14.猟犬の群れ
リージェを助けてくれたおかみは、下町で酒場を経営する女性だった。
地方から売られるように都に出て小金をため、自分の酒場を開いたという努力の人だ。それでいておかみは優しさも失わず、自身の過去が重なるのか困った境遇の女を拾っては住み込みで酒場で働かせてくれていた。
そして事情を話せず行く当てもないリージェにもここで働かないかと誘ってくれたのだ。
リージェは感謝して頑張ると誓ったが問題が生じていた。店での接客態度についてだ。今夜もリージェは慣れない業務に緊張しながら客に声をかける。
「ご注文はお決まりでしょうか、お客様」
「あ、そ、そうだな、その、てきとうに良き食事を見つくろってくれ、いや、いただければ」
「その、俺も。酒はやめとくわ。あ、いえ、やめておきますです、はい。日々の糧、万歳」
テーブルについた男たちが居心地悪そうに目をそらせる。まただ。リージェは肩を落とした。この酒場で働きだして四日。何がいけないのか、教えられたように接客しているのにリージェが店に出ると皆、酒の注文をやめてしまう。ここは酒場なのに姿勢を正して食事だけとると帰ってしまうのだ。
「もう、何やってんのよ、どきなさいっ」
どん、とリージェを押しのけて現れたのは、この酒場の看板娘、タニスだ。豊かな金髪と紅の唇が印象的なタニスは、リージェからメモを奪うと慣れた口調で注文を聞く。
「ごめんなさいねー、この子、気が利かないから私が代わるわ。ジャンさんはいつものエールでよかったよね。料理は本日のおすすめでいい? 今ならおまけもつけちゃうっ」
「ああ、タニスか」
客たちの顔が明らかにほっとしたものになる。
「この子、新入りで愛想がないから。その分、私が笑顔奮発するから気分直して飲んでって」
「そっか? じゃあ、そうするかなあ」
「タニスはいいねえ、いっつも明るくて。俺らの癒しだよ」
客たちがにこにこ顔になって酒の追加を頼みだす。店の雰囲気が変わった。
すごい、と感心していると、どんっとまたタニスに背を押された。
「ここは私がやるから、あんたは引っ込んでなさい。これ以上売り上げ落とさないで!」
面目ない。リージェは厨房に引っ込むと皿洗いを始めた。手を動かしながら反省していると、これまたおかみに拾われて同居している孤児の少年、ジルが芋の籠を抱えてやってきた。
「ジル、もう遅いから、あがって寝たら? おかみさんだってそうおっしゃるわよ」
「うん、わかってる。けどリージェ一人じゃ寂しいし物騒だろ。おかみさんが来るまでつきあってやるよ」
まだ八歳なのにこの酒場唯一の男ということで、用心棒を気取るジルが椅子を引き寄せて芋を剥き始める。彼は気配り上手で、聞き上手なのだ。リージェよりずいぶん年下なのにすでに〈先輩〉の貫禄にあふれている。
そうなるとリージェもつい相談を持ちかけてしまう。
ここにいる皆は気安い人が多いせいか、リージェの口数はずいぶんと増えたと思う。
「なるほどねえ。リージェ姉ちゃんは悪くないと思うよ、だけどあのおっちゃんたちの気持ちもわかるんだ、俺」
「あの方たちの、気持ち……?」
「うん。姉ちゃんを前にするとさ。昔、田舎の修道女のばあさんに悪戯がばれて諭された時のこととか思い出すんだ。姉ちゃんが元修道女だからかなあ」
醸し出す雰囲気というものがあるらしい。服も変えたし、口調も変えたつもりなのに、そういえば初めて会った時マリアージュにもおばあさんみたいと言われた。今まで気づかなかったが、自分はかなりおばあさんくさいらしい。
「そんなに落ち込むことないって。リージェ姉ちゃん素材はいいんだし。後は努力だ。おかみさんだって言ってるだろ。足を出しゃ前に進むけど出さなけりゃどこへも行けないって」
「そうね、ありがとう、ジル」
ここにはたくさんの頑張っている人がいるから。ジルの言葉がリージェの胸に染みる。頑張らなければと思える。
人に愛されるには才能がいる。この二年、マリアージュを見てそう思っていた。自分と比べて落ち込むだけだった。が、こうして邸から離れて店の女たちを見ていると、マリアージュも陰では頑張っていたのだろうなと思いはじめた。
いつだって天真爛漫にふるまっていたように見えるマリアージュ。だが笑顔を浮かべるのにだって気力がいる。マリアージュは両親に愛されていた。それはリージェがいない十年の間、親の愛を得るために頑張ったからではないか。
(その間、私は何もしなかった。お母様に面会にきてほしいと言ったことすらなかった)
愛がほしいと願いつつ、自分は一度でも愛してくれとすがったことはあっただろうか。
人は言葉がなければ自分の想いを伝えられない。なのにリージェはマリアージュの機嫌を損ねるからという父の言葉に従ってマリアージュと話そうとはしなかった。母にもだ。眉をひそめられるのが怖くて、私を見て、愛して、と訴えることができなかった。
どうして自分は離れを出なかったのだろう。嫌われるのを覚悟で本邸へ行って、母に甘えなかったのだろう。もしかしたら今とは違う関係になれていたかもしれないのに。
厨房の壁を見る。おかみの方針でこの店の裏方には表情点検用の鏡がかかっている。
今からでも遅くないかもしれない。今度マリアージュや父母と会えた時、自分の顔にも人好きのする笑顔を浮かべてみたい。
ちょうどジルが「塵捨ててくる」と外に駆け出して一人になった。皿を洗いつつタニスの真似をして笑ってみる。通りかかったおかみが、ぷっと笑った。
「手と顔を同時に動かすなんて器用だねえ」
それじゃあ、さぼってるって怒れないね、と笑うおかみだが表情に影がある。
「あの、おかみさん、どうかされたのですか。昨日からお顔の色がすぐれませんけど」
「ああ、何でもないよ、経営者の苦悩ってやつさね。一国一城の主ってのも楽じゃないねえ」
ははは、とおかみが笑う。無理をしているのが丸わかりだ。
なのにおかみはこんな時でも新入りのリージェに優しく声をかけることを忘れない。
「にしても最初は貴族のお嬢さんが使い物になるか心配だったけど。あんた、手際がいいねえ」
「皿洗いや料理の補助でしたら修道院で毎日していましたから」
接客が無理なのだ。せめてここだけでも頑張らないと。修道院仕込みの奥の手で同時に二皿くるっと洗って見せると、おかみが感心して腕を組んだ。
「へえ、うまいもんだねえ。あんた、働きもんだよ」
おかみが褒めてくれて、リージェは思わず頬に熱が集まるのを感じた。
聖域では労働は義務だった。こなして当たり前で、褒めるなど虚栄心につながることは禁じられていた。なのでこんなふうに言われたのは初めてだ。
(もしかしてこういう方が〈おっかさん〉というものなのかしら)
素朴だが温かい暮らし。リージェの縮こまっていた心が、息を吹き返した気がする。
だがまだ追っ手は自分を探しているかもしれない。ここにいればこの温かな人たちを巻き込むかもしれない。店に戻っていくおかみを見送って思う。
(せめて殿下に連絡が取れたらいいのだけど)
クロード。彼のことを考えると、胸がきゅっと痛む。彼はリージェが邸を出たことを知っただろうか。離宮においでと誘ってくれた彼の言葉を破る形で邸を出たことを謝りたい。それがなくても自分が無事と知らせるべきとわかっている。だが連絡手段がない。
男たちに追われた時に石像が倒れてきたこと、あの壁を壊すような感覚。聖王妃の力の芽生えだと思ったのにまた何も感じなくなっている。
(力さえあれば。これさえ動かせれば、殿下の元へ手紙を運べるかもしれないのに……)
手にした皿に「助けて」と念じてみる。が、何の反応もない。
ため息をついて再び手を動かした時、何かが視界の隅で動いた気がした。
あわてて顔を上げる。そこにあるのはおかみの表情点検用の鏡だ。
うつった自分を誰かの影と見間違えたらしい。
ほっとして洗いものを再開しようとしてリージェは再び手を止めた。鏡を見る。
「え?」
思わず目を見開いて、凝視する。
鏡の中に、人がいた。
美しい黒髪の女性が、窓越しに呼び掛けるように、手を握り、懸命に口を動かしていた。
(何、これ……!)
彼女は必死に口を動かしている。最近使っていないが読唇術ならできる。修道院で病人の世話をしている時に声にならない要望を聞くのに身に着けた。
目を凝らすと、彼女の声にならない声が聞こえてきた。
『やっと、通じた。逃げて』
彼女はそう言っていた。逃げて? どういうこと? リージェがとまどった時だった。表の酒場の扉が開かれる音がした。客かなと思っていると、制止の声を振り払い、こちらに近づく長靴の音がする。
「ちょいと騎士様、こっちは裏方で……」
店の給仕、タニスの制止をふり払い、厨房に姿を現したのは一人の騎士だった。忍びらしく身をやつしてはいるが、下町の酒場には場違いな挙措の彼はリージェを見て顔をほころばせた。汚れた床に片膝をつき、恭しく貴婦人に対する礼をとる。
「リージェ様、よくぞご無事で。お探ししていました」
凜々しい騎士の突然の行為に、周囲が息を飲んで驚く。
が、リージェは彼を知っていた。クロードに命じられて公式行事での護衛を務めてくれる騎士、ロイドだ。その彼がなぜここに。リージェはおそるおそる声をかけた。
「ロイド卿? あの、どうして」
「数日前、非番で街に出たときに通りでお見かけしたのです。そのときはまさかと思い、追いませんでした。が、ここ数日、公務のお迎えのため侯爵邸にいっても取り次いではもらえず、もしやと思い探しておりました」
きっとジルにつきあって買い出しに出たときのことだ。おかみに借りた帽子で顔を隠していたが、風で飛んで露わになったことがある。
ロイドは侯爵邸でのリージェの扱いを知っている。なので面会を謝絶されたことでリージェの身になにかあったのではと気を回してくれたらしい。
「さあ、戻りましょう、殿下もお待ちです」
クロードの名を出されてどきりとしたときだ。
表通りから人の叫びと、犬たちの吠え声が聞こえてきた。どうしてこんな街中で犬たちの声がと、戸口の方を見るのと塵を捨てに店を出たはずのジルが屑桶を抱えたまま戻ってくる。
「大変だ、犬がいっぱい、こっちに向かってきてて!」
その背にかぶさるように黒い風のような猟犬の群れが店へと飛び込んできた。
「うわっ、なんだっ」
「きゃあああっ、犬よ、あっちいってっ」
人の悲鳴と布の破れる音、テーブルがひっくり返り器の砕ける音がする。そして驚く人たちの足の間を縫い、見事な体躯の猟犬たちが厨房へと押し入ってきた。
「リージェ様っ、お下がりをっ」
「ロイド卿っ」
犬たちは立ちすくむジルを素通りしてリージェに向かってくる。あわててカウンターの裏に隠れたが、犬は牙をむき、威嚇してくる。明らかにリージェを追えと命じられた犬たちだ。
そしてリージェには猟犬の群れを所有する人にも、追われる理由にも心当たりがある。
(やはり、お父様が……)
殺されかかった。決別して邸を出た。だがまさかこんな暴挙にまで出るなんて。
でもどうしてここがわかったのと考えて、はっと自分を見おろす。臭いだ。
侯爵邸の離れはそのままにして出てきた。あそこにはリージェの匂いのついた物がたくさんある。それらを猟犬にあたえれば途中、荷車で運ばれたこともあったが他は足をつかった。ここに来てからも顔を隠して何度か外へ出た。足取りはつかめる。
でも森ではなく人の満ちた街でここまで追ってこれるとは、犬たちの優秀さに唇を噛む。
巡礼馬車の襲撃も父のしわざだったのか。市街で犬を放てば大事になる。追い詰められてそんな判断力さえ失ってしまったのか。そこまでリージェが邪魔なのか。
父の憔悴しきった顔を思い出す。この時、リージェの胸に浮かんだのは、憎い、という感覚よりも、哀れ、という憐憫の情だった。
「ちいっ」
ロイドが剣を抜き、犬を切り裂く。その血に興奮したのか犬たちがさらに猛り狂う。ロイドを飛び越し、リージェに向かってくる。
その牙を見てリージェは思い出した。死にかけたのはこれが初めてではない、と。
詳細は覚えていない。思い出せない。だが今までにリージェは五度死んだ。一度目は護衛を務めていた者たちが寝返り剣で斬りつけられて。二度目は信頼していた司祭に毒を飲まされて。そして三度目は……。あの痛み。一人で逝く孤独と恐怖。なにより心を許していた人たちから殺意を向けられた悲しみ。
(私はまた殺されるの? 嫌っ)
身をすくめたときだった。どん、と後ろに突き飛ばされた。
「リージェ様、私の後ろへっ」
ロイドだ。彼がリージェを背にかばい、犬たちと向き合っていた。
「リージェ様、ここは私が防ぎます、ひとまず安全なところへっ」
だがどこへ? リージェはとっさに動けない。ここまで来るわずかの間にも何度も掌を返されてきた。裏切られ続けた過去、前世というのだろうか。それも思いだした。父にさえ犬をけしかけるほど疎まれている。彼を信じ切れない。この犬たちを率いてきたのがロイドでないとどうしていいきれる? クロードの元には手紙を盗み見た内通者がいる。そして自分はマリアージュと違い、人に愛されることのない娘なのだ。
その時だ。ジルの声が聞こえた。
「姉ちゃん、こっちだ。カウンターの上にのぼって、そうすれば届くから!」
はっと見上げると、ジルが柱を伝い、器用に店の梁にのぼっていた。太い梁にまたがり、リージェに手を伸ばす。
「来て、姉ちゃんっ」
彼なら、リージェが誰かを知らないジルなら信じていいはずだ。リージェはスカートをからげもった。床を蹴り、カウンターにのぼり、そこからさらに飛ぶ。間一髪、飛び上がった犬の咢が靴先をかすめた。
「こっちだ、天窓から出られる。屋根伝いに行けばあいつらも追ってこれないから」
ジルに誘導されるままに宵闇に沈む市街を逃げる。家と家がくっつき、もたれあいながら建つ下町を雨どいを伝い、レンガの割れ目に足をかけてよじ登り、煙突の立ち並ぶ屋根を伝って走る。眼下の路上を犬たちが追ってきたが、それもやがて後方に引き離す。
「屋根はここまでだ、後は馬車を使うしかない。それも犬の鼻を駄目にするやつ!」
日中は街を走り回って小遣い稼ぎをしているジルが目ざとく知り合いの商人を見つける。
「おっちゃん、店の帰り? ちょっとだけのせてっ。お礼にまた配達、手伝うからっ」
「なんだ、ジル、綺麗な娘さんつれて。店の子かい?」
香辛料のつまった樽や麻袋がぎっしりつまった荷馬車に同乗させてもらう。
ようやく、まいた、と実感できたのは、都の南の端、旧市街と新市街を区切る古い城壁の辺りまで来てのことだった。
荒げた息をおちつかせながらら、二人でずるずると地面に座り込む。
「……お店、大丈夫かしら」
「大丈夫だと思う。俺ら、すぐ外へ出たし、騎士の兄ちゃんがいるし。……床は犬の足跡だらけだろうけど」
せっかく親切にしてもらったのに、恩をあだで返してしまった。ロイド卿がなにがしかの補償をしてくれるといいのだがそこまで望むのは虫が良すぎるだろう。
これからどうしよう。店がどうなったか心配だが、もう戻れない。追手が来る。だが何も言わずに去るなど、おかみさんたちはどう思うだろう。
悩んでいるとジルが小さく、大人びた声で言った。
「……わかってると思うけど、姉ちゃんはこのまま逃げたほうがいい」
「え」
「俺、姉ちゃんの事情は知らない。けどもうあそこはばれたってのは分かるし。それにさ、俺、聞いちゃったんだおかみさんの悩みの原因。昨日、客が訪ねて来ておかみさんと話してて。おかみさんさ、借金があるんだ。酒場を開く時、足りない分を街の金貸しに借りたんだって」
ジルが言った。
「で、その金貸しの爺が前から借金の利子の代わりに、店の女の子を一人妾によこせって言っててさ。それ自体は別に下町じゃ珍しいことじゃないんだよ、あの爺、金離れはいいからいい旦那になるだろうし、おかみも店の姉ちゃんたちも、老い先短い爺さんの妾なら、質の悪いとこに落とされるよりゃ天国って、乗り気だったし」
それは人身売買ではないか。初めて聞く裏事情に、リージェは目を丸くする。
「だからタニス姉ちゃんが私が行くって言ってたんだ。俺が姉ちゃんに逃げろって言うの、実はタニス姉ちゃんのためもあるんだ」
「タニス、さん……?」
「うん。タニス姉ちゃん、若作りだけど実はもう歳だし腰痛めてて。給仕やめてゆっくりさせてくれる旦那が欲しいって言ってたんだ。なのにあの爺、リージェ姉ちゃんが新しく入ったの聞きつけてさ、どうせなら貴族の娘のほうがいいとか言い出しておかみさんも困ってて。姉ちゃんは修道女だからこういうのは嫌がるってわかってたから。タニス姉ちゃん、リージェ姉ちゃんにきつくなることあっただろ、あれ、そのせいなんだ。けど姉ちゃんがいなくなれば元通りタニス姉ちゃんが旦那のとこにいける。こんな騒動の後だとおかみさんだって言い訳を考えずにすむ。姉ちゃんにはそんな考え方よくわかんないかもしれないけど」
自ら望みよりよい条件のもとに買われていく。そんな世界もあるのだとリージェは知った。
「ごめん、ずばずば言って。でも俺、リージェ姉ちゃんのことも好きだけど、タニス姉ちゃんにもおかみさんにも恩があるから。拾われてから今まで育ててもらったから」
ジルが言って、その言葉で人の心が分かった気がする。ジルがリージェよりタニスを選んだのはともに暮らした時間があるから。過ごした年月の重みがあるからだ。
(同じなのだわ。私とマリアージュも)
父母の愛がマリアージュに向いたのはともに暮らした年月があるから。そして時の積み重ねがあるからこそ、わずか二年とはいえマリアージュより長く王太子と過ごしたリージェを、父母は脅威に感じた。
(別に、私のせいじゃなかった。マリアージュや父や母のせいでも。誰も悪くない)
この異様な二人の婚約者という今の状況が自分たち家族を変えてしまっただけなのだ。
すっきりした。
なら、家族のことはもう悔いまい。愛される才能がないのではと己を卑下すまい。家族を愛しているというのならクロードの言う通り、今を嘆くのではなくマリアージュと自分、二人が生き残ることができる道を見つけよう。
だが、それにはどうすればいい。聖域にも王宮にも迎えない身でどちらへ足を踏み出せば?
そんなリージェのとまどいを、ジルは正確に察したようだった。
「でも逃げろとか言ったって、姉ちゃん文無しだし、俺もあげれるようなもの何も持ってない。けど、祝福くらいはできるから」
ジルがシャツの下から、紐をつけて離さず首から提げているらしき護符を取り出す。
リージェの頭上にかざして、円を描く。流れる水のように、すべての流れは円に帰す。相手の無事と再会を祈る聖印だ。ジルの心がこもっている。泣きそうになりながらリージェは祝福をありがたく受けて、ふと、ジルがもつ護符に目が留まった。
「それ、もしかしておかみさんの?」
「うん、もらったんだ。俺が何も持ってないの知って、お守りだって」
この国では洗礼式の時にその誕生を祝って親から子へと護符が贈られる。だが孤児だったジルはそれをもっていなかった。だからこれはおかみからのジルへの親の愛なのだ。
照れたように頬を赤く染めて、ジルが護符を首から外した。
「でもこれから大変なのは姉ちゃんのほうだから。あげる」
「そ、そんな大事なもの、受け取れないわ」
「大丈夫、事情話したらおかみさんも許してくれるよ。いや、渡さなかったらかえって怒られる。俺はまたおかみさんにねだればいいんだし」
そう言うジルの顔は親を知らない孤児の顔ではなく、安全な、逃げ込める先としての親の愛を知る子どもの顔になっていた。
「……ありがとう」
礼を言って受け取る。手渡された護符はリージェが見慣れた都のものとは違っている。木板を彫り、小さな円を三つ連ねてあるところまでは同じだ。だが素朴な木肌に刻まれた文様の形が少し違う。それをじっくりと見て、リージェははっとした。
いざという時のために指にはめっぱなしにしている、例の指輪を見る。
「同じ……」
うずまく輪が重なり合い、一本の線となっている見慣れない模様。おかみの護符と同じだ。
「……ジル、おかみさんの故郷がどこか、知ってる?」
「え? どこだったかな。国の境だとか言ってたけど、南の……、ああ、カウ?」
「もしかして、カディア地方?」
「それだ!」
やはり、と思った。ただ一人、王家に嫁がなかった聖王妃が生まれ育った地の名だ。
とくん。
リージェの胸が何故か跳ねた。
とくん、とくん。
前にクロードに新たな道を示してもらった時と同じに、狂おしいまでの熱が胸の奥底から湧き上がる。これからのことを考える。ことがここまで大きくなればきっと王家の耳にも入る。クロードが動いてくれるだろう。自分は保護され、こんなことがおこらないように離宮に迎え入れられるだろう。だがそうなると父は? マリアージュは?
クロードはリージェにはごまかしていたが父たちのことをよく思っていない。これを機に何かを決断するかもしれない。
だが、自分がいなければ?
父の言葉ではないが、マリアージュがたった一人の聖王妃候補という状況になれば、侯爵家の皆にうかつな扱いはできない。
それになにより一瞬、蘇った記憶。自分が過去にも死んだという事実。そしてその死にはすべてマリアージュが関わっていた。
ことは二人の姉妹が生き残れるかという問題ではない気がする。
そして、鍵を握るのは聖王妃という存在だ。
「……私、できるかぎり、逃げてみる」
声に出して言ってみた。こんな無知な自分に何かできるとは思わない。だがせっかく外に出ることができたのだ。自分なりに聖王妃について調べたい。生き残れる道を探したい。
もちろん、追っ手はかかるだろう。クロードが周囲をなだめてくれるだろうが、聖王妃でない方は殺す決まりがある以上、見過ごしてはもらえない。
それでもいい。できるところまで逃げてみよう。生というものを燃やしてあがいてみよう。
リージェは大事に持っていたクロードの手巾を取り出す。
「もし店までクロードと名乗るこの手巾の主が来たら、私は無事です、愛していますと伝えて」
ジルに頼む。それから、これからの算段をする。
逃亡生活など初めてだが、まず考えないといけないのは何?
「ねえ、ジル、最後に一つだけ相談にのって。もちろん授業料は払うから」
今回のことでいろいろと学んだ。リージェは一つにまとめて頭巾で隠していた、長い銀の髪をほどいた。流れる清水のような銀色の流れに、ジルが目を丸くする。
「この髪をできるだけ高く買ってくれるところを教えてほしいの。路銀と……できるなら酒場を壊してしまった、その償いをしたいから」




