2.捨てられた姉娘
「侯爵邸に到着いたしました、リージェ様」
「ありがとう、ロイド卿」
王妹殿下に挨拶を済ませると、リージェは気まずい誕生祝いの席を辞してそのまま邸へ帰還した。手を伸べてくれた護衛騎士に礼を言い、馬車から降り立つ。
王太子の婚約者として招かれた夜会は公務に該当する。王宮から馬車と護衛がよこされるのでとても助かる。自分の馬も馬車ももたないリージェはこれがなければどこにも行けなかっただろう。
侯爵家の門まででいいというのに、丁寧に離れの玄関まで送ってくれた騎士が、何か言いたそうにリージェを見る。何か? とうながすと、彼が言いにくそうに言った。
「その、この離れの現状を侯爵閣下は御存じなのでしょうか。もしやここにはリージェ様以外、誰もいないのでは?」
言われて、リージェは灯一つない、暗い離れの窓を見上げる。主が帰還したというのに、そこには何の動きもない。誰もいないのが丸わかりだ。
「……私は清貧を貴ぶ聖域育ちですから。人の多い環境はおちつかないのです」
「ですがいくら侯爵家の敷地内とはいえ、妙齢の令嬢がお一人でなど危険すぎます。侯爵閣下の手が回らないと言うのなら、せめて王太子殿下に申し上げて……」
「それには及びません」
あわててさえぎる。
「聖王妃候補を害そうとする者などこの国にはおりません。それにここも昼は人の出入りもあってにぎやかなのですよ。気遣ってくれてありがとう」
急いで言うと、リージェは、おやすみなさい、と中に入った。扉を閉ざし、ほっと息を吐く。
親切な騎士には申し訳ないが、ことを荒立てないで欲しい。父母の神経をこれ以上逆なでしたくない。
もう一度、ため息をついて、暗い、誰もいない玄関ホールを見上げる。
侯爵家の離れだけあって凝った作りの建物だが、そこにはリージェが焦がれる温かな言葉をかけてくれる者はいない。
「おかえりなさい」
何の変哲もない一言。リージェは王太子の婚約者の地位よりも、美しいドレスよりも、何よりその言葉を欲しがっていたけれど。
リージェの育ちは特殊だ。
侯爵令嬢として生まれたが、物心がつく前に聖域にある修道院に入れられた。戒律の厳しいそこでは皆、必要以上の口を開かなかった。
深々と静けさが支配する、荘厳な冷たい石造りの修道院。
それがリージェの知る〈家〉だ。
だからリージェは普通の家庭というものを知らない。家族というものもよくわからない。
それでも父のことは慕っていた。妹の世話があるからと一度も顔を見せなかった母と違い、父は年に一度は面会に来てくれた。父が愛しげに語る妹のマリアージュにも会いたいと思っていた。書物でしか知らない妹や家族と仲良くしたいと憧れていた。
そして時は流れ、リージェは大人たちの意向で俗世に戻されることになった。
長く暮らした聖域を出るのは不安だった。だが父や妹と暮らせるならと怯えを殺して馬車に乗った。これから向かうのは自分の家で、そこには父以外にも母と妹という家族がいるのだと、自分を励ました。
戻ってきた〈家〉に待っていたのは成長した妹とそれを守るように抱きしめる母、そしてリージェを困ったように見る父だった。
たまに会いに行くだけならその時とりつくろえばいい。だが家族として暮らすとなるとどうすればいいのかわからない。唇を引き締めた父の顔に、リージェは現実を知った。
結局、未来の王妃と同じ屋根の下で暮らすのは畏れ多いと、リージェは離れをあてがわれることになった。
ていのよい厄介払いだったが、リージェは何も言わず受け入れた。流れる水のようにすべてを受け入れ、すべてを許しなさい、そう諭され育ったリージェはそもそも世俗の慣習にうとい。願いを口にするのは我儘だと言われる暮らしをしてきたこともある。
それに最初はこの離れも気持ちの良い場所だったのだ。
その頃のここには住み込みのメイドも何人かいて、夜も灯が絶えることがなく明るかった。顔こそ見せなかったが父も親としての義務は果たしてくれた。
王太子の婚約者にふさわしい調度やドレスを用意してくれたし、貴族社会のことを学べるようにと教師もつけてくれた。質素な聖域の暮らししか知らなかったリージェは、出される食事のあまりの贅沢さ、量の多さに毎回驚いて、給仕の侍女に笑われたものだ。
王太子クロードに引き合わされたのもこの頃だ。
皆に祝福されながら社交界にデビューして、彼のエスコートで夜ごと華やかな集まりに足を運んだ。あまりの煌びやかさにリージェは圧倒されてばかりだったが、物なれないリージェの失敗はクロードが優しく取り繕ってくれた。恐縮するリージェに、君は僕の運命の伴侶なのだから、と言ってくれた。
そうしてやっと社交というものをこなせるようになった頃に妹マリアージュもまた光の加護を得ていることがわかったのだ。
リージェは王家が自分たち姉妹の処遇を決めた時のことが忘れられない。
王宮から来た使者に見せた父母の顔が。
きっと朗報だ、リージェが廃され、マリアージュが新たな聖王妃候補とされるのだと、祝宴の用意までしていた父母は真っ青になった。姉か、妹か、生き残るのはどちらか一人と知らされた父母が溺愛するマリアージュを選び、リージェを敵視したのは当然の結果だっただろう。
それからの父母は必死だった。
確実にリージェではなくマリアージュが選ばれるように動いた。
今まで妃教育などせず、自由に遊び暮らしていたマリアージュを誰の目から見ても妃にふさわしい娘にするために、リージェにつけられていた教師はすべてマリアージュ付きにされることになった。
身を飾るドレスも、装飾品も。人の目や耳を喜ばせる絵画や楽器も。
少しでも王太子の気を惹きそうなものはすべて取り上げ、マリアージュの物とした。そして社交界でも必死にマリアージュのほうが素直でいい子だ、聖王妃にふさわしいと言い立てた。
何年も妃教育を受けてきたリージェとは差がありすぎるという絶望感があったのだろう。安易にマリアージュが光の加護を受けたことを王家に知らせたからこうなった、その負い目もあったのだろう。父母は今まで以上にマリアージュを優先するようになった。
父母の気持ちはわかる。
リージェが同じ立場でもマリアージュに罪の意識を感じただろう。だが……。
「私も、あなたたちの娘なのですよ、ね……?」
独り、無人の離れに取り残されたリージェはつぶやく。
小さくため息をつくと、リージェはのろのろと動き始めた。
早くドレスを脱いで手入れをしなければ皺になる。もう夜会に着ていけるドレスはこれしか残っていない。
貴族令嬢としてあり得ないことだが、リージェは修道院育ちで身の回りのことはすべて一人でできる。なので不便はない。ドレスの手入れを終え、動きやすい部屋着に着替えると、リージェは階下に降りて玄関広間にある甲冑に手を当てる。つながった掌を通して、かすかな思念がリージェの中に流れ込んできた。
『姫さま、お帰り』
「ただいま、マルク」
『夜会は楽しかった? 誰も姫さまをいじめなかった? ボクたち心配してたんだよ』
「ありがとう、大丈夫だったわ。楽しかった。マルクたちこそお留守番してくれてありがとう」
この離れに独りになって気づいたことの一つ。
リージェは無機物に手を当てると相手の声が聞こえるらしい。もう教師は下げられてしまったので訊ねることはできないが、これが聖王妃の力の芽生えなのだろう。
リージェは顔を軽くふって暗い思考をふりはらうと、皆ににっこり笑ってみせた。
人間の同居人がいないリージェにとって今は彼らが唯一の家族だ。この力はただの石、壁などには通じない。人型の物にのみ反応する。だが紅茶カップにインクで顔を書いてみると話せるようになったので、こちらが相手を〈人〉と認識できればいいだけなのかもしれない。
まだまだ未知の自分の能力。
リージェは一人で過ごす離れでの時間を、この力を調べることにあてている。
マリアージュと競うためではない。ただ純粋に、自分以外の誰かと言葉を交わせるのが嬉しいからだ。戒律の厳しい聖域にはなかったので見たことはないが、書物にある人形やぬいぐるみならもっとうまく動かせるかもしれないと、最近は自分で試作もしている。
裁縫の腕が下手なのかつくった人形たちは声を返してくれない。が、たくさんの可愛い人形たちがリージェの帰りを待ってくれるならここでの暮らしは居心地の良いものとなるだろう。
自由にできる時間なら十分すぎるほどある。リージェにはもう教育をおこなう教師はいない。仕える者もいないし来客もないのだから。
材料は離れの物置から集めた。父の了解は得ていないがもう何年もうち捨てられているものだからかまわないだろう。新しい家族の髪には古いカーテンタッセルをほどいてつかうのはどうだろう。破れて置き去りにされているクッションの詰め物をつかえば体だって作れる。裁縫の仕方は修道院で習った。リージェは庭で拾った木切れを骨に、ドレスを繕うのにおいていた布で服を造る。それは寂しい現実から目をそらす逃避行為だったかもしれない。
そして現状を打破する道から眼を逸らす狡さかもしれない。
何故なら、最近のリージェは感じるのだ。
眼を閉じると現れる、眼には見えない薄く脆いガラスのような壁を。
この向こうに手を伸ばせば聖王妃としての完全な力が手に入る。そう本能が言っている。
だがリージェはいつもためらい、手をひいてしまう。
自分が力に目覚める時、それは聖王妃への道をまた一歩、先へと進むのと同じ。マリアージュと差をつけることになるからだ。
父母は先に目覚めた姉をどれだけ責めるだろう。そんなに妹を死に追いやりたいのかと泣くだろう。
それは己が死ぬ恐怖よりリージェの心を冷たくさいなんだ。
父母を労わる聖なる乙女らしい優しさからではない。そもそもリージェは自分が聖なる者と呼ばれることに違和感がある。何故ならこの胸を占める思いは人に無償の犠牲をささげる聖人とは真逆のものだから。
聖王妃としての力の萌芽がありながら黙っている。それが引き起こす国の混乱より、父母の愛が欲しいと願う我儘だから。もしこの世界に真実、悪魔という者がいるのなら、リージェは己の魂を売り飛ばしても、家族の愛が欲しいと願うだろう。
だが愛が欲しいと願っても、リージェはそれがどういうものかよくわからない。
清貧たれ、無欲たれとしつけられたからではない。今まで温かな愛を向けてくれる人と暮らした記憶がないので、想像がつかないのだ。
それでも世間では親は子に愛を注ぐといわれていることを知っている。
知識としてしか知らない愛。それがどういうものか、一度でいい。感じてみたい。
それさえ見せてもらえれば父の望み通り、マリアージュにすべてを譲り、幽閉ののち処刑という運命に甘んじてもいいと思う。
俗世に出て二年、いまだリージェの胸に充足感は生まれていない。
愛への渇望。
それは感情を持たない薄情な娘、そう父母にののしられるリージェが唯一、大切に守り持つ〈感情〉かもしれなかった。




