20.裸の付き合い
すると、入り口の引き戸が開いて、女将が顔を出す。客の様子を見に来たのだとわかったが、ちょうどそのとき、またも雨戸が鳴った。
途端に、女将の顔が青ざめるのがわかった。彼女も、雨戸の音に関して、何か嫌な経験や怖い思いをしたことがあるのではないか、と思わせるような表情の変わりようだった。
「どうかしましたか?」
和海が試しに訊いてみる。女将は懸命にこわばった表情を打ち消し、笑みを浮かべてみせた。
「な、何でもありません。お風呂のほう、午前零時まで入れますから、よろしかったらどうぞ。お風呂は、正面の引き戸の奥です」
「ありがとうございます。お食事、美味しかったですよ」
「いえいえ、お客様に喜んでいただけるのが、一番の喜びですから」
そういったあと、さりげない風を装って、女将はこう付け加えた。
「このあたりは時々風が強く吹くときがありますので、雨戸が鳴ってうるさいこともありますが、お気になさらずお休みくださいませ」
かつて雨戸が不自然に鳴ったことで客からクレームがつき、こういう言い訳を考えたのだろうということは、音の正体がわかっている三人にはよくわかった。
この場は余計な詮索はやめにして、三人はそれぞれの部屋に戻った。
そして、結城は早速風呂へ行く準備を始める。晃にも、せっかくだからと声をかけた。
「急に決まった出張みたいなものだが、せっかくの機会だ、裸の付き合いといこうじゃないか」
「はあ……」
晃は一瞬考え、こう言った。
「僕の体を見ても、びっくりしないでくださいよ。大抵の人が、絶句しますからね」
「わかった、わかった。私はこれでも、君の左腕が義手だとわかっている。君が言うほど、驚いたりはしないよ」
結城はそういって笑った。
結城の目の前で、晃はリュックサックを開け、ボディーブラシなどを取り出した。結城はそれで、リュックサックが妙に大きかったわけを悟った。柄の長いボディーブラシを入れていれば、かさばるはずだ。
結城の視線に気づいて、晃が苦笑する。
「僕、これがないと、うまく体を洗えないんですよ」
「今日は、背中くらい私が流してあげよう。さ、行こう」
二人は浴衣に着替え、タオルやら洗面道具やらを抱えて立ち上がる。
結城に促され、晃は一緒に部屋を出た。さすがに、笹丸は“留守番”をすることになり、部屋の中から二人を見送る。二人が階段を降りかけたところで、和海も部屋を出てきた。
「あ、二人とも行くんですか、お風呂」
和海もまた、浴衣に着替えていた。
「ああ、今日はいろいろ忙しかったからな。まさか、私の本家まで日帰りで行って、その日のうちにここまでくるとは、思っていなかったし」
「ご本家からの帰りは、さすがに所長が運転を替わってくれましたけど、わたしは疲れましたよ。こんなに運転したの、初めてかも」
和海の言葉には、疲労感と多少の皮肉が混ざっていた。
「わかった。帰りには、私が運転するから」
結城が、頭を掻く。そして三人は階段を下り、風呂場へ向かった。
廊下を進み、先程入った食堂の向かい側の引き戸を開けると、そこにはこじんまりとした風呂場の入り口が二つあり、ちゃんと男女別になっている。三人はここで男女にわかれ、それぞれの入り口をくぐった。
一般家庭のそれと変わらない広さの脱衣所で、結城と晃は備え付けのかごの中に脱いだ服を入れていく。結城が先に裸になり、晃のほうを振り返った。
「先に入って……」
言いかけて、結城は思わず息を飲んだ。
それを見て、晃がどこか寂しげな笑みを浮かべた。義手をはずした晃のほっそりとした身体には、左の肩から胸、脇腹にかけて、痛々しい傷痕がのたくるように走っている。左腕があったところには、わずかな瘤のようなものが残っているに過ぎない。ただ、その瘤が動いているところを見ると、わずかに残った“腕”なのだろう。
「……大体の人が、そういう表情をするんですよね、この体を見ると。だから、銭湯とか旅館の大浴場とか、入ったことがないんですよ」
「あ、いや、すまん。私としたことが……」
結城は気まずさを誤魔化すように風呂場の戸を開け、中に入った。晃もすぐ後ろに続く。
中は、家庭の風呂より二回り広いくらいのもので、二人で入るとあまり余裕がない。結城は、自分で言ったとおり、晃の背中を流した。背中にも、整形縫合の傷痕が残っている。
「贅肉はないが、筋肉もあまりついてないなあ」
「……仕方ないですよ。体を使うことを、あまりしてないですから」
と、風呂場の窓が、不自然に鳴った。誰かが外から、叩いたようだ。
「またおいでなすったか。そろそろうっとうしいな」
「入れないせいですよ。入りたいのに、入れない。確かに霊というものは、壁を抜けたりする能力を持っていますけど、やはり生前の習慣を引きずって、扉や窓といった開口部からしか入りたがらないひとは多いし、そのひとと縁もゆかりもない建物は、一種の結界ですからね」
「だが、入れたら厄介なことになるんだろう」
「そう考えたら、僕たちはぎりぎりの時間に来ていたんですね」
三人が着いた時間は、この霊がやってくる直前だった。もう少し到着が遅れて、玄関先で留まっている間に霊が来ていたら、面倒なことになっていたかもしれない。
時折窓が叩かれる音を聞きながら、今度は晃が結城の背中を流した。
「……僕、実の父親にも、こういうことをしたことがないし、されたこともないんですよ。仕事が忙しいこともあるんですが、どうしても、打ち解ける気にならなくて……」
晃がつぶやく言葉に、結城はなんともいえない気持ちになった。子供の頃からの『能力を認めてくれなかった』という気持ちが、実の親に対してこれだけの心の壁を作ってしまったのだろう。
たとえ口だけでも、『“視えた”んだね。怖かっただろう』と言葉をかけてやれば、そのあとどれだけ違っていただろうか、と結城は思った。
お互いに流し合ったあと、手足を伸ばすと二人でも少し狭いくらいの湯船に、二人で浸かった。体の疲れが湯船の湯の中に溶けていくようで、心地よかった。
そのあと髪も洗い、もう一度湯船に浸かったあと、二人は風呂から上がる。体を拭いて、浴衣を着ているとき、結城は初めて義手をはめる晃の姿を見た。結城の視線に気づいて、晃はかすかに笑みを浮かべる。
「もう慣れてますよ、はめるのは」
「そうだろうな。あっという間だもんなあ」
浴衣を着終わって風呂場を出、階段を上がったところで、晃が洗面所に寄るという。
「義眼を一回はずして、洗うつもりなんで」
「……あ、そうか。君は、そういう身体だったな……」
結城は先に部屋に戻り、晃は二階の廊下の突き当たりにある洗面所へ行った。洗面所の脇がトイレになっていて、やはり窓が鳴っている。人の気配がするところにやってきては、窓を叩いているようだ。
晃は義眼を洗い清めてはめなおしたあと、窓は開けずに話しかけてみた。
(あなたは、何が目的で中に入りたがっているんですか。何か、物凄く執着しているものがあるようですが)
(……ここには、オレの大切なものがあるんだ)
(大切なものとは、一体なんですか)
(……)
どうやら、自分で“大切なもの”だと思う何かが家の中にあるのはわかるが、それが何なのかがよくわからない状態であるらしい。
その気になれば、いろいろ対処の方法もあるが、今のところはどうしようもない。ただ、その“大切なもの”に執着しすぎて、悪霊になりかかっているように“視え”た。放っておくのも危険だろう。
そのとき、背後から声がした。
「晃くん、何をしているの?」
風呂から上がった和海が、部屋に戻ろうと階段を上りきったところで、晃の姿を見つけて、声をかけてきたものだった。
「あ、小田切さん。いや、あんまり人の気配を追いかけてくるんで、ちょっと尋ねたら、この家の中に、このひとが執着する何かがあるらしいんですよ」
ただ、それが何かわからないので、今のところ手の出しようがない、と晃は告げた。
「能力全開で探ればわかるはずですが、そうすると多少でも消耗しますね。いくらこれから寝るからとはいえ……」
「無理しないほうがいいわ。でも、そろそろお祓いをしないとまずい感じにはなってきているわよね」
和海が、晃の傍らに歩み寄りながら答えを返す。
「ええ。だからといって、それを宿の人に告げるというのも、変な話ですし」
結局、明日の晩もここに泊まるのだから、明日の状態によって考えようということになり、二人はそれぞれ部屋に戻った。