12.神霊
和海が気づいて足を止めたとき、晃が振り返る。すでに顔つきが変わり、どこか壮年の男性にも感じられる雰囲気を漂わせているのがわかった。
「……案ずるでない。わしとて、人の身に長居をするつもりはない。わしはすでに、誰かの口を介さねば、わが意思を伝えることもままならぬほどになったゆえ、この者が力添えをしてくれたまでのこと。そちたちが何故ここへきたか、おおよそわかるゆえ、答えられることは答えよう。その代わり、わしのことを、今いる者たちに伝えてくれ。このまま忘れ去られるは、あまりにむなしい」
晃の言葉は、明らかに普段の彼の口調と違っていた。声のトーンも違う。本来の声より低く、年嵩の声に聞こえる。何者かが、憑依しているのは間違いなかった。
「……あの、あなたは何者なのですか?」
遂に意を決した和海が、質問を投げかける。
「わしは、長年この木を神座としてこの地を治めてきたもの。ただ、我が真なる名を知りしもの、古来よりわが元に仕えし神子のみという定めあるゆえ、名は名乗らぬ」
「それでは、どうしてお社が失われたのですか? お寺は残っているというのに」
今度は結城が尋ねた。むろん結城とて、明治の神仏分離令まで、日本は神仏習合であったことは知っているが、廃仏毀釈で弾圧された寺院のほうではなく、社がここまで跡形もなくなるのは、おかしいと思ったのだ。
「それは、長い話になるぞ」
そう前置きすると、晃の中に宿った“神”は、ここで起こったことを語り始めた。
かつてここには、奥の林にこの神が祀られた社、手前の人里のほうに寺、という形があり、それぞれが近隣の村々の信仰を集めていた。
規模としては寺のほうが大きく、広く信仰を集め、社のほうは小さいながらも山仕事を行うものたちが深く信仰する社であったという。
だが、明治の代になったとき、この社は突然やってきた新政府の役人の手により、焼き払われてしまったというのだ。むろん、そのとき現場で指揮をしていた役人には、報いとなる神罰を下したというが、社は再建されなかった。
その後、しばらくはご神木だったこの木を村人は祀っていたが、八十余年前に落雷により木の幹が折れ、それからは樹勢が衰え続けて、五十年ほど前に完全に枯れてしまったという。
「わしとしても、何とか生かしてやりたいと思うたが、わしを信仰するものが減り続け、力を出せなくなったのだ。それが口惜しい」
晃に宿った“神”が、悔しげにうつむいた。
けれど結城には、何が起こったのかはっきりと理解出来た。
明治期、国家神道を作り上げて国をひとつにまとめようとした政府の方針により、神仏分離令とともに行われた神社合祀政策によって、“由緒ある神社”と認められなかった小さな祠などが統廃合され、あまつさえ淫祠邪神と判断された祠は、明治新政府の手により容赦なく潰された。
そして、どうしても祠を残したいと考えた人々が、祠を「稲荷の祠である」と偽る場合があったといい、本来五穀豊穣や商売繁盛の神だったはずの稲荷神が、様々なご利益を持つのは、違う神を祀っていた祠を稲荷の祠であるとしている場合があるせいだという。
ここの社も淫祠邪神の類と見なされ、横柄な役人の手で焼き払われてしまったに違いない。
「ちゃんと神様はいるというのに、とんでもないことをやったもんだ、明治時代のお役人は……」
結城が思わず口にすると、逆に“神”は微笑んだ。
「そちの心中の言葉により、長年の疑問が解けた。礼を言うぞ」
「あ、そ、それは、まあ……」
結城は、返って慌てている。それを見ながら、和海が我知らずこう言った。
「でも、山の神様って、女の神様だと思っていたけど、違うのね」
それを聞き、“神”はいたずらっぽい笑みを浮かべると、こういう答えを返した。
「山の神は、何もオナゴばかりではない。わしとて、山を治める神であったものだ」
そういって、“神”は笑った。
それを聞いた結城は、“神”が何者であるか、おおよそ見当がついた。
「なるほど、それで“早見くんを依り代に選んだ”のか。なるほど、なるほど」
結城の態度に、和海は怪訝な表情になった。
「所長、どうしたんですか。何ひとりで納得しているんですか」
「まあ、詳しいことは、後で話す。それより、我々がここに来たのは、何を調べるためだったか。肝心要のそれを尋ねないとな」
「あ、そうでした」
結城は、今までの経緯を洗いざらい話し、何か思い当たることはないかと問うた。
「ふむ、そういうことなら、心当たりはないでもない。この木が何か、そちたちはわかるか?」
“神”は、背後の朽ち果てた木の残骸を指差した。二人は顔を見合わせ、揃って首を横に振る。それを見て、“神”は言った。
「これは桜よ。そして、これの親木はまだ生きておる。わしは、その親木のところまで、一度行ったことがある。そのとき、まるで向かい合うような位置に、見事な枝垂桜があったのを覚えておる。親木と枝垂桜は、同じときに芽生え、育った。山深い里であった。今はちょうど、花の盛りであろう」
結城も和海も、息を飲む。
「むろんのこと、これがそちたちの探す桜かどうかはわからぬ。だが、縁がないものでもあるまい。どういう縁があるのか、それを探すのはそちたちだ」
そこまで言うと、“神”は優しく微笑み、こう付け加えた。
「力を尽くしたものには加護を与える。自ら為そうとせぬものには、加護はなきものと思うがよい」
直後、晃の体から“神”が離れた。晃がよろめいたのを見て、素早く結城が支えに入る。“神”の気配はそのまま天高く舞いあがり、空に溶け込んでわからなくなった。
「早見くん、大丈夫か?」
結城に支えられたまま、半ばうずくまったような状態だった晃が、何とか自力で体勢を立て直した。
「……もう大丈夫です。いくら弱くなっているとはいえ、“神”を降ろしているのは、慣れないときついですね」
晃は、心なしか疲労の色を滲ませる。和海が、心配そうに晃の顔を覗き込んだ。
「やっぱり、わたしが依り代役をやればよかったのよ。わたしは、結構自分の中に霊を降ろしているんだもの。晃くんは、慣れていないでしょう」
けれど晃は、和海にやらせるわけにはいかない理由があったのだ、といった。
「今回は、相手が幽霊ではないということです。“神霊”を降ろすには、心身ともに相当の体力と能力が要る。小田切さんでは相手の力を支えきれずに、相手が離れたときに倒れていたでしょう」
「でも」
なおも自分がやればよかったといいかけた和海に、今度は結城が口を挟んだ。
「今回は、依り代は男、それも若い男のほうがよかったのさ。何せ、相手が相手だったからな」
「どういうことですか?」
和海は再び怪訝な表情になった。結城は、とりあえず相手の正体を話した。
「まだ気づかんのか。今の相手は、女ではない山の神だ。山の主ともいえる存在だ。そこまでいえば、わかるだろう。『天狗』だ」
それを聞いて、合点がいった顔をする和海だったが、すぐにまた首をひねる。
「天狗はわかったんですが、どうして天狗相手だと、依り代は若い男のほうがいいんですか」
それには、結城は言いづらそうに口ごもる。当然教えてくれるようせっつく和海に、結城は小声で何事か言った。
「聞こえませんよ。もっとはっきり言ってください」
「……天狗はかつて、よく男の子を神隠ししたという。さらわれた子は“天狗の陰間”といわれたそうだ。そこまで言えば、わかるだろう」
「……あ」
和海は、気まずそうにうつむいた。
「……別に相手は、そこまでのことはありませんでしたよ。ただ、“神降ろし”は本当に、力が要るんです。だから、僕が依り代になろうと思っただけですよ」
苦笑しつつ、晃が間に入る。
それで場はおさまったが、なんとなく奇妙な沈黙が辺りを支配する。
(“神霊”を降ろしたからって、そこまで微妙な気配は感じなかったけどな。そもそも、いくら霊能があったって、支えきれなかったらどうしようもないだろうに)
(俺が支えているから、いきなり“神霊”の依り代にもなれたが、普通のやつがいきなり降ろしたら、離れたときにひっくり返ってるだろうな)
(だから、小田切さんが降ろしてしまう前に、僕がやったんだけど……。ちょっと虚脱感があるな。遼さんの力を分離したときみたいだ)
(おいおい、まるで俺が“神霊”みたいな言い方だな。俺はただの幽霊だぜ)
(もちろんだよ。遼さんが一緒に支えてくれたから、この程度で済んでいるんだってことは、わかっているから)