32.決戦②
「皆、皆、消えてしまえばいいっ」
リージェの力を奪ったマリアージュが、最大級の力を込めるのがわかる。魔の山を構成するすべての岩盤がマリアージュの悲鳴に呼応する。己の限界まで力を引き出したマリアージュの前で山全体がきしみ、悲鳴を上げる。
同じ力をもつリージェには、魔の山が崩壊しようとしているのがわかった。
「マリアージュっ」
このままではクロードまで巻き込まれてしまう。
(それだけは嫌っ)
他の何を奪われてもいい。親の愛も、人の好意も。
(でも、彼だけは奪わせないっ)
その時だ。魅了の力が解けた。
いや、それだけではない。マリアージュに奪われた石を操る力が戻ってくるのを感じる。
なら、マリアージュを止めないと。
マリアージュのためではない。彼のためだ。この山が崩れてしまえばクロードが死んでしまう。
リージェがクロードの腕からもがき出、前へ出たときだった。
マリアージュが操る人型に地下を延びる岩盤をつかわれたのか、足元の地面が陥没する。
「リージェっ」
とっさにクロードが手を伸ばす。リージェの腕をつかみ、そのまま傍らの無事な木の茂みの上へと振り子のように放り上げる。その反動で彼は均衡を崩した。
踏みしめた地面が崩れる。一瞬、目を見開いて、それから彼が落下していく。
「殿下っ」
リージェは悲鳴を上げて手を伸ばした。だが彼はその手をとろうとはしなかった。
リージェの非力な腕ではつかめばリージェまで巻き込んでしまう。共に落ちてしまうととっさに判断したからだ。
「愛してる、リージェ」
君は生きて。そんな声が聞こえた気がした。
「いやあああ、殿下、殿下っ」
身を乗り出す。駄目だ、落下は止められない。リージェは手を触れていない石は動かせない。なにより今はマリアージュにその力のほとんどを奪われている。
でも……!
リージェは必死に腕を伸ばした。自分が山崩れに巻き込まれつぶされてもいい。岩にふれられさえすれば。彼を救う間、命がもちさえすればいい。
「お願い、彼を救ってっ」
垂直の崖の斜面に手をつくなり山全体を人型にして変形させる。クロードを救うため力のすべてをつかった人型をつくる。クロードが激突する地面を少しでも遠ざけるため地をえぐり、クッションとなる木々を背に生やした石型をつくり受け止めさせる。クロードにこれ以上、矢を射かけられないように覆うように岩のドームをつくる。
それはリージェがマリアージュの魅了の力を完全に振り切った瞬間だった。
言いなりになるお人形でしかなかったリージェが初めてその意志の力をすべてつかって反抗した。マリアージュのくびきから脱した。
ただ、愛する人を救いたくて。共に手を取り合い、生きていたくて。
それだけのためにいったいどれだけの質量の岩を動かしたか。
気がつくとリージェが倒れ伏す岩盤の奥底から地響きとは異なる音が聞こえた。
「まさか」
奈落の蓋が開いたのだ。岩を通して感じる。
魔の山は奈落に通じる。聖王妃の力を憎悪で染め上げ、相手を破滅させることだけを願って放てば界が繋がる。マリアージュの力に惹かれてすでに界境があいまいになっていたことをリージェは聖王妃の直感で悟った。そしてリージェは物理的にその蓋を開けてしまったのだ。奈落を覆う岩盤を動かすという形で。
それで理解した。なぜ、百年前の聖王妃ダリアの時に奈落が開かなかったのか。
とっさにダリアが身を遠ざけたからではない。物理的に蓋を開ける力を持つ者がいなかったからだ。一人の聖王妃の力だけでは各時代の聖王妃の力を借り受けても完全には「あの力が欲しい」という奈落の欲をかき立てることができなかったからだ。
リージェとマリアージュ、二人の聖王妃が全力で岩盤を動かしたせいで山が形を変えていく。
「やっとここまで来た。こうなるまでに俺は六度、時をやり直したぞ」
笑いながらあの男が言った。
「せっかく蓋を開けられるだけの力をもつ聖王妃が二人もそろったというのに苦労した。当代の聖王妃は人がいい。ころころとすぐ殺されていたからな」
それでリージェは思いだした。今まで五度殺された記憶。あれはすべてマリアージュに殺されたのだ。
「何これ」
開いていく底のない穴を見てマリアージュが言う。その奥に漂う混沌とした世界。見ればマリアージュもこれが聖典に記された奈落だと気づいたのだろう。あの男に抗議する。
「騙したの、あなたにもらった力をつかえばあの女の力も奪えると言ったじゃないっ!」
「騙してなどいない。俺が教えたのは聖王妃の力を奪う方法だ。現にお前は石人形を操っているだろう?」
逆に言うとそれだけだったのだ。そのあと何が起こるか、そこから脱する方法は教えなかったのだろう。男がリージェに向き直って言う。
「おい、お前の力を俺によこせ。俺とこの娘ごと呑み込めば奈落は満足する。その隙に岩盤を元に戻せ。それだけの力は残しておいてやる。……お前は、最後の聖王妃になるんだ」
「え?」
「この世界を循環している聖王妃の力はすべて俺が持っていく。それでもうこちらの世界に聖なる乙女は現れない。聖王妃の力さえなくなれば制度も崩れる」
「もしかして、あなたはそのために……」
責任を取ろうとしているのか。聖王妃という存在を生み出してしまったのは自分だからと。その結果、母を死においやったからと。
「俺はもう疲れたんだ」
祝福の力が強すぎて死ねない。もはや呪いだ、と彼は言った。
「地獄へ落としてくれる者を待っていた。お前たち二人の聖王妃を。それがこの制度をつくった俺の罪だ。報いを受けるべきだろうからな」
リージェと違い、聖王妃ダリアとは話していないのだろう。マリアージュがとまどった顔をする。だが深い事情はわからなくともマリアージュも彼が自ら奈落に沈もうとしているのはわかったのだろう。信じられないという顔をする。
「どうして。馬鹿じゃない? どうしたあんな中にのみこまれたいの? 理解できない!」
「お前なら理解できると思うが? この世界などいらないと叫んだお前なら。俺はもうこの世界にいたくないんだ。死ねない俺がいったい何人の聖なる乙女の死を見送ったと思う? 周りに人がいるからおいていかれるのがつらい。俺を生かそうとした母には悪いが俺はこの世界にいるのが苦痛なんだ」
男がマリアージュに言う。
「別にお前たちのために犠牲になるわけじゃない。俺が望んだからそうする。だから。マリアージュ、俺と来い」
「え?」
「傍若無人なお前とならさすがに俺も退屈しない。安心しろ。奈落でどれだけ時を過ごすことになるかはわからんがお前をおいて俺が先に逝くことはない。俺の命が尽きることがあれば、その時はきちんとお前の息の根を先に止めてやる」
「な、なによそれ」
「もうお前を一人にはしないと言っているんだ。俺がもつ不死身の力も譲ってやろう。あの中でならお前は老いることなく永遠に生きられるぞ。〈おばあさん〉になりたくないんだろう? ついでに言うとあの中では人は俺たち二人だけだ。いくらでも俺を独占させてやる。ずっと寂しかったんだろう?」
言われてマリアージュはひるむ。
「俺一人では歴代すべての聖王妃の力を受け入れられない。元がただ人だからな。器としてのこの体が持たない。だから奈落を満足させるにはもう一人、必要なんだ。お前が」
マリアージュの肩がわなわなとふるえる。リージェはぞっとした。この男はマリアージュを連れていこうとしているのだ。奈落の底へ。あわてて言う。
「マリアージュ、その力を手放して」
この男は聖王妃の力を欲しているだけ。なら、マリアージュが集めた歴代聖王妃の力を彼に譲れば奈落に連れていこうとは思わない。だがマリアージュは抵抗する。
「いやよ、どうして私がただ人にならないといけないの。あなたがそう言って私を助けようとするのも私が魅了の力を使っているからでしょう。聖王妃の力を失った私になんの価値があるの。いやよ、渡さない。この力は私のもの。私は皆に愛される娘になるんだから」
「違うわマリアージュ、今の私はもうあなたの力に縛られてなんかいない、だから……」
「信じない! 魅了されてもいないのに私を愛する人なんていない! だいたい何よ、その救ってやるって顔! だからあなたなんか大っ嫌い。いつも私を上から見下して、私の欲しいものをすべてもっていくの! そうよ、彼の言うとおりよ。この世界なんて嫌い、ちっとも私の思い通りにならないんだもの。寂しいだけ」
マリアージュが叫ぶように言って、リージェを拒絶する。
それで思った。愛というものを知らず焦がれたリージェと同じく、マリアージュもまた愛というものを知らない娘なのだと。
「私は誰にも愛されない。いつだってそう。欲しいものはみんな私の手をすり抜けていく。こちらをふり返ってもくれない。あなただってそう」
あの男のほうをふり返って、マリアージュが言う。
「あなただって結局、私じゃなくあの女を選んだんでしょう。あの女を大事にして、生かしてこの世界において、あの女を守るために私を連れていこうとしている。すべてあの女のため。皆そう。あの女のほうが姉で、先に聖王妃に選ばれて、だから皆に愛されて。後から生まれた私に割り込む隙なんてない」
「馬鹿か、お前は」
男があきれたように言って、マリアージュに近づく。彼女と同じく石を操り、目線の高さを合わせてその腕を取る。ぐいと引き寄せて言う。
「言っておくが。俺はお前たちに干渉したのは姉のほうに先に会ったからじゃない。俺が今回の時戻りでお前に会ったのはいつだった? 俺がお前と会ったのは光の加護を得たときだ。だがあの女は夜会の夜に踊るまで俺のことを知らなかっただろう」
言われてマリアージュが気づいたように言う。
「……そう、よ。違うわ。私、あなたと会ってた。あの女より先に!」
「ああ、そうだ。ついでに言うと俺はお前の魅了にもかかっていない。それでもお前を欲しいと言っている。死の間際まで共にいる、二人きりの世界で一緒に生きようと言ってるんだ」
それから、彼がはっきりと言った。
「お前は、あの女の代用品なんかじゃない」
あの女よりマリアージュのほうが価値がある、そう心から言ったのはこの男だけだったのだろう。だから……。やっと安心できた、そんな顔をマリアージュがする。
「……そこまで言うなら一緒にいってあげてもいいわ」
しばしうつむいて唇を噛みしめてから、マリアージュが言った。
「でもあなたのためなんかじゃないから。ましてやあの女のためなんかじゃないわ。私がしたいからそうするの。私は女王よ。誰の指図も受けない。せいぜいわがままを言って、機嫌を取らせてやるわ。欲しいなら私の言うこと聞きなさいって」
「上等だ」
そこで男が目をつむった。マリアージュを抱き、聖王妃の力を発動させる。この世界を巡回する聖なる力。そのすべてを自分に集める。
彼とマリアージュの中に歴代の聖王妃の力だけでなく、これから生まれるはずだった未来の聖なる乙女たちの力までもが集まるのをリージェは感じた。
それから、彼がリージェに言った。お前の力だけは残しておいた、と。
「さっさと穴を塞げ。王家への連絡役も任せたぞ。お前の妹は責任を持って俺が連れて行く。安心しろ。これで……お前たちは自由だ」
無意識に手を伸ばす。だが届かない。力を得た男を奈落が貪欲に呑み込む。
それが最後だった。
この世界に存在したすべての聖王妃の力をもって二人が奈落の底に落ちていく。
呆然とその姿を目で追って。
それから、リージェは言われたとおり奈落の蓋を閉じた。




