11.力の萌芽
困った。
リージェはようやくたどり着いた聖堂前広場で、途方に暮れていた。
時刻は侯爵邸を出た日の午後だ。邸を出たのが夜明け前だから半日かけて到着したことになる。すでに目的だった聖域行きの馬車はない。リージェは乗り遅れたのだ。
ためていた息を吐きだして、リージェはその場に座りこむ。自分が世間知らずであることを思い知らされた。
邸の裏門から出たリージェはまず自分が正門からしか外に出たことがないのに気がついた。当然、裏門に面した道はいつもの見知ったものではない。聖堂までの順路がわからない。しかたなく侯爵邸を迂回して正門前に出ようとした。が、隣家と接する塀の間には路がなく、大回りをしなくてはならなかった。その過程で進む方向を間違えたらしいのだ。
いくら歩いてもいつもの通りに出ることができず、リージェは自分が二年も都で暮らしていながら馬車でしか外に出たことがなく、妃教育の一環で覚えた都の地理も地図上のもので現実の街並みとは違うことを知ったのだ。
それでも歩く内に貴族の邸街を出ることはできた。人を見かけるようになって道を聞けた。
なんとか聖堂が見える場所まで来れたと思ったら今度は道端に座り喜捨を求める老人がいて。鞄を横に置き、渡せるものはないかと探していたらその老人に鞄をかっぱわられた。
老人のふりをしていただけで実は若かったらしき相手をあわてて追いかけて道に迷い。鞄はあきらめ、また人に聞きつつ聖堂前まで戻った時には手遅れだった。馬車は出発した後だった。
足がじんじんと痛い。太陽もとっくに真上を過ぎていて、喉もからからだ。聖域行きの巡礼馬車は一日一便、次の馬車は明日まで待たなくてはならないらしい。
(どうしよう。明日の便に乗るにしても、今夜一晩、どこで過ごせば)
そもそもお金がないと巡礼馬車には乗れないことを、ここに来て初めて知った。自分が情けない。侯爵邸を出る時リージェは一エルもお金を持ち出さなかった。もともと自分のお金などないし、離れにもおかれていなかった。
こういう場合、働くか、持ち物を売って金を得ると知識としては知っている。が、鞄も失ったリージェの持ち物は今着ている修道女服にクロードの手巾、それにあの指輪だけだ。クロードのものを売るなんてとんでもないし、護身具の指輪は他の者には見えないので論外。働くにしてもどうやって仕事を見つければいいかわからない。
もう少し先のことを考えて、換金できるものを持ち出すべきだった。
何より食べ物や飲み物を持ってくればよかった。悔やんだがもう遅い。くう、とリージェのお腹が鳴る。今日はいつになく動いているのに、最後に食事をとったのは昨日の昼過ぎ。夜会のドレスに着替える前に少し焼き菓子をつまんだだけだ。
甘えるまいと思ったが、クロードを頼るより他に道がない。
(ずいぶん時間がたってしまったけれど使いの人は待ってくれているかしら。いえ、そもそも手紙は殿下にもとに届いたの?)
ここまでの自分の不手際を見ると何があっても不思議ではない。不安でいっぱいになりながら聖堂に入ろうとして、リージェは、ふと足を止めた。眼をすがめる。
怪しい男たちが、そこにいた。
リージェは世俗の荒事とは無縁で育った。訓練された騎士のように殺気を感じることはできない。だが、聖域で長く暮らしたのだ。聖堂に不似合いな人間ならわかる。
その男たちは迷いがあるようにも、救いを求めているようにも見えなかった。そもそも聖堂の前にいるのに開かれた扉には背を向け、出入りする者にばかり鋭い目を向けている。
嫌な予感がして、リージェが物陰に身を隠した時だった。あわてたように聖職者が一人、広場に駆け込んできた。
「大変だ、馬車が、馬車がっ」
聖堂に走り入りつつ、上役を呼んでいる。何事かと耳をそばだてた人々の前を、今度は物々しい兵士の一団が駆けていく。何かあったのだ。リージェが目を丸くしている間にも人の口から口へと噂が駆け巡る。
「聖域行きの巡礼馬車が襲われたらしいぞ」
「しかも皆殺しだってよ。ひでえ、いったい誰が」
リージェが乗ろうとしていた馬車だ。どうしてと息を飲み、亡くなった人たちのために聖印を結ぼうとして、ふと思った。
もし鞄をなくさず、リージェが予定通りここに来ていれば? なにかを売って金を手に入れ、馬車に乗っていた。そして賊に襲われていただろう。
父の追手に捕まるまでもない。殺されていたのは自分かもしれなかった。
そこで、ざっと血の気が引いた。
(もしかして、私のせい……?)
考えすぎだ。いくらリージェが憎くても父が馬車を襲わせ罪のない人々を殺すわけがない。
だが今まで事故にあったと聞いたことすらない巡礼馬車が襲われたのだ。疑念をもつのを止められない。父は優しい人だ。そう思ってもこれはお前を狙ったものだと嫌な確信が胸の奥からせりあがる。お前のせいで人が死んだのだとリージェを責める。
冷たい汗がにじんでリージェはよろめいた。家の壁に手を当て、自らを支える。
これが追手のしわざなら、どこでリージェの行き先を知ったのだろう。
後をつけられたのではない。それならリージェを直接襲うはずだ。鞄を追いかけてリージェはひと気のない路地やごみごみした下町を走り回った。いくらでも襲う隙はあった。
木の洞に隠した手紙には、聖堂に行く、乗れるなら聖域行きの馬車に乗ると予定を書いたが、あれは密偵経由でクロードの元へ届くものだ。なのに。
(……まさか、殿下の周囲に手紙の内容を見た人がいる?)
リージェははっとした。
勘繰りすぎだろうか。だが他に考えられない。
妃教育で宮廷の権力争いのことは学んだ。今の宮廷では自分とマリアージュ、二人の聖王妃候補がたったことで派閥ができ、争いがおこっているという。それを聞いた時、自分は甘くも、どちらかが正式に位につけば争いも自然と収まると思っていた。
だが自分を邪魔に思う者が、父と同じ結論に達しないと誰が言いきれる?
ここは人と人が争う俗世なのだ。
リージェはようやく自覚した。
生きたければ自分で自分の身を守らなくてはならない。
そうなると聖域を目指すのは無謀過ぎる。聖堂が見張られている以上、死骸の中にリージェがいないことは知れたのだろう。なら巡礼馬車を使えばまた他が巻き込まれる。徒歩で行っても途中の道に見張りがいるかもしれない。
そして王宮のクロードに助けを求めることもできない。情報がどこからもれたか分からない。近づくのは危険だ。自ら敵の手に飛び込むことになる。
蒼白になって立ち尽くしていると聖堂を見張る男たちの一人と目が合った。はっとして顔を隠したがもう遅い。
「おい、あれだ!」
「逃がすなっ」
男たちがこちらに向かってくる。リージェはあわてて逃げだした。
走る、走る。
朝に鞄を追って走った道を、初めて見る曲がり角を必死にリージェは走る。
踵のない修道女の木靴をはいてきてよかった。それでも女の足では限界がある。ただでさえリージェは睡眠が足りていない。俗世に戻ってからは体を使う暮らしもしていない。
対して男たちはこういった捕り物に慣れているらしかった。執拗に追ってくる。
力尽き、追い詰められて。
どこをどう走ったのか小さな広場にリージェはいた。共同の水汲み場らしき所だ。壁面から流れ出る清水の横には、大きな聖人像が立っている。
その像を背に、リージェは荒い息をつく。
とっくに足の皮は剥け、血が出ている。それ以上に肺が痛い。もう一歩も走れない。
「手間をかけさせやがって」
「さあ、こっちに来るんだ、お嬢ちゃん」
男たちの手が伸びてくる。その眼に宿った剣呑な光はリージェでもわかる。殺意だ。
殺される。
リージェは正しく彼らの意図を悟った。辺りには人もいるが関わり合いになるのを恐れてか足早に去っていく。無駄と分かっている。それでも助けを求めて叫んでしまったのは、生きたい、と願うリージェの本能だったのか。
「た、助けてっ」
細い悲鳴が広場にこだました、その時だ。
リージェの中で何かがはじける感覚がした。
パリン、と。
脆い硝子が砕けるような音がして、リージェが背にした聖人像がふるえはじめた。
「え?」
重厚感のある土台の上に立った石像だった。ふり仰いだリージェの眼に、大人の背の二倍はありそうな大きな像が、ぎしぎしと音をたてながら倒れかかってくるのが見えた。
そんな馬鹿な、誰も力を加えていないのに。
息をのむ。だが現実に像は倒れてくる。
「うわっ」
「なんだっ」
男たちがあわてて距離をとる。リージェも腕で頭をかばい、倒れこみながら像を避けた。
ゴオン、と。
音を立てて倒れた像が自身の重みに耐えきれずに砕ける。
飛び散る破片に、舞い上がる砂塵。何事かと周囲の家々が窓を開け、路地の奥からも人がこちらに顔を向けやってくる。街の憩いの場の異変に、役人や街の顔役を呼ぶ声もする。
「ちっ」
ここで危害を加えては人目につくと思ったのか、男たちがリージェを捕らえるのをあきらめた。去っていく。
リージェは石畳の上に頭を抱えたまま転がっていた。
体ががくがくとふるえて動けない。
あの時、確かに硝子が砕けるような感触がした。
リージェはその存在を知っている。今まで何度もふれる直前で手を引いてきた壁。聖王妃の覚醒を阻むなにか。あれはそれが壊れる感触だった。
なら、石像が倒れたのは?
「私、は……」
からからに枯れきった声でつぶやく。
「おい、あんた、しっかりしな!」
声をかけられてはっとする。
「けがはないか? 修道女さんみたいだけどどうしてこんなとこにいたんだね。お使いにしちゃ手ぶらだし」
リージェに声をかけているのは人の好さそうな中年の男だった。この近くの住人だろうか。いそいで周囲を見る。石像は転がったままだ。砂埃も完全にはおさまっていないが人が集まってきていた。巻き込んではまずいとリージェは身を引いた。
「あの、ご親切に声をかけてくださりありがとうございます、私は大丈夫ですから」
枯れきった声で言って立ち上がる。が、リージェの膝はすぐにかくんと折れてしまう。そもそも体が限界だからここに追い詰められたのだ。動けるわけがない。
だが集まってきた人の中に追手がいるかもしれない。
リージェは反射的に顔を伏せた。とっさに顔を隠したリージェを、男がじっと見る。
「わけあり、みたいだな」
妙にうわずった声で男が言った。
「俺は配達の帰りなんだ。人に見られたくないなら荷車で良ければ乗せてやるぜ。ここにはいたくないんだろ」
「いえ、ほんとうに大丈夫ですから」
親切な申し出だが、今のリージェには誰が敵か味方か分からない。なにより巡礼馬車の一件が胸に重くのしかかっている。
「だけどあんた、歩けるのかい?」
言われて唇を咬む。
もう体が動かない。かといってここで休んでいるわけにはいかない。追手がまた戻ってくる。砂埃が舞い、人の多い今の間に動くべきだ。
「……お願い、できますか」
背に腹は代えられない。
「お手数をおかけしますが王宮へ向かっていただけたら。お礼は後で必ずいたしますので……」
お金はないが聖域の修道院で受け入れた女性の中には歯や髪を売ったと言う人もいた。髪なら幸い長い。リージェでも売ることができるかもしれない。
王宮にも当然、敵の手が回っているだろう。侯爵邸に戻れないリージェが頼れる場所などしれているのだ。見張られている。
だが王宮であれば人の出入りが激しい。敵も手を出しにくいはずだ。
いや、そんな理由は後付けだ。
危険とわかっていても心細くて。
リージェはただ少しでもクロードの近くにいたかったのだ。
(王宮の正門までいけば衛兵がいる。その前で襲われることはないわ。だからそこで殿下の馬車が出てくるのを待って、それから……)
リージェは自分に考えられる限りの防衛法を頭の中で組み立てる。
そしてそれがリージェの限界だった。
酷使した体と心が耐えかねたのだろう。ふっ、と視界が暗くなる。
自分の体が制御を失い、地面に崩れ落ちるのを感じたのを最後に、リージェは意識を手放したのだったーー。




