9.希望を抱いた夜
しばらく、彼が落ち着くまで隣合って座って。リージェは父や母、それに侍女や女官と言った他の誰の目も気にせず彼と過ごす時間というものを知った。
彼と出合って二年。婚約者となってから十四年もたつのに初めての経験だった。
最初は少し緊張したが、すぐにそれもとれた。互いにぽつりぽつりと、行違った今夜のこと、互いの想いを口に出す。さすがに話せないと思ったマリアージュを見つめる貴族たちや悪い虫がつかないように聖域に囲い込まれたといった部分はぼかしたが、あの男に指輪を渡されたことなども話した。……相変わらずクロードには見ることも触れることもできなかったが。
「その指輪は不愉快だけど君がもっていて。君しか見えないし触れないのでは預かることもできない。その不思議も含めあの男のことは僕のほうで調べてみるよ。王宮の夜会に招かれたのなら身元の照合は最低でもされているはずだ」
すべてを聞き終わると彼はそう言ってくれた。
それから、クロードが血の止まった傷から手巾を外して静かに言った。
「ごめん。今夜は。そしてありがとう。こんな貴重な時間を共に過ごしてくれて。本当に今さらだけど、自分を止められなかった」
「殿下……」
「わかっている、頭では。君が僕の想いを受け入れること、それは妹を死に追いやることだ。君がためらうのは無理もない。そう理性では理解している。ただ……それでも不安になったんだ。君と手を取り合える日はこないのではないかと」
これでもいろいろ考えているんだと彼は言った。
君たち二人共を生き残らせるために、と。
「この国にとって聖王妃の伝承は民をまとめる国策として政治体系に組み込まれている。できることは少ない。とくにあの乱の後では」
「カディアの乱のことですか」
昔、起った反乱のことをリージェは口にした。聖王妃となった娘が王族以外の男の手に落ち、そのせいで国が乱れたことがあった。
彼女は歴代の聖王妃の中でも特異な存在だ。本来、聖王妃は一人につき一つしか異能をもたない。だが彼女は複数の、系統の異なる聖なる力を使ってみせたとか。
聞くと、彼は「ああ」と暗い顔で言った。
「あの乱が起るまでは比較的聖王妃の扱いもゆるやかだった。が、あの乱以降、聖王妃は王家に嫁ぐ以外に道はなくなった。野におけば謀反の芽を放置することになるから。今も同じだ。君をこのしがらみから逃がすため亡命させることも考えたが身分が知れれば他国に利用されるだけだ。選ばれなかったほうを幽閉していることにして逃がすのも論外だ。追っ手もかかる」
それだけ、この国において聖王妃の求心力は強いのだ。
どちらにしろ、二人の姉妹は命耐えるまで、否応なく政争に巻き込まれる。
「だけど一つだけ、まだ望みがある。……君の妹が覚醒しない、という可能性だ」
彼が言った。
「聖王妃がどちらか明確にわかる方法を見つけて、君の妹が決して覚醒しないという証を立てられれば光が見えるんだ。神託はリリューシュ侯爵家の娘としか言っていない。二人の候補と勝手に騒いだのは我々人間だ。そこをつく。神託を取り違えたのだと、最初から君が聖王妃で君の妹は皆が勝手に祭り上げただけ、君の妹に罪はないと、責任を王家と聖域に持っていけると思う」
それは王家が罪をかぶると言っているのと同じだ。クロードは泥をかぶるつもりなのだ、自分たち姉妹のために。
リージェは自分に目覚めつつある力を想う。自分が覚醒するのは時間の問題だ。そうなればもう人の目はごまかせない。だがマリアージュはまだ何も言っていない。あれだけマリアージュを妃にしたがっている父だ。予兆があれば隠しはしない。彼女はまだ覚醒していないのだ。クロードが口にする策を実行できる可能性はある。
それでもリージェはためらう。クロードの払う犠牲もあるが、それは結局は自分だけが幸せになる道だ。自分が聖王妃となり、マリアージュは選ばれなかった娘になる。それはエゴではないのか? マリアージュは王妃になることを願っている。父も母も。
(だけど……)
その方法がとれるなら、命だけは助かるのだ。二人とも。
それはどちらかに死をという今の八方ふさがりな状況よりははるかにましではないのか。
トクン。
何かがリージェの胸に生まれた。
トクン、トクン……。
激しい熱。これは〈希望〉だ。
一人が王冠を賜り、もう一人が死を賜る。
それを当然の未来として受け入れていた。けれどそんな取り決めを馬鹿馬鹿しいと笑う国だってある。そのことを今夜、リージェは知った。
(マリアージュが覚醒しなければ、聖王妃になりさえしなければ)
自分たち二人の姉妹はこの過酷な選択から解放されるのだ。
そして家族の間に入った罅も修復できるのではないか。
父母は今のようにリージェを責めなくなり、もう一度、家族としてやり直せるのではないか。
もともと姉妹の間を隔ててしまったのは二人の聖王妃候補がいるという今の状態だ。最初からいがみ合っていたわけではない。リージェはずっと家族と過ごしたいと願っていた。父母だけでなくマリアージュとも仲良くしたいと思っていた。初めて会った時、身をかがめて挨拶をすると、マリアージュはすねて母の陰に隠れてしまった。だがあの時、自分は妹とはなんと可愛い存在なのかと思った。そして守りたいと思ったのだ。
この一年の間に、擦り切れかけていた想い。
互いに笑いあえる家族になりたい。その希望を思い出していいだろうか。
自分が聖王妃の力に目覚めることは止められない。だがもしマリアージュが目覚めなければ。 命さえあれば。道がつながる。
「そうだよ、リージェ。生き残った後のことは生き残れた時に考えればいい。今のままだと生き続けることすらできないのだから」
違うかい? と彼が手を差し伸べる。
リージェはふるえた。恐怖からではなく、抱いた希望から。
ふるえながら差し出された彼の手に自分の手を重ねる。こんな甘い、突拍子もない希望を実現するのは一人では無理だ。だけど、彼となら。
「そう、二人なら。きっと道を見つけられるよ。甘いと言われてもいい。楽観主義すぎると言われてもいい。何の希望もないより、いいと思わないか?」
それから。これからのことを話し合った。
覚醒の条件についてはもっと聖王妃のことを知らなくてはならない。それを知るにはどうしたらいいか。聖王妃についての記録があるのはどこか、お互いにできることは何か。細々と今後の互いの連絡手段も含め、話し合う。父の監視下にあるリージェはいつまたこうしてクロードと話せるかわからない。
その流れで、リージェが外出を制限されはじめた半年前から、護衛のため、彼が密偵を下働きの下男として侯爵邸に忍び込ませていたことを教えられた。驚いたが彼を通して連絡がつくと知ってほっとした。これからは離れの近くにある木の洞を密偵のアベルが早朝と日中、それに夕方の計三回、のぞいてくれることになった。伝えたいことがあれば手紙に書いて入れておけば回収して彼まで届けてくれるそうだ。
それから、クロードはやっとリージェを離してくれた。彼に「行かないで」と手を取り引き留められてからずっと彼に腕を取られたままだったのだ。
「……さすがに、もう君を帰さないといけないね」
もっと話したい。話すことがたくさんある。だが時刻も遅い。舞踏会も中座したままだ。戻らないといけない。
互いに再会を誓って、立ち上がる。
部屋から出る時、クロードが腕を引いてリージェを引き留めた。まだ体は半分部屋の中とはいえ、扉は開いている。寄り添うように立つ姿を人に見られてしまう。
「殿下」
「かまわない、と言っただろう?」
別れるのが辛いとばかりにクロードがさらに手に力を込める。リージェの腰を引き寄せ、腕に抱きこむ。
「近いうちに迎えに行く。君の住まいを王家の離宮に移すよ」
「え? で、でも」
「道を探そうと言ったけどすぐに解決策が見つかるとは思えない。何か月、いや、へたをすれば何年もかかる。その間、君を一人にはしておけない。心配なんだ。こんなにおおっぴらに君への想いを出してしまったから」
追い詰められた者は何をするか分からないとクロードが言う。
「君は君か妹のどちらかが聖王妃として目覚めるまでは無事でいられると考えているのかもだけど。不審死を病死と取り繕い葬儀を出すことは貴族家ではよくあることなんだよ」
それを聞いて、どきりとした。体が真冬の湖に突き落とされたように冷たくなる。彼は父がリージェを殺すこともあり得ると言っているのだ。
「君の場合は立場が特殊だから、〈何か〉があれば王家が乗り出す。だがそれでは事後だ。君さえいなくなればただ一人残った聖王妃候補を王家が粗略に扱うわけがないと侯爵も知っている。だから君には酷かもしれないがそうそうに君を僕の手元に移す。でないと僕は不安で調べ物も手につかない。もう決して君の嫌がることはしないと誓ったけどここは譲れない」
そう言うクロードの顔は真剣で。リージェの胸に再び不吉な胸騒ぎが起こる。
『――言っただろう? 俺には命の炎が見えると。それによればお前の命は長くない』
何故だろう。
舞踏会の席で聞いた異国の男の言葉が脳裏に浮かんだーー。




