻を明かすためにも王子の心は奪ってみせる。そう意識が変わったのだ。
そこへ父が戻ってくるのが見えた。王子を陥落できていない今、最大の味方が父だ。急いで階下に降りるとその胸に飛び込む。
「お父さま!」
「ああ、マリアージュ、待ってくれていたのかい。なんていい子だろう。リージェにはちゃんと言っておいたからね。明日の舞踏会には殿下にいただいたドレスを着ていきなさい。殿下がこの邸にリージェを迎えに来られるのは決定事項だから、当夜のエスコートは無理だ。お前は王宮で殿下を待ちなさい」
「そんなっ、私に一人でいけとおっしゃるの、お父さま? 嫌よ、恥ずかしい!」
「大丈夫。私がつれていくよ、そして……お前を壁の花になどはさせない。必ず殿下と踊れるようにしてやる」
父の口調は本気だった。とても頼もしい。だから、
「ええ、信じてるわ。お父さまはいつも私を守ってくれるもの」
無邪気を装って言うと、マリアージュは「お父さま、大好き」と再び飛びついた。
父の胸に縋りついて笑う自分の顔は多分、すでに親に甘やかされるだけ甘やかされた無垢な天使ではないだろう。自覚がある。己が生き残るためにすべてを計算しつくした、目の前にいる男なら誰でも利用する女の顔だ。
マリアージュは父の胸に顔を埋めながら思った。
見ていなさい、私の大事な家をめちゃくちゃにして、私を無垢な女の子でいさせてくれなかったあの女。絶対に後悔させてあげるわ、とーー。




