13.王都にて
体をゆらす振動を感じて、リージェは目を開けた。
「ここは……」
喉が引き攣れて痛い、声を出しにくい。いや、体中が痛い。ゆっくりと顔を上げてリージェは今、自分がどこにいるかを知った。どうやら屋外にいてロバが引く荷車の荷台に横たわっているらしい。意識を失う前のことを思い出して血の気が引いた。
「……!」
あわてて跳ね起きる。が、次には眩暈がして、また荷台の上に手をついていた。
あの男たちは? いったいどれくらいの間、気を失っていたのだろう。
辺りは紅に染まっていた。もう日没らしい。
(ここは? この荷車はどこを走っているのかしら……?)
ずいぶん長い間乗せてもらっている。荷車を引くロバもきっと疲れている。謝ってそろそろ降ろしてもらわなくては。そう思い周囲を見回す。見覚えのない通りだ。刺客らしき男たちから逃げていた街並みより路が狭く、舗装の状態も悪い。それに変な臭いもする。本当にこちらが王宮のある方角なのだろうか。
王宮は都のほぼ中央にある。
その周囲と北を兵舎や官庁、狩り場などが覆い、そのさらに東の外延部に向けて貴族の邸街が広がる。聖堂があるのは邸街と王宮の間だ。
リージェは追われるうちに都の南と西に広がる庶民の街区に迷い込んだはずだ。つまりそこから王宮に向かうには北か東を目指さなくてはならない。
だがどう見てもわずかに残る夕日の残照は前方からさしている。男は西に向かって進んでいるようにしか見えないのだ。
「あ、あの、ずいぶん乗せていただいていますし、もう自分で歩けると思いますから……」
リージェは御者台の男に声をかけた。だがふり返った男がいきなり手を伸ばし腕をつかむ。
「ちっ、縛っとくべきだったか。目立つかと思ってそのまま転がしておいたが」
「え? あの?」
強すぎる力に驚き、身を引こうとすると、暴れるんじゃないと押さえつけられた。
男が御者台から後ろの荷台に移ってきて、リージェを捕える。強く絡んでくる男の腕。すえた汗の臭いに、リージェの肌が粟立った。まずい。リージェを狙う敵だったのか?
「お、降ろしてっ」
暴れだしたリージェを男が「じっとしてろ!」と怒鳴りつけ、猿ぐつわをかませた。
「後ろめたいことをやらかした修道女様なんだろう? こっちはちょいと逃がしてやるお駄賃をいただくだけさ。用が済めば解放してやる。さあ、ついた。ここだ」
荷物を抱えるようにリージェを脇に抱えて、一軒の家の扉に手をかける。庭も塀もない、市街によくある狭い間口の縦に長い複合住宅だ。こんなところに連れ込まれたら。
だが叫ぼうにも声が出ない。助けて、助けて、さっきの広場の時のように必死に胸の内で叫ぶが、あの、硝子の壁をやぶるような不思議な感触は戻ってこない。
うまく動かない体で、必死に男の体を押しのけようとした時だった。
「ちょいと、あんた! その修道女様をどこへ連れ込む気だい!」
声がした。
ふりかえると恰幅のいいおかみさんが腰に手を当て、仁王立ちになっていた。
「そこ、連れ込み宿だろ。何考えてんだい、神に仕える修道女様相手に。ただでさえ神の怒りで聖人像が倒れたとか噂になってる時にさ!」
ちょいと、皆、出てきておくれ、ここに不心得者がいるよ、とおかみが声を張り上げて、男があわててリージェを放り出した。こそこそと逃げていく。
「ふん、呼んだってこんなとこじゃ誰も来ないのに、小心者が。まっとうな表通りの住人が、出来心でこんなとこに来るんじゃないよ、ばーか」
おかみがふんと鼻を鳴らしてこちらを向いた。噛まされていた猿ぐつわをとってくれる。
「あんたも。何をのんきにあんな男に連れ込まれてるの。知らない相手についていくなってのは子どもでも知ってることだろうに。いったいどんな箱入り修道女様だい」
リージェは地面に座り込んだまま、ぱくぱくと口を動かした。お礼が言いたいのに声が出ない。代わりにぽろぽろ涙が出てきた。
「ああ、もう、そんな泣かなくていいよ、べっぴんさんがだいなしだよ。それはそうと立てるかい……って、お前さん、足、どうしたね」
リージェの動かない足をおかみが見る。いつの間にか木靴は両方とも脱げて裸足だ。しかも皮がめくれてひどいことになっている。
「こりゃひどい。うちに来な、……ってさっき知らない相手についてくなって言ったばっかだったね。こりゃまいった。塗り薬をつけてやりたいだけなんだけど」
でも薬代ももっていない。一般に流通している薬はかなりの高額だと聞く。
ふるふるとあわてて顔を横にふると、おかみが破顔した。
「はは、お堅い修道女様だねえ。安心しな、困ってる修道女様から銭は取らないよ」
豪快に言って、おかみが聖印を結ぶ。それが見慣れない形式であることに目を丸くすると、おかみがまた笑った。胸元から変わった細工の聖具を出して見せる。
「わたしゃ、地方の出だからね。都のお上品なお祈りとはちょっと違うので育ったんだよ。フェルディナンド王国は広いからねえ」
前にもあの妙な男に似たようなことを聞いた。世界は広いのだなと思う。
「すれてないねえ、埃を落とすと手もきれいだし、あんた、かなりいいとこのお嬢さんだね」
どきりとリージェの心臓が跳ねる。
「けど、その服、ものはいいけど擦り切れてるし、修繕の跡もあるね。大事に着てある。没落貴族のお嬢様って感じかい? それがこんなとこにいるってのは訳ありだね。借金の代に意に添わぬ結婚を強いられたとかで逃げてきたとかかい?」
それは違うが、似ていないこともない。黙り込んでしまったリージェを、おかみが、とりあえず、うちに来な、と言って、通りかかった子どもを呼んだ。
「わかってると思うけどもう夜になる。なのに靴も履いてない若い娘がこんなとこで一晩過ごせると思うかい? 少なくともうちはここよりはましさ。明日のことは明日考えな」
手押し車でもいいから、表通りから車を呼んで来たら駄賃を上げるよ、というおかみの声を、リージェは遠くに聞いた。
また、熱いものが胸の奥からこみあげてきた。
おかみの優しさに感謝する想いだけではない。自分の無知と無力が恥ずかしくてだ。
今の自分は何が危険で、誰を信じたらいいのかすら区別がつかない。人を巻き込みたくない、迷惑をかけたくない、そんな人として当たり前のことすらできない。
親切にしてくれた人を危険に巻き込む恐れがあっても、人の慈悲にすがらなければ一夜を過ごすことすらできない身が歯がゆく、悔しかったのだ。
―――その、リージェの様子を、小さな手鏡越しに覗いている男がいた。
夜会の席で、リージェに指輪を渡した男だ。
彼は小さな鏡に映る、離れた場所にいる二人の女の会話を聞いていた。正確には彼女たちがいる下町の通りに面した部屋にかかった粗末な鏡を通してだ。
男がもつのは何の変哲もない手鏡だ。が、下町にある鏡とつながったように不思議な画像を男へと送ってくる。
命の炎を見る力と同じく、鏡を通してあらゆる時と場所をのぞくことができる。これもまた彼がつかうことのできる〈聖なる乙女の力〉の欠片だ。
リージェが無事、おかみに保護されて去って行くのを見て、男はくくっと笑う。
そして手をかざし、別の場面を手鏡に映す。
貴族街にあるリリューシュ侯爵邸だ。侯爵の寝室に飾られた鏡板に映った映像が男のもとに届く。意識を取り戻した父侯爵の枕元に、侯爵夫人とマリアージュがつめかけていた。
「殿下は今日もマリアージュの誘いにのってくださらなかったのよ、あなた!」
胸にマリアージュをかき抱いた侯爵夫人が、甲高い声で夫を責めている。
「しかもあの娘は逃げて行方も分からないとか。このことを殿下に知られたら。早く連れ戻さないと。なのにあなたときたら何も手を打たず、のんきに倒れてらして!」
「……そこは悪かった。だがすでに男たちに命じて探させている。あの子の行きそうな場所などたかが知れている、すぐに見つかるはずだ」
「そう言われてから何時間たちましたの? まだ見つからないじゃないですか!」
興奮する夫人を、お母様、と、なだめて、マリアージュが二人の会話に入ってくる。
「ねえ、お父様、お姉様がまだ見つからないのは探し方が手ぬるいからではなくて」
「マリアージュ?」
「お父様が街へやった使用人たちはそこにいる人たちをつかまえて、修道女服を着た銀髪の娘を見なかったかと聞いているだけなのでしょう? もうお姉様がいなくなってずいぶん時間もたつもの。見つけるのは無理じゃないかしら」
「……礼金を出すと言っておいた。金目当てに探す者も出るだろう。これ以上、ことを大きくしないためにはあまり大々的に探せぬのだ、マリアージュ。堪えてくれ」
「わかってるわ、お父様」
マリアージュは聞き分けよくうなずく。それからこっくりと首を傾げた。
「だったら、ねえ、人ではなく、犬を使うのはどうかしら」
「犬?」
「ほら、お父様って狩で獲物を追う時はいつも猟犬を使うでしょう? それにもうすぐ王家主催の鹿狩りがあるからって領地から連れてきたのが檻にいっぱいいるじゃない」
「……だが相手は人間だ。犬たちはしつけされているが血を見れば興奮するし、場所は街中で」
「まあ、あなた! せっかくマリアージュが賢い考えを出してくれたのに断りますの?!」
侯爵の言葉を、夫人がさえぎる。
「このままだとマリアージュは殺されてしまいますのよ。私たちの可愛い娘が、あの娘に殺される。なのに人間だと言いますの?」
妻の剣幕に、侯爵の眼がまたうつろになった。
「……そうだな」
と、糸の切れた人形のように言う。
「可愛いマリアージュを死に追いやるような者、人ではない、ケダモノだ」
それだけ見聞きして、男は手をふると鏡から映像を消した。
いや、消さざるを得なかったというほうが正しい。もともとこの力は男のものではない。男は聖なる乙女ではないのだから。長時間操れる技ではない。
だが、今はこれで充分。知りたいことは知ることができた。
どうやら無事、姉娘は逃げ、侯爵は娘を手にかけようとしている。そして聖人像の倒壊。すべて順調にいっている。
男は御者に合図して、馬車を出すよう命じる。あとの懸念事項はあの王太子か。今、あの若造に出てこられてはまずい。だがもうすでに手は打ってある。
「あの王太子が潜り込ました密偵はたしか、ジャン、といったか。気の毒なことをしたな」
あの夜会の後、すぐに処置した。王子に連絡などとれないようにしておいた。
それにしてもあのあどけない顔をした少女の発想がおもしろくてしかたがない。
(まさか犬を使うとは)
だがこれで彼女たちの物語が停滞することはない。
数十年に一度、フェルディナンド王国に現れる〈聖なる乙女〉。何故、彼女たちは現れるのか、何故、フェルディナンド王国にしかいないのか、そして何故、不思議な力を持っているのか。誰も知らない。その理由を考えてもみない。
神が遣わしたから。王家に嫁ぎ、国を栄えさせるために生まれてくる。
皆、そんな聖職者が言う馬鹿馬鹿しい言葉に納得して考えることをやめてしまう。彼女たちのことをもっとよく知ろうとしない。
それは聖なる力をもって生まれてくる娘たちにも言える。
聖王妃と呼ばれる女たち。何故、こいつらはこうもあっさりと死んでいくのか。何故、そんなに他人のことばかり考えるのか。
これが聖女と言う者の在り方だとしたら、それは呪いだ。祝福ではなく。
(誰もおかしいとは思わないのか、この歪な存在のことを)
男はそこで考えることをやめなかった。やめることができなかった。何故なら己の罪と存在意義がかかっていたから。そして辿りついた答え。
ここまでいきつくのにいったいどれだけの年月が必要だったか。今までざんざん失敗してきた。だが今度こそ。この二人の姉妹こそが己の望みをかなえてくれるだろう。
「そう、今度こそだ。今度こそ」
呪文のようにつぶやく。
今度こそ失敗しない。間違えない。ここはようやくたどり着いた特異点。己の欲する時空。
男は満足げに目をつむると、馬車の揺れに身を任せた。




