24.山桜
三人を乗せた軽自動車が、砂利道の行き止まりにやってきたのは、正午も間近な頃だった。すぐ近くには、崩れかけて草に覆われた石垣のあとがあり、かつてここが城跡だったことを物語る。
そして、広場のようになったところに、向かい合わせのように桜があった。一本は山桜、もう一本は枝垂桜。互いに競い合うように、満開に咲き誇っている。
山桜は可憐な美しさだが、枝垂桜のほうは、妖艶という言葉がしっくりくるような、妖しい気配を周囲に放っていた。
広場の入り口に車を止め、三人と一匹が降り立つと、全身が総毛立つような気配が纏わりついてくる。特に、晃の周辺にそれは濃く集まっていた。
とにかく、そこから百メートルほど歩いて広場に入ると、纏わりつくような気配はよりいっそう濃厚となり、一歩を踏み出すのが困難に思えるほどになった。
「真っ昼間だっていうのに、この重苦しい気配は何だ?」
結城が、顔を歪ませる。和海も、両腕を胸の前で交差させ、無意識に身体を庇う。晃ひとりが、眉ひとつ動かさず、枝垂桜を見ていた。
枝垂桜の生えている場所は、春の陽光が降り注ぐ明るく輝くようなところだったが、それが逆に反転して闇に落ち込んでいくような、奇怪な感覚を覚える。
「気をつけてください。相手は、こちらに対して何をしでかしてくるかわかりませんよ」
晃の声に、結城も和海も真顔で小さくうなずいた。
そのとき、枝垂桜のほうから、風が吹いてきた。風は桜の枝を揺らし、まるで手招きをしているように見える。
その風はすぐさま三人を押し包んだが、ひときわ冷たい風が、神経までざわつかせる。
晴れて暖かい天候に似合わぬ、不吉さを感じさせる冷風だった。
(嫌な風よ。気づいておるか。すでにここ、土地そのものの気配がなにやらおかしい)
(気がついています。この広場に入ってきたときから、おかしいと思っていました。何がおかしいのかは、まだはっきり摑めないんですが)
晃が、笹丸の言葉を伝え、警戒を怠らないように、と告げる。
「わたしも、さっきから神経がざわつくような、嫌な感じがしているの。何が起きても、おかしくない感じね。固まっていたほうがいいわ」
和海は、結城と晃の間に入り込み、三人が密着したような状態に持っていく。
「何が起こるか見届けなければ、この一件は解決せんだろう。充分気をつけながら、もう少し枝垂桜に近づいてみよう」
結城が、慎重に一歩を踏み出し、晃と和海がそれに合わせた。
程なく風は止んだが、空気が一段と冷たくなったような気がする。晴れているのに、急に太陽の光が弱くなったように思える。それは何故なのか。
三人がほとんど同時にそのわけに気がついたとき、戦慄が走った。空が暗くなったのだ。
雲ひとつない晴天だったはずが、見る見るうちに空が暗くなる。雲が出てきたのではない。晴天の夜の空のような暗さだ。空が暗くなるにつれ、枝垂桜のみが、恐ろしいほどに艶やかに、夜空に浮かび上がる。まるで、内側から光を発しているかのようだ。
“あのときの桜”
晃が“視た”、結城が“視た”、そして二人を通して和海が“視た”、あの桜が眼前に迫ってきた。同時に、桜に重なるように、桜色の着物を着た長い髪のうつむいた女が、ゆっくりと顔を上げようとしている様も目に映った。
全員の直感が、警告を発した。この場にいてはいけない。
刹那、枝垂桜の姿が、光に溶け込むように消えてなくなる。女の姿だけが、内側から輝くかのように浮かび上がってくる。女が、まさに顔を上げようとした。
「逃げろっ!」
結城が必死に叫び、それで我に返ったように、皆ばらばらになって走り出す。広場を出て、駐車してある車のところまで、わずか百メートルほどの距離が、果てしない距離に思えた。
車が止めてあるところは、完全に正常な雰囲気だった。あの、夜のような空もなく、明るい春の日差しが降り注いでいる。
一番に到着した結城が、車の屋根に手をつき、荒い息を整える。和海も、車の傍らにしゃがみこみ、息を弾ませた。
だが、晃の姿が見えないことに気がつき、二人は愕然とする。
慌てて周囲を見回してみるが、それらしい人影は見えない。広場に通じる道も覗いてみたが、誰もいなかった。
広場まで見通せるこの場所で、姿が見えないということは、最悪の事態を予感させる。
「しまった! 一番狙われていたはずの早見くんを、置き去りにしてしまった……」
結城は、真っ青になった。和海も、肩を震わせながら両手で顔を覆う。
「……晃くんは、走るとすぐ息が上がってしまう人だったのに。自分のことに手一杯で、そのこと、忘れてしまった……」
結城も、沈痛な表情で和海のほうを見ていたが、笹丸の姿も“視えない”ことに、さらに焦りの色を浮かべた。
「白狐の笹丸さんもいない。一緒に巻き込まれたのか」
それを聞いた和海が、かすかに希望を滲ませた言葉をつぶやく。
「もしかしたら、笹丸さんが護ってくれるかもしれない。最初に“視た”ときより大きくなって、力が少しは戻ってきていたみたいだったもの。ふたりで力を合わせて、脱出してくるかもしれない……」
ここに至って、結城はもう一度広場に戻る決断をした。自分たちも、やれるだけのことをする。そうしなければ、大切な仲間であり、友人である存在を、二人同時に失うことになるのだ。
「戻るぞ。これから何が起ころうと、もう逃げ出すことは許されない」
それを聞き、和海も立ち上がった。二人はうなずきあうと、再び広場へと足を進めた。
広場には、あのときのような重苦しい気配は残っていなかった。うららかな春の日差しが降り注ぎ、ただ桜の咲くのどかな場所に過ぎない。
二人は気配を探りながら、ゆっくりと枝垂桜の元に近づいた。今は、ごく当たり前の薄紅色の花びらを持つ、満開の桜でしかない。
「さっき、わたしたちが来た広場は、ここであってここじゃない場所だったんですね」
桜を見上げながら、和海がつぶやいた。結城も同意する。
「……今ならわかるな。初めからあの場所は、“この世のもの”ではなかったんだ。我々のほうが、桜とそれにまつわる“念”が作り上げた“異界”に踏み込んでいたんだ。その口が閉じられるとき、我々二人だけが、脱出出来たということか……」
二人は桜の周囲を回り、どこかに痕跡がないかを懸命に探った。何かが残っているはずだ、というのは、霊能者としての勘のようなものだった。
目には見えていなくても、何らかの気配は残る。その気配を探れば、何かがわかる。
ゆっくりと呼吸を整え、神経を研ぎ澄ませていくにつれ、二人同時に奇妙な違和感を感じる場所に行き当たった。それは、結城が〈過去透視〉の中で見た、『血の儀式』を行っていた場所に他ならなかった。
「所長、ここですね。わたし、この場所で胸騒ぎのような、鳥肌が立つような、いやな違和感を感じました。ここに、何かあるような気がするんですが」
「君も感じたか。この場所のどこがどうとはいえんが、ここに何かがあるのは、間違いないと思う」
二人は、車にいったん取って返し、万一のときのために常備してある、清め塩や魔よけのお札、ビニールシートなどを持ってきた。
地面に直接塩を撒くと、植物には害になるので、ビニールシートを広げて四隅に石を置いて固定し、その上に塩で直径一メートル半ほどの円を描き、中央にお札を置いた。
そして、二人で靴を脱いで円の中に入ると、結城は晃から預かった般若心経を手に取り、一番後ろから開いた。和海が、結城の肩に手を置き、二人の息を合わせていく。
結城は何度か深呼吸をすると、ゆっくりと般若心経を逆から唱え始めた。何度もつかえ、言いよどみながらも、繰り返し、繰り返し、唱え続ける。
唱えるうちに、だんだん滑らかに言えるようになり、次第に声も大きくなり、いつしか朗々とした声で唱えられるようになってきた。
そのとき、枝垂桜の幹が、ぼんやりと異様な光を帯び始める。晃が姿を消す直前に見た、桜や女が発していたあの光と同じものだと感じた二人は、なおいっそう念を凝らし、光を見つめる。
光は次第に広がり、二人のすぐ目の前まで来た。すると、光の中に何らかの影が“視え”た。桜だ。
今、現実に見えているのと寸分たがわぬ枝垂桜の姿が、光の中に朧に浮かび上がっている。現実の桜より、遥かに生命力に満ち溢れ、妖しいまでに爛漫と咲き誇る桜だ。
あのとき、昼なのに夜となった世界で“視た”のは、間違いなくこの桜だった。
けれど、光の中にはそれだけしか“視え”ず、光が再度二人を包み込むこともない。
内心の焦りを隠して、結城は般若心経を逆から唱え続け、和海は念を凝らし続ける。
今やめれば、すべては水泡に帰する。続けるしか、道はなかった。
そのとき、背後から別な気配が近づいてくるのを感じ、和海が振り返る。やはり長い黒髪を、首の後ろあたりでひとつにまとめた、清楚な印象の女性の姿が“視え”た。ごく淡い桜色の着物を着たその女性は、背後に見える山桜のほうの“精”だと気がついた。
(私も、お手伝いいたしましょう)
妙齢に見えるその女性は、声ではない言葉でそう言った。
自分も、長年枝垂桜がその中に宿る“念”に苦しんでいたことを“視てきて”、救ってやりたいと思い続けてきたという。
(私は、彼女に比べたら非力な存在でしかありません。ですが、この地に根付いて長年ともに生きてきた身、多少は彼女も聞く耳を持つやも知れません)
今まで、自分の木を抜け出したことはなかったが、今度ばかりは矢も盾もたまらずに出てきたのだと告げた。
“山桜の精”は、ふうわりと二人の元にやってくると、二人と光の間に立ち、目を閉じた。すると、彼女の体からもごく淡い光がこぼれ始める。その光は、枝垂桜が朧に浮かぶ中に、少しづつ吸い込まれていった。
その間も、結城は般若心経の逆詠唱を続けていた。
少なくとも、今唱えている般若心経の逆詠唱は、“山桜の精”には影響を与えていないらしい。ならば、続けなくてはならない。
“山桜の精”からこぼれた光は、徐々に朧な世界の中で光を増し、枝垂桜をよりいっそう鮮明に映し出し始める。桜の下で、誰かが動いているような、ぼんやりとした影が見えだした。
和海は、逸る心を抑え、懸命に平静を保とうと努力した。ここで動揺して力の均衡が崩れたら、それで何もかも終わってしまいそうだった。
結城もまた、同じ気持ちで逆詠唱を続けた。
うごめくのが見える影のようなものは、まるで蜃気楼を見ているように、さまざまに姿を変えながら揺らめき、一時として形をとどめない。
“山桜の精”は、なおも光をこぼれさせていたが、急に何か悟ったか目を開けると、茫洋とした光の中に足を踏み出していく。
(あなた方は、ここにいてください。私が、話をしてまいります)
(大丈夫なんですか? 相手は、正気じゃないかもしれないんですよ)
(わかっております。ですが、ここでこうしていても、これ以上のことは望めないでしょう。私はこれ以上、彼女の苦しみを見ていられないのです)
“山桜の精”はそう言うと、枝垂桜から発せられている光の中に、溶け込むように消えていった。
結城は、逆詠唱こそやめなかったが、和海に視線を送り、大丈夫か?という意思を伝えてきた。和海はうなずくと、彼女に賭けましょうと言った。
「わたしたちがこの中に入るのは、きっと難しいことだったんだと思います。だから彼女が、私たちの代わりに入ってくれたんだと思うんです。わたしたちがこうしていることで、“出入り口”がわずかに開いていたんでしょう。このままこれを続けて、“出入り口”がふさがれないようにしていましょう」
それを聞いた結城は、その瞳に決意をみなぎらせ、逆詠唱を続けた。
光の中の枝垂桜が、妖しく揺らめいているのが“視え”る。
晃はきっと帰ってくるに違いない、と結城も和海も信じることにした。彼は、護られている。白狐の笹丸に、“山桜の精”に、護られているに違いないのだ……