21.喰らわれた霊
部屋には、窓に足を向ける形ですでに布団が敷かれており、結城は布団の上に胡坐をかいて、明日の調査に使う予定の資料を読んでいた。
晃は、もう一組の布団の上に座り、ぼんやりと天井を眺める。
(晃、どうでもいいけどな、見ず知らずの幽霊にまで気を回すのはやめろ。お前さ、人間より幽霊のほうに親しみ感じるってのは、悪い癖だから直せ。あんな中年のおっさん幽霊のことを気遣うより、隣の部屋の姐ちゃんのほうを気にして当たり前だろう。風呂上りの石鹸の香りなんか、けっこうそそられるもんがあるはずなんだが、お前ときたら……)
遼の嘆きの声を聞き流し、晃は無意識のうちに周囲の気配を探っていた。窓のほうに、霊の気配が近づく。またも雨戸が鳴る。
いつの間にか、笹丸が近づいてきて晃の傍らに座ると、静かに話しかけてきた。
(気になるか、さ迷う霊が。ほんに、そなたは変わった男だ。普通、いくら霊能を持っていたとしても、皆生きている人間の側に立つ。そなた、場合によっては霊の側に立つこともありえそうだの。逆に、そなたの中にいる男が、人間の側に引き戻そうとしているようだ。もっとも、そなたの中に強い信念のような何かがあって、それから外れた霊には、容赦なく対処することもある。ふふ、まことに面白い男)
(まったく、この狐さんの言うとおりだよ、お前は。もう少し考えろ)
(……うん)
遼に生返事を返したあと、晃はこれ以上起きていても気が散るばかりなので、寝てしまうことにした。
「所長、一足先に休みます。このままこうしていると、あの霊に話しかけたくなりそうなので」
「そうだな。そういうことなら、おやすみ」
晃は義手をはずして枕元に置くと、布団の中に潜り込んだ。
目を閉じたものの、今日の出来事が頭の中に浮かんでは消え、なかなか寝付けない。特に、法引に対して“魂喰らい”の力を使ってしまったことが、まざまざと思い出される。確かに、互いに承知の上で使ったが、それでも後味の悪さはどうしようもない。
それを思い出さないようにして、晃は心を静めた。
それから、どれほどの時間が経ったか、晃はうとうととまどろみ始める。そして、夢ともなんともつかないものを見た。
初めは、夢枕に見ず知らずの中年男性が立った。ネクタイなしのワイシャツにスラックス姿のその人物は、さんざん雨戸や窓を叩いていた男だろうと、すぐにわかった。
男は晃に向かって、どうしても諦めきれない大切なものがあるので、それを探し出したいのだと訴えた。訴えるうちに形相まで変わり、次第に悪鬼のようになっていく。
晃はなだめようとしたが、相手は逆上してきた。
晃が危険を感じたそのとき、まったく別な気配のものが男の背後から現れる。桜色が目に入った。あの女だ。
その刹那、女が背後から男に襲い掛かった。
『お前に手出しはさせぬ』
晃の“視ている”目の前で、女の“魂喰らい”の力が、男の体を“削って”いく。晃は即座に、女の真の標的が自分だということに気がついた。標的の目の前にいる邪魔者だから、喰らい尽くそうとしているに過ぎない。
そのとき、笹丸の声がした。
(早く目覚めよ! 危険だ!)
晃は全力で意識を現実に引き戻した。夢中で上体を起こすと、あたりはまだ真っ暗だった。柱に掛けられている時計を見ると、午前三時をさしている。
傍らの笹丸にひとまず礼を言うと、自分が全身汗みどろであることに気づいた晃は、ひとまず起き上がり、室内のタオル掛けに干してある、風呂で使った生乾きのタオルを手に取って、汗を拭いた。
体を拭き清めながら、晃は先ほど“視た”ものがなんだったのか、思い返してみた。
あの女、“桜の精”は、明らかに晃を目指してやってきていた。あの男とのぶつかり合いは、偶然に過ぎない。それだけ、問題の桜に近づいたということだろうか。
そのとき、周囲がいやに静まり返っていることに気づき、晃は背筋が冷たくなった。
あの男の気配がない。
(おそらくは、喰らい尽くされたのであろう。“魂喰らい”によってな。あの女、以前に顔を合わせたときから、そなたの美貌が気に入っておったようだ。『手元に置いて愛でたい』という欲望が感じられた。いや、もう執念の域かも知れんて。“ひと目惚れ”だの)
笹丸の言葉に、晃は拭いたはずの汗がまた噴き出してくるのを感じた。
(洒落にならんぞ、ありゃ。お前、明日はそれらしい枝垂桜にはめったなことでは近づくなよ。万一ってことがあるからな)
(わかった。僕も、ああいうのに好かれるのは、趣味じゃない)
隣の布団では、結城が安らかな寝息を立てている。先程の異変は、やはり晃の“夢”もしくは“識域下”で起きたことなのだ。
晃は汗で湿った浴衣を脱ぐと、適当に折りたたみ、肌着を着て自分のシャツを羽織り、布団の中に足だけを入れる形で座った。
夜明けまでにはまだだいぶあるが、とても寝られたものではない。
(これは、いよいよ本格的に、あの力をどうにかする方法を考えないと。最悪の場合、所長や小田切さんにも被害が及ぶことになる)
晃は、何とか防ぐ方法はないか、考えた。だが、思いつくものではない。法引の読経の力でも、完全に防ぐことは出来なかった。
(あの女、間違いなくそなたの元に来るであろう。そのとき、何か邪魔だてするようなことをするものは、先程のように喰らい尽くすつもりであろうな)
淡々と話す笹丸の言葉に、晃は途方に暮れた。
(もしかしたら、僕が単独行動をしていたほうが、いざというときに二人に被害が行かないということになりますかね?)
(そうであろうが……そなたをひとりにすることを、あの二人が承知するまい。まして、このようなことが起こったと知ったとしたのならばな。あの二人、そなたの真の力を知らぬからの。逆に、固まって皆で対処しようと考えるであろうよ)
それは言われるまでもなく、容易に想像がついた。晃は思わず頭を抱える。
(困ったよなあ。お前が全力を出せば、おそらく真正面から何とか対峙は出来る。だが、お前の“本当の力”を見せるわけにはいかないしなあ)
遼も、困惑を隠せない。どうすればいいかが、思いつかない。
結局そのまま、晃は夜明けを迎えてしまった。男の気配は、あれ以来まったく戻ってこなかった。
隣の結城は、午前五時半に枕元の携帯電話のアラームで目を覚まし、起き上がったが、晃の様子が異様なのに気がついて、声をかけてきた。
「どうしたんだ、早見くん。えらく中途半端な格好だが、何かあったか? なんだか、顔色も悪いようだし」
晃は、結城のほうを見た。隠し立てをしたところで、勘が鋭い二人のこと、おかしいことに気づいて余計な心配をするに違いなかった。
「……所長、昨夜、さんざん来ていた男の霊がいましたよね。あのひと、おそらくもう、二度と現れないでしょう」
突然の発言に、結城は始め、晃が祓ったと思ったようだ。だが、それにしては言い方がおかしいと、晃に尋ねた。
「早見くん、それはどういうことだ? 『“おそらく”もう二度と現れない』という言い方をしたな。君が祓ったんじゃないのか?」
「……違います。もっと、恐ろしいことが起こったんです」
晃は、夢の中で起こった出来事を話して聞かせた。午前三時に飛び起き、それから今まで、男の霊の気配がまったくなくなっていたことも。結城の顔色が変わった。
「もし、夢の中で笹丸さんの声が聞こえてこなかったら、僕は朝を迎えられていたかわかりません。本当に、危なかったんです。あの男性に、感謝しないといけませんね。あのひとにいったん注意を向けてくれたおかげで、僕が逃れる隙が出来たんですから……」
それを聞いた結城が、両手で晃の肩を抱き、震える声で言った。
「よかった。よく、無事だった。すまん、のんきに朝まで寝ていて。今回は、君が狙われているのか……」
晃は、自分を本気で案じてくれる結城の気持ちが、たまらなく嬉しかった。
とにかく、気持ちを落ち着かせるためにも、顔を洗ってこようということになり、結城は晃の手を取って立ち上がらせると、自分も立ち上がる。
晃がチノパンを穿き、義手をつけてシャツを着ている間に、結城は着崩れた浴衣を整える。そして二人は連れ立って、洗面所へ行った。
ひげを剃り、冷水で顔を洗うと、部屋に戻ろうとしたところで、和海が出てくる。
「あら、もう顔洗ったんですか」
すでに着替えていた和海は、明るく声をかける。それに対し、結城の表情は冴えない。晃もまた、表情が沈んでいる。それに気がついた和海は、怪訝な顔になった。
「どうしたんですか。何かあったんですか?」
結城は、それに関して打ち合わせがあるから、顔を洗ったら自分たちの部屋に来るようにいい、晃のほうに視線を走らせる。晃は小さく息をつき、かすかにうなずいた。
和海は首をひねりながら、洗面所へと向かう。それを見送り、結城と晃は部屋に戻った。
結城はすぐに着替え、晃も身支度を整えた。しばらくして、和海が入ってくる。
「どうしたんですか。絶対に何かありましたよね、その様子だと」
晃はうなずくと、“夢の中”であった出来事を話して聞かせた。それを聞いた和海も、顔から血の気が引いていく。
「そういうわけで、今回は早見くんが狙われているようなんだ。どう対処したらいいものか、考えているところなんだが」
「……でも、晃くんが狙われているとして、わたしたちでどうやって晃くんを護ったらいいのか、考え付かないんですけど……」