19.民宿
「これで方向は合っているんだろうなあ」
どんどん街灯が少なくなる外の様子を見ながら、後部座席の結城がやや不安そうな声を出す。
「電話番号の入力間違いはないから、もうすぐ着くはずですよ」
運転席の和海が、うんざりという感じで答える。
「仕方ないですよ。どんどん明かりがなくなっていくんですから。でも、道はきちんとした舗装道路だし、人家がまったくないわけじゃないですから、大丈夫ですよ」
助手席の晃が、周囲の様子を見ながらつぶやくように答えた。
「それにしても、よくご両親の目を盗んで出てこれたな」
結城が、晃に向かって話しかける。晃は思わず苦笑した。肩の上の笹丸も、笑っている。
「無理に振り切って、出てきました。『子供じゃないんだから』って言ってね。ただ、明後日の午後には、どうしてもはずせない必修の講座があるんで、大学に戻りたいんですけどね。その講座の教授、出席なんかを厳しく取る人なんですよ。欠席すると、後々が面倒で」
「まあ、それは仕方がないだろう。それまでに調査が終わらなかったら、あとは二人で何とかするから」
そのとき、ヘッドライトに照らされて、ひとつの看板が見えた。
〈『民宿橋本』はこちら〉
「あ、やっぱりこの道でいいのね」
和海は安堵の息をついて、車を走らせる。
夜の八時をかなり回った頃、三人を乗せた淡いクリーム色の軽自動車は、街灯もまばらな農道を抜け、一軒の大きめな二階建ての家の前に到着した。入り口の引き戸の脇には、『民宿橋本』という手作り風の看板がかかっている。
玄関脇の蛍光灯と、建物の中の明かり以外は、ほとんど明かりはない。
車を止めると、エンジン音に気がついたのだろう、程なくして中年の男性が外に出てきた。男性は、降りてきた三人に、にこやかに声をかける。
「お疲れ様でした。車は、その辺に止めておいて下さって結構です。有り合わせでよろしければ、夜食もご用意出来ますが」
「ああ、ご主人ですか。すみません、遅くに押しかけて図々しいと思いますが、よろしくお願いします」
宿に来ることを最優先にして、大急ぎで走ってきたものだから、三人とも夕食は取っていなかった。乗り込む直前に、晃が気を利かせて買っておいたコンビニのおにぎりを一、二個ほおばっただけで、ここまできてしまったのだ。
三人を迎えてくれたのは、この民宿の主人の橋本大悟だった。中肉中背で、頭がだいぶ薄くなっていることのほかは、これといった特徴はないが、客商売をしているだけに、人当たりのよい笑顔をしていた。
主人の橋本に案内されて、三人は宿に入った。笹丸も、すぐ後ろをついてくる。
入ってすぐは廊下が続いており、その途中に階段があった。聞けば、部屋は二階だという。主人はにこやかに、部屋の案内をした。
「二階へ上がって、すぐの部屋、『鳥の間』が男性お二人のお部屋、『花の間』が女性の方のお部屋です」
自分は夜食の用意をしてくるので、部屋でくつろいでいて欲しいと言い残し、主人は奥へと歩き去った。しかし三人は、宿の建物に入った瞬間から、妙に空気が重いと感じていた。もしかしたら、ここには、何か“いる”かも知れない。ただ、そういう経験は初めてではないので、皆落ち着いていた。
三人は荷物を抱え、階段を上がる。結城と和海は、晃を気遣った。
二人が、ショルダーストラップのついた旅行鞄なのに対し、晃は、やや大きめのリュックサックを背負っていた。そんなに荷物が入っ ているようには見えないが、それでも晃の体の状態を知っている二人は、思わず大丈夫かと声をかけていた。
「そんなに気を使ってもらわなくても、大丈夫ですよ。大荷物背負っているわけじゃないんですから」
晃が苦笑すると、結城も和海も釣られたように苦笑した。
「駅前で待っている姿を見たときはなんとも思わなかったんだけど、こうやってリュックサック背負ったまま階段を上る姿を見ていると、なんか手を出さなくちゃ悪いような気がして……」
「いや、まったく……」
階段を上がりきったところで見てみると、廊下の左右に引き戸が幾つか並んでいる。合計四つで、それぞれ手前から『鳥の間』、『風の間』奥が『花の間』『月の間』とつけられている。奥から時計回りに、花鳥風月になっていた。
ここで男女別になると、それぞれ自分たちの部屋の引き戸を開けて中へ入り、荷物を置いて一息つく。中は八畳間で、正面に雨戸が閉まった窓があり、座卓が部屋の真ん中に置いてあって、座布団が四つその周囲に置かれていた。
結城は、晃がけっこう器用にリュックサックを降ろすのを見て、改めて、自分で一通り出来るよう、懸命に努力してきたのだということがよくわかり、なんとなく胸が熱くなった。結城の視線に気づいた晃が、首をかしげる。
「どうしたんですか。僕の顔に何かついてますか」
「い、いや、そういうわけじゃないんだが……」
結城は、素直な気持ちを打ち明けた。晃は微笑んで、将来自立したいから、と言った。
「母は、必要以上に神経質に、僕の世話を焼こうとするんですけど、それじゃ自立出来ないですからね。母の目を盗んで、いろいろ挑戦しているんです。そうしないと、将来ひとりで生きていけないですから」
今、自動車免許に挑戦中だと晃が言うと、結城は感心した。
「運転免許か。たいしたもんだ。取れたら知らせてくれよ。足が増えるからな」
冗談めかした言い方で、結城は晃の挑戦を認めてくれた。晃はにっこりと笑う。
と、晃がふと窓のほうを向く。結城も気づいて、窓のほうを見た。雨戸の向こうに、何らかの気配が現れる。
刹那、外から雨戸を叩く鈍い音が聞こえた。
「……中年の男性ですね。桜の精が、押しかけてきたわけではなさそうです」
つぶやくような晃の声に、結城も同意する。
「そうだな。怨念ほど強い思いを抱いているわけじゃなさそうだが」
「でも、たびたび来ている様子が伺えますね。あとで、話を聞いてみましょうか」
(そなたの力なら問題はないだろうが、普通の“視える”だけのものがうっかり呼び込むと、厄介なことになるだけの力を持った存在だ。気をつけるに越したことはないぞ)
笹丸の警告に、晃は静かにうなずいた。
「でも、宿の関係者ではなさそうです。かつて宿に泊まった人の中に因縁があって、それがここに焼きついてしまったような……。きちんと話を聞かないと、詳しいことはわからないでしょうが」
そのとき、廊下側の引き戸が軽く叩かれ、和海の声がした。
「おかしな気配があるんだけど、こちら側に来てませんか」
「ああ、来ているよ。さっき、雨戸を外から叩いていた。早見くんが、あとで話を聞いてみると言っているがね」
引き戸が開けられ、和海が頭だけ部屋の中に入れて中を覗く。
「あまり、性質がよさそうじゃないですけどね。大丈夫、晃くん? 無視しても、別にいいのよ」
「それはそうなんですが、ああして迷っている霊を、なんとなく放っておけないような気がするもので」
結城が、晃の肩を軽く叩いた。
「気持ちはわかるが、我々は、あの霊とは全然関係ない調査を行うために、ここに来たんだ。こんなところで余計な力を使って、調査に支障をきたしたら、まずいだろう」
そのとき、階段を上がってくる音が聞こえてきた。
「皆さん、簡単ですが、夜食の用意が出来ました。こちらへどうぞ」
階段を上がってきたのは、中年の女性だった。女将の橋本多美子で、三人を食堂へ案内しに来たのだ。
それをきっかけにして、三人はいったんこの話題を打ち切り、食堂へと向かうことにした。和海が首を引っ込め、結城に続いて晃が廊下に出ると、橋本多美子は一瞬晃の顔を見て呆気に取られ、直後に我に返って照れ隠しのような笑みを浮かべ、三人の先導を始めた。
階段を下り、廊下を奥へ進んで、向かって左の引き戸を開けると、そこが食堂だった。
上の部屋の倍の広さの畳の間に座卓が並び、座布団が置かれていたが、その一角に三人分の食卓がしつらえられている。
三人は早速食卓に着き、ご飯に漬物、山菜の天ぷら、味噌汁といった食事を食べた。晃は、自分の分の食事を先に笹丸に供え、それから手をつける。
「ちゃんと、笹丸さんに食べさせてあげてるのね。それにしても、笹丸さんは使い魔ではないんですよね」
和海の問いかけに、笹丸は答える。
(我は、使い魔ではない。正真正銘“憑き神”だ。最初の契りが違うのだ。我の場合、『供物を捧げて信仰するので、その力を分け与えよ』というものだ。我のほうが“上”なのだよ。ただ、我から『この契りは無効』だとして破棄することは難しいのだ。今、契りの相手のために動いているから、一時離れられているがな。出来れば、村上の長男の口から、『契りは無効』といってもらいたい。そうすれば、完全に契りは破れるのだが)
笹丸の答えを伝えられ、和海は納得したという顔をした。
「今の時期は、やはり山菜だな。出てきていたのはタラの芽とウドかな。有り合わせだという割には、美味かった」
食べ終えた結城が、満足して箸を置く。そのとき、食堂の窓の雨戸が鳴った。
三人は同時に音のしたほうを見、そこに先程と同じ霊体の存在を感じた。
「……家の周りを、ぐるぐる回っているんですかね。まだ、そう遅い時間ではありませんが、来る存在は来ますから」
晃が、二人の顔を交互に見る。結城と和海は、ひとまず必要ないと首を横に振った。
「明日一日調査して、余力があってなおかつ宿の人が困っているようなら、そのとき考えればいいだろう」
「そうですね」