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10.深夜の出来事

妹マリアージュ視点です。

 不安と不審、それに希望と歓喜。

 わずか数時間の間に驚くほどいろいろなことがあった夜だった。こんな夜は初めてだ。

 そのうえ、驚きの連続は王宮を辞した後も終わっていなかった。

(こんなことって。信じられない……)

 目の前に広がる思いがけない光景に、リージェは目を見張った。

 ロイド卿の警護で侯爵邸に戻ると、無人のはずの離れに明かりがついていたのだ。驚いて中に入ると、王宮から来た女官たちが待っていて、笑顔で迎えてくれた。

「おかえりなさいませ、リージェ様」

 ずっと欲しいと願っていた言葉だ。

 それをかけられた。リージェはまた息を飲んだ。

 女官たちは「お疲れでしょう」と帰宅したリージェを気づかいドレスを脱ぐのを手伝ってくれると、温かなミルクや湯浴みの用意までしてくれた。その心遣いが嬉しくて、ありがたくて、リージェは嬉し涙を我慢するのに苦労した。

 しかも彼女たちは「特に連絡はないのですが、先ほどから本邸のほうが騒がしくて。リージェ様お独りでは心配ですわ。私どももこちらに泊っていきましょうか」とまで言ってくれた。

 残念ながら離れに予備の寝具はない。昔はあったがすべて本邸に持ち去られた。

 それに彼女たちは王宮の女官だ。正規の仕事がある。これ以上引き留めるわけにはいかない。

 感謝して送り出したが、リージェは興奮がさめやらない。昂る心のままに寝室に引き取ったが、眠れそうにない。

 そっと、手にした手巾を見る。

 大きな、男物の手巾だ。

 クロードのものだ。リージェの手巾はクロードの血がついてしまった。だから代わりにと手渡してくれたのだ。彼のイニシャルが刺繍された手巾からは、彼がいつもつけているコロンの深い森のような香りがした。手にしていると彼の香りに抱かれているように感じて、リージェは気づいた。

(これが、殿下のおっしゃる〈愛〉というものではないの?)

 離れているのに、かの人のことを想う。恋しく感じる。

 父や母に感じるのとはまた違う、胸がつまるような愛しい感覚が胸の奥からせり上がってきて、リージェは自分が彼を愛しているのではないかと思った。一度、気づくと次々と心の扉が開け放たれていくように、彼への想いがあふれてくる。

 ああ、私はあの人が好きなのだ。

 リージェは改めて感じる。それはとても心地の良い感覚だった。心の奥がぽかぽかして、歩む脚もふわふわしている。まるで夢の中にいるみたいだ。

 夢見心地で、ほう、と息をはく。彼への好意を感じることができた自分が嬉しい。

 大切な想いに気づかせてくれた手巾を、大事に枕元の箱しまおうとしたところで、指先が手巾に包まれていた固いものにふれた。

「あ……」

 あの指輪だ。あの後、クロードが広間で男の行方を捜してくれたが結局見つからず、指輪自体も外して渡したがクロードだけでなく護衛の騎士たちの目にも映らず、触れることもできず。やむなく持ち帰ったのだがこれをどうすればいいだろう。

 無骨な指輪を掌に転がしているうちに、リージェは違和感に気づいた。

 大きい、のだ。

 あの男にもらった時は手袋越しとは言え自分の中指にぴったりだった。なのに今見ると男性の親指でもはめられそうなほど輪が広い。

 眉を顰め、もう一度、指にはめてみる。

 と、指輪が縮んだ。

「なっ」

 リージェは思わず驚きの声を出していた。

 はめた指輪は綺麗に縮まり、再びリージェの指にぴったりの大きさになっていた。

 何、これは。やはり異常だ。息を飲み、もう一度、クロードに連絡してこのことを告げたほうがいいのではないかとリージェが考えた時だった。階下で音がした。

 玄関の扉が開く、きしむ音だった。

 リージェは思わずはめた指輪ごと手を握りしめていた。鍵はかけたはずだ。王宮に戻る女官たちからも何度も念押しをされて、彼女らを見送るのもそうそうに扉を閉め、鍵をかけた。

『言っただろう? 俺には命の炎が見えると。それによればお前の命は長くない』

 また、あの男の不吉な言葉が脳裏によみがえった。

 息をのむ間にも重い足音が階段を上ってくる。まっすぐにこの寝室へ向かってくる。

 リージェはいそいで身を守れそうなものを探した。だが必要最低限の調度しかおかれていない部屋に武器になるようなものはない。箒などの掃除用具も階下の物置の中だ。

 その間にもどんどん足音は近づいてくる。もう部屋の前まで来てしまった。

 ふるえながら見つめていると、扉が開いた。

 リージェは思わず安堵の息をつく。

 そこにいたのは、父だった。

 だがおかしい。様子が変だ。

「お父、様……?」

 こんな深夜まで着替えずにいたのか、父はまだ夜会服のままだった。しかも皺だらけだ。髪も乱れて尋常ではない。

「あの、どうされたのですか、お父様」

 不穏な空気を感じて、そっとたずねる。だが父は答えない。表情が暗い。そう言えば本邸が騒がしく、医者も来ているようだと女官たちが言っていた。

「……まさか、お母様かマリアージュに何か?!」

「……いや。使用人たちの中に何人か急病人が出ただけだ。マリアージュは無事だ。ただ……泣いている」

 リージェははっとした。

「殿下に、何を言われたのだ。リージェ」

 父が言った。

「広間を出て、別室に連れて行かれて。そこでなにを話したのだ? 殿下と二人きりで余人を交えずに」

 思いつめた声だった。いつものような怒気はない。父はただ、疲れたような顔をしていた。その表情がリージェに言い知れぬ不安を抱かせる。

「リージェ、私はどこで間違えたのだろう、いったいどこで?」

 言いつつ、父がリージェのほうへ近づく。

「私も最初はお前たち二人共を愛していたはずなのだ。なのに、何故こんなことになった。他に道はなかったのか。私があの時、マリアージュも光の加護を得た時、他の者に知らせなければよかったのか? あの時はこれでマリアージュも笑顔を取り戻す、お前も王太子妃の義務から解放される、すべては丸く収まる、そう思ったのに。」

 こんなはずではなかった、こんなはずでは、と、ぶつぶつうわごとのようにつぶやく父の目は闇を閉じ込めたようにうつろだった。ふらふらと近づく父にリージェは思わず後ずさる。

「すべて私のせいか? なら、責任をとらないとなあ」

 言って、父が腕を上げる。明らかにこちらを捕えようとする動きにリージェは逃げ出した。父のほうを向いたまま、後方に急いで下がろうとする。が、その足が寝台に当たった。

 すでに退路を断たれていたのだと気づいたときにはもう遅い。リージェは寝台の上にあおむけに倒れていた。すかさず父が膝をのりあげ、リージェの体を押さえつける。

 胸を圧迫され動けない。息がつまる。

 もがくリージェの上にぽたぽたと何かが落ちてくる。涙だ。

「すまない、すまない、リージェ」

 つぶやきながら父が泣いていた。

「もうこうするしかないんだ、こうするしか。王家には急な病でと言上する。せめて親の手で天へ還すのが、私にできるせいいっぱいの愛だ、リージェ……」

 言うなり、リージェの首に手がかかった。ぐっと力を込めてくる。

「っぐ。お父、様……!」

 リージェはつぶれかけた喉でかすれた声を出す。必死に逃れようとシーツの上でもがく。

 脳裏に、今までに見た父のいろいろな顔が浮かんだ。

聖域に会いに来てくれた時の父、初めてこの家に来た時すねるマリアージュを見て困った顔をしていた父。すまないね、お姉さんだから我慢してくれるかなと言った父。そのすべてが娘への気づかいに満ちていて。だから信じていた。何を言われようと、理不尽な扱いを受けようと、根の部分では愛してくれている、そう信じていた。なのに。

(これが、答えなの、ね……?)

 父はやはりマリアージュを選んだ。マリアージュだけを。

 クロードのように双方が生き残る道を探そうとしなかった。リージェは見捨てられたのだ。

 諦観が胸を占めた。

 抵抗していたリージェの手が、ぱたりとシーツの上に落ちる。

 苦しい。痛い。強まっては弱まる喉の圧迫感。こういうことに慣れていない、たどたどしい壮年の男の手が、不器用にリージェの首を締めてくる。

 さすがの父も娘を手にかけることにためらいがあるのだろう。だから一気に力を込めることができずにいる。父からすればこれが見捨てた娘に対する最期の慈悲、愛なのだろうか。

 リージェの顔が苦痛以外の者で歪む。

 これが愛? こんな愛ならいらない。いっそのこと、力のある慣れた男に一思いに絞殺されたほうがましだ。そしてそれ以上に、寂しい。

 二人の姉妹の内、一人だけを選んだ父。きっと母も同意の上だ。自分は最期まで彼らの〈娘〉に戻れなかった。二人の姉妹に差がついたのはリージェが聖域で過ごした空白の時があるから。なら、じゃけんにされても同じ敷地内で同じ時を過ごせば帳消しになるのでは、家族の輪に入れるのではと一縷の望みをかけた。が、無駄だった。

 この想いを絶望、というのだろうか。

 自分の目から涙がこぼれるのさえも人ごとのように感じて、死を受け入れようとした時だった。リージェの視界になにかがうつった。白い布だ。

 クロードにもらった、手巾だ。

 その瞬間、リージェの体の奥から、信じられない力がわいた。

「……っ、いやっ」

 リージェは思い切り腕を振り回していた。こんなところで死にたくない、死ねない、彼にまた会うまでは。そんな想いが次々わいてきて、胸を占める。

「ぐっ」

 リージェの振り回した腕が体のどこかに当たったのか、父が首から手をはなす。すかさずリージェは身を起こした。寝台の上を這って、距離をとろうとする。

 死にたくない。だって、彼に約束した。一緒に道を探そうと。

(殿下、殿下っ……!)

 半ばつぶれ、声の出ない喉で必死に彼の名を呼ぶ。

 彼の笑顔、彼の声。彼がよこしてくれた気づかい、護衛騎士たちの心配そうな顔や女官たちの優しさ。あの温もり。生きたい、あの人たちに会いたい、激しくリージェは願う。

 マリアージュを選び、リージェの死を願うのが父の愛。

 なら、私はもういらない。あの人たちからの愛こそがほしい!

 父が逃がすかと言うように、リージェの肩に手をかけた。嫌っ、と叫んでリージェはさらに手を振り回す。そのときだ。

 ぴしゃりと、リージェの顔に生温いものがかかった。

 父が顔をおさえてよろめきながら後ろに下がる。リージェは自分が無意識のうちにあの指輪の刃を立てていたことに気がついた。

「あ……」

「リー、ジェ……」

 父が寝台につっぷした。そのまま動かなくなる。

 ドクン、

 ドクン、ドクン。リージェの胸が鳴る。

 興奮が去り、冷えてきた頭で、目で、今の自分を見る。

 乱れた寝室。倒れた父。血に濡れた指輪。

 マリアージュにすべてを譲ってもいい。それで家族が自分を受け入れてくれるなら。そう思っていた。なのに、殺されかけたあの瞬間に、自分は。

「私、とっさに生きようとした……」

 父の血に濡れた自分の手を見る。くっと笑いが出た。

「これが、私の本性だったのね?」

 自分は何をいい気になって言われるがままに生きていたのだろう。マルクたちと話せるからと、自分が本物の聖王妃で、マリアージュに〈譲る〉のだと上から目線なことを考えていた。

(違うのに)

 流れる水のようにすべてを受け入れる。そうあれと育てられた。だが聖域での教育は自分を矯正しきれていなかった。本当の自分は今の汚れた手の自分だ。自らが生き残るために他を犠牲にする娘だ。こんな娘が、聖女とも言われる聖王妃であるわけがない。確かに父が言うように聖王妃にふさわしい性格をもつのは自分ではなく、マリアージュだろう。

 でも、それでも。

「私は、生きたい」

 はっきり声に出してつぶやく。

 そして声に出したことで自分の願いが明確になった。

 顔には返り血、指には凶器。そして床には父が転がっている。こんな異常な状況なのに、今、自分は生きていると実感している。

 母の胎内から、母の血にまみれて出てくるのが第一の誕生なら、リージェは今、父の血を浴び二度目の誕生を果たしたのだ。

 常になく、冷静になった頭でリージェは考える。

 さすがにもうここにはいられない。父が戻らないことを不審に思った誰かが様子を見に来る。生きたいなら早くここを出るべきだ。

 だがどこへ行けばいい?

 聖域で育ったリージェにはかくまってくれそうな知り合いはいない。

 でも、彼なら、クロードなら受け入れてくれるかもしれない。こんな手を血で汚した娘でもかくまってくれるかもしれない。

 こんな状況で彼を頼るのはさすがに甘えすぎだが、身の振り方が見つかるまでの間だけでも世話になれないか。

 だが彼と取り決めた連絡法はこの邸にもぐりこんだ密偵を通してのもの。連絡がつくまでに時間がかかる。救いが来るまで自分はここにとどまり身を守れるだろうか。

 かといって自分が本邸へ密偵のアベルを探しに行くのもまずい。今夜の父の目的をいったい何人が知っているかは分からない。が、ふだん邸に近づかない姉娘がこんな深夜に現れて下働きの男を探せば目立つ。母の不審をかえばここへ様子を見に来る。家長が犯した罪を隠すため、すぐにリージェは拘束されるだろう。

 アベルを見つけるのをあきらめ一人で王宮へ行くのも無謀だ。こんな時刻にいきなり訪ねてクロードに取り次いでもらえるだろうか。裏門からでは怪しまれそうだし、正面からでは大騒ぎになる。深夜に王妃候補が一人で押しかけてきた理由は何かと探りが入って、この異常を世間に知らせることになる。

 ぐるぐると考えて、リージェは思いつく。

「……そう、市街にある聖堂は?」

 俗世に帰って二年、リージェは自分の足で街を歩いたことはない。が、市街地にある聖堂なら馬車で何度も前を通った。邸と王宮の中間にあり、徒歩でもなんとか行ける距離だった。

 都の聖堂の扉は迷える愛し子たちのために一晩中開いていると聞く。今すぐここを出て、聖堂に隠れている旨を手紙にしたため木の洞に入れてクロードに迎えに来てくれるよう頼めば。

 いや、いっそのこと足を延ばして聖域まで行ってもいい。聖域までは都から馬車で半日。聖堂前広場から毎日、巡礼者用の馬車が出ていると視察した時に聞いた。

 リージェは聖域で育ったが、奥まった修道院と大聖殿とを行き来していただけだ。そこまで顔を知られているわけではない。修道女のベールをかぶり、髪も頭巾で隠してしまえば巡礼者の間に紛れ込める。

 聖域まで行けば大図書館がある。聖王妃についての書もあるはず。それに彼の地にはリージェが師父と仰ぐ大主教猊下がおられる。

 大主教オーギュストは王族の出だ。

 年は離れているが現国王の弟で、クロードの叔父にあたる。現国王とは母が違い、国内有力貴族の娘だった先の王妃を先王が離縁し、新たに迎えた聖王妃が生母になる人だ。そのため先の王妃の外戚がうるさく、兄との王位継承権争いを鎮めるため若い内に聖職位についた人だ。なので世俗の権力に欲はない。信じられる。聖域では騒ぎにならないよう名は隠すつもりだが、もしばれても大主教なら弟子であるリージェを悪いようにはしない。

 都の聖堂で彼の迎えを待って無理なら聖域へ。そちらでクロードからの連絡を待てばいい。

 そうと決めれば早く動かないと。

 父の顔の傷を止血しつつ、息遣いを確かめる。大丈夫。安定している。

 少し迷ったが、一応、父の手を縛って寝台にくくりつけておく。しびれ薬があの男の言う通り、三日三晩効くという保証はない。父には不自由な体勢を強いることになるが、彼の戻りが遅ければ本邸から誰かが様子を見に来てほどいてくれるだろう。

 いそいでクロードへの手紙をしたため、ここへ来た時に捨てると言うのを愛着があるからと取りおいてもらった修道女服に着替える。

 お守りがわりにクロードの手巾を胸元におさめ、着替えや聖域での滞在に必要なものと、迷ったけれど護身用にあの指輪を。それに人形を一体、鞄につめるとリージェはクロードへの手紙を離れの外、木の洞に隠した。離れから近い裏手の木戸からそっと邸を抜け出す。

 外に出ると白々と夜が明けかかっていた。明けの女神星が一つ、輝いている。

 最後に、リージェは侯爵邸を振り返った。

 最期まで、自分を受け入れてくれなかった家を。自分の意思で、過去に決別するために。

 そして歩み出す。

 清々しい夜明けの空気を吸い込み、リージェは思った。

 今、自分は自由だ。そして一人だ。

 だけど、寂しくない。

 胸もとにふれる。そこにあるクロードの手巾が、励ますように温もりを発していた。


*****


 リージェが離れから立ち去った後のことだった。木陰から現れた影がある。

 かさりと砂利を踏んで月光の下に現れたのは、柔らかく波打つ白銀の髪と薔薇色の瞳をもつ美しい少女。マリアージュだ。

 彼女は遠ざかるリージェの背を見ながら考えた。

(あの女が無傷で出てきたということは、お父様は失敗したということ?)

「私が何とかする、だからお前は部屋で待っていなさい」

 そう言って父は邸を出て行った。だが待ちきれず、マリアージュはここで首尾をうかがっていたのだ。なのに父は戻らず、あの女が一人で出てきた。

(失敗したら私がどうなるか分かってるはずなのに。ひどいわ、ひどいわ、お父様!)

 マリアージュはもどかしさのあまり、ぎりりと唇を噛みしめる。だから素人は手を出さず、慣れた男にやらせればいいと言ったのだ。なのに父は娘だからと情に目がくらみ「自分の手で」などと甘いことを言うからこうなる。

(どうしてお父様はあの女ばかり気にかけるの。私のことが可愛くないの? 失敗すれば殺されるのは私なのよ?)

 やはり自分で何とかするしかない。マリアージュは舌打ちしてリージェの前へ出ようとした。

 だがその時、リージェが足を止めた。

 周囲をうかがうようにする。

 何かある。直感したマリアージュは再び木陰へと身を沈めた。リージェはこちらには気づかず、木の洞に何かを隠している。それから、鞄をもって裏門の方へと歩みだす。

 この邸から逃げようとしているのだ。まずい。裏門に門番はいない。内から閂がかかっているだけだ。今、ここから出られるとやっかいだ。手が下せなくなる。それに父の失敗も知れてしまうかも知れない。

 マリアージュはとっさに誰かを呼ぼうとした。だが、思いとどまる。

 声を上げても邸の男たちが駆けつけるには時間がかかる。リージェは声を聞けば走って逃げてしまうだろう。さすがにそれを追って塀の外で騒ぎを起こすのはまずい。この辺りにあるのは貴族の家ばかりだ。庭が広く声は届きにくいが万一がある。リージェの助けを呼ぶ声を誰かに聞かれれば侯爵家の中でことをおさめきれなくなる。

 マリアージュは腹をくくった。リージェの姿が消えるのを待って木陰から出る。彼女が何かを隠していた洞をのぞく。手紙があった。宛名はない。だがクロードへの手紙だ。直感した。

 急いで館へもどると侍女も遠ざけ、手紙を開けた。思った通りだ。真面目を装った甘えた文体で、迎えに来て、と書かれていた。

 マリアージュは自分が蒼白になるのが分かった。いったいいつの間に王子とこんな連絡手段を作ったのだろう。それにこの内容。

 リージェは王の決定もまだだというのに、王子と暮らすつもりでいたらしい。しかもこちらのことは一言も書いてない。

(あの女が殿下と暮らすなら、私はどうなるのよ!)

 マリアージュは嫉妬で自分がどうにかなるかと思った。だがぐらぐらと煮え返る頭の片隅にすっと冷えた部分ができる。ここでリージェを王子の元へ行かせれば、自分は終わりだ。

 リージェは父がしたことを話すだろう。それだけではない。これまでの当然の待遇差にも尾ひれをつけて話してすべてマリアージュのせいだと言いつける。

「ジャンを呼んで!」

 マリアージュは急いで、自分に心酔している従者を呼び出した。

 夜明け前だろうと侍女たちが嫌な顔をしようと関係ない。

 この男が怪しげな場所へ出入りして特殊な手づるを持っていることは知っている。何か使えるかもと父に言いつけるのをやめてそのままにしておいてよかった。役に立つ時が来たのだ。

 幸い、王子への手紙はここにある。あの女は聖堂で待ちぼうけをくって、聖域行きの馬車に乗るはずだ。なら、することは一つ。

 人の多い都の聖堂より確実なのはどちら? 

 マリアージュはにっこりと笑う。そしてやってきた男に困った顔を見せる。

 この男は身分もわきまえず侯爵家のお嬢様に恋している。笑顔の一つも見せてやればたいていのことはする。そして大事なお嬢様を苦しめるあの女のことはよく思っていない。だから握った弱みを出して脅すまでもない。

 マリアージュは涙を浮かべて、リージェが逃げたことを伝えた。そしてそのせいで自分が危険にさらされているのだと話してきかせた。案の定、男が憤り、マリアージュをなぐさめながら、俺が何とかします、と言いきる。思った通りの反応に満足しながらマリアージュははかなげに微笑んで見せた。そして言う。

「物語でよくあるの。競争相手の令嬢がね、破落戸を雇って、馬車で移動中の主人公の令嬢を強盗に見せかけてさらって、娼館に落としてしまうの」

「お嬢様?」

「でもいつだって王子様が助けに来てくれるのよ、間一髪のところで。ずるいわよね、そう思わない? だってその事件のせいでいつだって王子様は主人公と結ばれて、一生懸命頑張ったもう一人の令嬢は死を賜るのよ」

 だから、ね、とマリアージュは無邪気に笑った。

 花が咲きほころぶように愛らしく。

「そんなまどろっこしいことはしなくていいわ。すぐ殺してしまって。後で人違いだった、なんてことのないように馬車にいる全員よ。それなら王子様も助けられないでしょう?」


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