30.大主教
雨が、降ってきた。
魔の山の麓に敷かれた王軍の本陣では、大主教が王宮から来た使者の手から文を受け取っていた。
早馬を乗り継ぎ、急ぎ届けられた文によると、あの若い王子が出奔したらしい。もし現れたら即座に〈保護〉するようにと親馬鹿な兄王が言ってきた。廃嫡すると脅してもいいから本陣に留めおいてくれと必死な思いが文体から伝わった。
「まったく。過保護なことだ。あの生真面目なクロードのことだ。勘当覚悟で飛び出し、その旨の置き手紙もしただろうに」
それでも事が終われば兄は子を許すのだろう。子の初めての暴走に驚き、うろたえ、子が己の脅しを聞かなかったとしても手放せず、元の鞘に戻る。肉親の情ゆえに愚かな真似をする。
それが愛というもの、親子というものなのだろう。自分には無縁のものだ。
そして大主教オーギュストは甥と同じく親の愛を一身に受け、それによって運命を歪まされた男のことを考える。聖なる乙女でもないのに聖王妃の力を操るあの男のことを。
兄王と自分は母が違う。権力の分散を防ぐため、王が聖王妃を娶るべきとの理由から愛する妃を離縁して迎えた妻、それが自分の母だ。当然、父母の間に愛はなかった。義務のみがあった。その煽りを受け、自分は幼い頃は何度も死にかけた。そこを助けてくれたのがあの男だ。
誰も信じられない。親ですら他人同然の王宮であの男だけが頼りだった。なんの見返りも要求せず助けてくれた男。自分があの時代を生き抜けたのは恩義あるあの男の不思議な守りがあったからだ。
成人になり、ようやく自分の意志で動けるようになったときだ。今までの礼をしたいと言うと、人を信じ、頼ることを教えてくれた彼に言われた。
「今までの恩を返したいというなら、王位継承権を捨て聖域に入ってくれ。次の王太子となるお前の兄の子が四歳になったとき、聖王妃を探す神託を降ろして欲しい。そしてリリューシュ侯爵家の光の加護をもつ娘を聖域に引き取り、育ててくれ」
「継承権を捨てるのは前から考えていたことだからいいが、なぜ、その娘を親から引き離す?」
「放っておくと妹に殺されるからだ」
それから彼が教えてくれた。親の愛を欲した妹に五度も殺された姉の話を。二人が次代の聖王妃と呼ばれる存在だということを。
「聖王妃が、二人現れるのか?!」
「ああ。この代は時の特異点だ。通常、一人の娘に与えられる力が母の腹で分かれる。力をもつ娘が二人揃うのはここしかない。どちらも助けたいが聖なる乙女となる者は己より人を優先する。その性格は変えられない。今まで試行錯誤したが無理だった。お前の母もそうだっただろう? 王家と己、二つの心に裂かれて壊れる。ならいっそ不幸が起こらないよう本人が王妃となっても幸福を感じるよう育てればいい。言いなりの人形にな。問題は妹のほうだ。王妃の座は一つ。姉を王妃にすれば妹はあぶれる。妹を王妃にすれば姉は確実に殺される。妹は歴代の聖なる乙女とは対照的な性格だ。聖域に迎えても矯正しきれないだろう。毎度、騒ぎを起してくれる。俺にも防ぎきれない。姉の命を救うには幼少時から離しておくしかない」
なぜ、そんなことを知っていると問うと、彼は「俺が五度もあの姉妹の時の繰り返しにつきあっているからだ」と言った。そして教えてくれた。妹の持つ魅了の力のこと、彼のことを。
彼は捨て子だったという。産着に包まれ、野原に放りだされるようにして泣いていたと。
ふつうなら野犬に襲われて終わりだ。だが彼には不思議な力があった。いや、守られていた。まとった産着の見たことがない上質さとその力から高貴な方の落とし胤では、力故に厄介払いをされたのではと、赤子を連れ込まれた近くの村の村長は扱いに困ったらしい。関わるべきかどうか迷った。が、彼がその時、無意識に使った力で村長の家に連れ込まれた瀕死の怪我人の傷が治り、彼は〈神の子〉と呼ばれて大事に育てられることになった。
だがこのことは村のその場にいた者数人の秘密とされた。大人たちは彼の力を自分たちの利益のためだけに使うことにしたのだ。
彼は村長の養子となった。大事に育てられた。そして力を使うことを要求された。村のために。その暮らししか知らなかった彼は家の外へ出てはいけないという決まりも自然に受け入れていた。が、ある日、部屋の中で遊んでいた彼はうっかり開けた窓から玩具を外へ飛ばしてしまった。手を伸ばしてとろうとして、外へ落ちた。
初めて感じる草と土。風。
彼はふらふらと森に向かって歩いていた。
そこで出会った少女にたまに抜け出して会いに行くようになった。彼女は薬師見習でもっと人を癒す力がほしいと言っていた。
彼は無意識に彼女にその力をつかっていた。その時の彼は知らなかったが、母が与えてくれた力の中には光の加護を与える力や、その者がもつ力を覚醒させる力があったのだ。
彼女は力を発現させ、初代の聖なる乙女となった。噂で彼女の躍進を聞いた彼は誇らしいのと同時に心配していた。頑張り屋の彼女、きちんと休憩はとっているだろうか。癒やしの力を使いすぎると疲れると言っていたが、大丈夫なのかと。
ある日、噂で聖女が落ちたと聞いた。
村長の家を出て、会いに行った。久しぶりに会った彼女はぼろぼろだった。
こき使われるだけ使われて、ぼろクズのように捨てられた彼女に憤りを持った。おかしいじゃないか。いくらでも自分のために力を使い、幸せに生きられるはずだった彼女。なのに皆のためにとその力を明かした。そして搾取されるだけ搾取されて消えた。
俺のせいだ。俺が力を発現させたから。
彼はそう考え、彼女の亡骸を奪って逃げた。その際、異能の力を使い騒がれたが、幸い、〈聖女の奇跡〉、彼女の力だと誤解されたようで彼の存在が表に出ることはなかった。
その頃から彼は不思議なことに気づいたそうだ。老化がとまっていた。ただ人の体に聖王妃の力を受けた歪みが出たのだろう。
死ねない体をもてあまし、人に不審に思われるごとに居場所を変えた。大人になり、知恵もついていた彼は異能のこともあり、世に紛れて生きることができた。
その間に何度か聖なる乙女といわれる娘たちに会った。彼女たちは一様に搾取され、最後には迫害を受けて消えた。皆と違う力を持つものは警戒され、畏れられるからだ。
こんなのはおかしい。
それからの彼は抵抗を始めた。会うたびに聖なる乙女の存在を隠そうとした。迫害しようとする男を消してみた。だが駄目なのだ。彼では聖なる乙女の人の役に立ちたいという心を止められない。その力を隠しきれない。閉じ込めれば乙女は病んだ。
かといって乙女の心を尊重して外に出ることを許せば人は異端を許さない。役に立つうちはいい。だがその力が大きくなると、畏れ、殺す。
なら、逆に乙女が神のように崇められれば人は手出しできなくなくなるのではないか。そのうえで権力を持つ者を庇護者にすればいいのではないか。そう考え、王族をそそのかし、〈聖王妃〉の制度をつくった。聖なる乙女たちは生きながらえることができるようになった。が、政略の駒として扱われた。幸せそうには見えなかった。
そして〈彼女〉に会ったのだ。金の瞳と美しい黒髪を持つ聖なる乙女に。
何故か懐かしいものを感じた。彼女は彼と同じ鏡の力を持っていた。そして恋人がいた。心底、彼女に惚れ、その異能があっても彼女を支えると誓える男だった。そんな夫を得られた彼女なら聖女として使いつぶされたりしない。幸せな人生を送れるだろう。ほっとした。
だが王家が横やりを入れた。都から迎えが来て、王子が彼女を見初めた。彼女が聖王妃などにはならないと言っても無駄だった。彼女を助けるには王家に刃向かうしかなかった。
俺のせいだ。俺が〈聖王妃〉の制度をつくらせたから。
彼は後悔したそうだ。だから使った。自分の力のすべてを。彼女が生き残れるように。彼女が愛する者と幸せになれるように。彼女の影となって動いた。
だが押し寄せる王の軍は数が多すぎて。未来を知っていても対応しきれなくて。彼女は最後の頼みとして彼に赤子を預けた。行軍中の軍に赤児をおく余裕はない。彼は赤児を異国に預け、すぐ戻るつもりで一時、反乱軍から離れた。が、その隙に事態は最悪な方向に動いてしまう。彼は聖王妃の力をつかえるといっても、元はただ人だ。限度があった。その時起こる未来をほんものの聖なる乙女ほどには見通し切れていなかったのだ。
隣国へ落ちのびた彼の元へ彼女の最期の祝福が届いた。腕の中にいた赤子が消えた。それを見て彼は悟ったのだ。己が誰か、彼女が誰か。
「それは……」
「ああ。俺はその赤子が無事に生きられるよう、過去へと飛ばされた存在だ。かの聖女ダリアこそが母だったんだ」
思わず口を挟み、問いかけた自分に、彼は言った。
「母は俺では力不足で使いこなせなかった時を遡る力をつかったんだ。俺はそれからは聖女という者それ自体が現れないようにしようとした。だが鏡を使った予知の力で次の聖女がどこで生まれるか分かっても、俺では生まれることをとめることができなかった」
荒唐無稽な話だった。だが自分は信じた。男が嘘を言っているようには見えなかったのと、なにより母の嘆きを見て育った自分は聖王妃という制度をなくしたいと言う彼の言葉に共感できたからだ。
そして自分には力があった。聖王妃の祝福の力ではない。世俗の権力という力だ。
(だから。彼の望みを叶えたい)
利用されただけだとわかっている。会った時から寸分も違わぬ姿をしている男。それでも彼のために聖域へ入った。そしてリリューシュ侯爵の娘を教義通りの聖女に育てた。
親や兄弟といったものの愛を知らない自分にとって彼の打算まみれの手だけが救いだった。
だから、もう少しだけ。
あの男の好きにさせてやりたい。彼もまた、母を初めとする歴代の聖王妃たちと同じ、この国の権力者たちの犠牲者なのだから。
(だが、彼の望を叶えれば、あの男は死ぬ)
彼の望みは、聖王妃の力をもつ自分自身をも消すことだから。
今なら間に合う。彼の計画をつぶせば。彼は次の繰り返しがおこなわれるまで生きることができる。自分は彼が死ぬところを見ずにすむ。恨まれようとも同じ時空に生きることができる。
(だが……)
自分は彼に魅了の力でもかけられているのかもしれない。彼に忠実であれと。だからあのすべてを惑わすマリアージュにも対抗できたのかもしれない。
自分でもなにを望んでいるのか、大主教にはわからなかった。




