29.聖王妃ダリア
その少し前、リージェはマリアージュが落下したとおぼしき場所を懸命に探していた。
へし折れた枝や踏みしだかれた下生えの跡はある。枝に裂かれたらしきマリアージュのドレスの端布も見つかった。彼女が落としたクロスボウも。
だが肝心のマリアージュの姿がない。
人型をつくって周囲を探させたがなにも見つからない。
自分を殺そうとした相手だ。それでも必死に探す。探しながら思う。ここまでされて自分はなぜマリアージュを憎みきれないのだろう。愛してしまうのだろう。
あの謎の男と会った夜会の夜を思いだした。あの時、父はあの男と話している内にとろんとした目になって、急に言動を変えた。
なにかが脳裏にひっかかり、下生えをかき分ける手を止めた時だった。燦めくものが目に入った。
ひびの入った手鏡だ。
あの男のものだと直感した。前のように岩場にわざと残された物ではなく、取り落とした物だろう。ひびが入っている。
あの男がここにいた。マリアージュが落下した地点に。なら、きっとマリアージュを助けたのだ。その際にこの鏡を落とした。なぜかそう信じたのはリージェ自身、神出鬼没のあの男に何度か助けられているからだ。
理由はわからない。が、あの男は自分たち姉妹を必要としている。だから守ってくれる。
ひびの入った鏡を手に取り、手がかりを求めてのぞき込む。
その時だ。鏡に映ったリージェの顔が歪み、代わりにあの男と同じ、黒い髪に金の瞳をした女性の顔が浮かび上がる。前に都のおかみの店で見たのと同じ、美しい女性だ。
「まさか、聖王妃ダリア様……?」
思わず呼びかけると、鏡の中の彼女が微笑んだ。
『聞こえるわ、あなたの声が。ようやく話せる。今までずっとあの子に邪魔をされていたの。だけど今のあの子はあの少女の矢傷と自分の傷を治すので手一杯。力を使っているわ』
だから、今ならその場にいない過去の存在でしかない私でも力が通じる、と彼女は言った。
『教えてあげるわ、私が知るすべてを。遠い未来のあなた、私と同じ聖王妃の宿命をおった娘。あなたには必要だと思うから』
そして彼女が語ってくれた。あの日の、百年前に魔の山で起こったことを。
彼女が聖王妃の力をつかい、奈落の蓋を開けかけてしまった時のことを。
『私は過去の聖王妃たちと時空を超え、繋がることができるわ。そのうえで言うの。聖王妃は一人が死ぬとほぼ同時にその力の萌芽が他に現れる。発現する力の形は違うけれど常に一定の力がこの世界には存在しているの。教義にある循環する水の流れと同じよ。力の流れ、閉じた円がこの国にはある。それぞれの時代のそれぞれの乙女の内に分散されて、力が一つに時代に集まりすぎないようになっているの。そうして〈奈落〉を刺激しないようにしている。でも私は違う。保たれた均衡を乱してしまった』
と、彼女は言った。
『あの時の私はそのことを知っていた。なのに愛する人を助けたくて必死で力をつかってしまった。私の内にあるかぎりの力で歴代聖王妃の力を集め、同時に行使した。それでその時代の魔の山に本来あり得ない力が集中してしまった。なにもない、虚無の世界である奈落に、こちらには大いなる力があると知らせてしまった。私は情に負けて奈落にこちら側の世界に興味を持たせる愚かな真似をしてしまったの。それで魔の山の底に眠る奈落が反応したわ。水が水位の低い方に流れるように力を求めた。無が有を求めた。からっぽの己の内を満たそうとこの世界を私ごと呑み込もうとしたの』
だからダリアは逃げた。奈落が完全に蓋を開ければ辺り一面が、そこにいる愛する人たちまでが呑まれてしまう。だからとっさにこの地から遠ざかった。移動手段である守護獣を操る力以外はすべて放棄し、一人、魔の山から距離をとったのだ。
『鏡の力のおかげで私は未来に何が起こるかわかっていた。だけど避けようとしてもそうせざるを得ない状況に追い込まれてしまうの。何度も何度も。あの人と出会ったときも破滅が待つと知っていてもその情熱を止められなかった。王家から迎えの使者が来たときもカディアの皆に止められ、この地にとどまってしまった。すべて私が悪いの。運命に抗いきれなかったから。流されてしまったから。だから処刑されるとわかっていても私は山を出るしかなかった。彼を、皆を守るにはそれしかできなかった』
聖なる乙女、聖王妃と呼ばれる娘たちに共通の弱さだそうだ。誰かに望まれると拒みきれない。自らを犠牲にしてしまう。
『聖王妃の力は万能ではないわ。使い手がつかれている時は行使できない。私は山にいるときに力を使いすぎたの。そして力尽きたところを捕えられた。尋問を受け、処刑宣告を受けた。回復したのは王都の刑場で首を落とされる寸前だったわ。私はその瞬間に最後の力を使ったの。……今こうして話している私にとっては未来の話だけど。近い内に確実に起こる出来事よ。今までと同じく、私はなすすべもなく時の流れに突き動かされて死ぬのだと思う』
私の力は鏡の力。鏡を通して歴代の聖王妃とつながることができる。その力を借り受けることができる。そして歴代の中には己の力を他者に譲る力をもつ者がいたわ、と彼女は言った。
『世に出ていないだけで、歴代の中には生涯で一度だけ時戻りができる聖王妃や、時を繰り返すことができた聖王妃もいたのよ。もちろん私はそれらの力も使ったわ。借り物の力だから限りがあったけど、すべて使った。でも逃げられなかった。鏡で見たわ。私は処刑場へ連れていかれるところだった。その刹那、兵士の甲冑が鏡のように光って。私はとっさに己の力を飛ばしたの。最愛の者へと。力を譲る聖王妃の力を借りて。自分のすべてを譲ったの。これから苦難の道を歩むことになる大切な者を守るために。最期の瞬間にあの子に祝福の光を届けたの。あの人との間に授かった赤ん坊に』
まさか、それでは。リージェは息を飲んだ。脳裏に「だが聖なる乙女の力は信じるぞ。何しろ俺にもその力の一片がある」と言った、あの男の顔が浮かぶ。
『そう、あの子は私の大切な息子』
あの男と同じ髪と瞳の色をした聖王妃ダリアが言った。
『お願い。あの子を救って。私はあの子を守ろうとすべての力を譲り、一度しかつかえない時戻りの力も駆使して〈今〉の時間から逃がした。だけどそれが裏目に出たの。あの子は私を、いえ、私たち聖王妃を救うために再び奈落の蓋を開けようとしている。そのために何度も時を繰り返させた。今のあなたの状況はあの子の試行錯誤のせいなの。この世界の聖王妃という制度を壊すために。そして、自分を滅ぼすために』




