10.血脈
次の朝、今日一日用事で外出すると母の智子に言い残し、晃は朝七時に家を出た。愛用のワンショルダーの中には、万が一に備えて、掌ほどの大きさの般若心経と、法引にもらった身を清めるための塗香が入っている。
どこか特定の宗教を信仰しているわけではないが、神仏には礼節を尽くすべきだと考える晃は、用意出来るときはそれなりのものを用意する。
父の正男は、神や仏という存在に対しても、妙に合理的に『人間心理の結実の結果だ』といってはばからない。心弱い人間が、自分より大きな存在を心の中に作り出し、それを敬ってきただけだというのだ。だから、晃が般若心経や塗香を持っていると知ると、内心くだらないと思ったのが露骨にわかる表情をした。
智子は、それほどひどくはなかったが、それでも神社仏閣に行くのは正月の初詣くらいで、それも“信仰の一環”としてではなく、“いつも行う季節の行事”という感覚だった。
晃はバス停で、始発の次のバスを待ちながら、傍らの笹丸に話しかけた。
(立て続けにコンビニの稲荷寿司で申し訳ありませんね。うちの親は、昨日見たとおりの人で、神仏に対してどこか失礼な考えの持ち主なんですよ。だから、あなたが近くに居ても気づかないし、稲荷寿司をつくろうなどと考えることもないような人ですから)
(まあ、よい。コンビニとやらの稲荷寿司も、なかなかに美味である。我は好きだぞ、この味は)
笹丸は、朝、朝食代わりに近くのコンビニで買ってきた稲荷寿司を当然のように食べ、ペットボトルのお茶を飲み、機嫌がよかった。 晃が面倒を見ているのがよかったのか、毛並みもほんのわずかずつ良くなっているような気がする。
やってきたバスに乗り込んで、最寄りのバス停で降り、事務所へ向かった晃は、事務所の前に、すでにいつものクリーム色の軽自動車が止まっているのに気づき、足を早めた。
車の近くにいた結城と和海は、晃がやってきたことに気づいて、手を振った。
「おはようございます。あれから、何かわかりましたか」
晃が、結城に向かって問いかける。
「特にないな。すべては、現地に行ってからということになるだろう。とにかく、乗ってくれ」
結城が助手席側のドアを開けると、晃は助手席を倒して後部座席に潜り込み、着席した。
その後、いつものように運転席に和海、助手席に結城が座って、シートベルトを確認すると、和海は車を発進させた。
「カーナビには、もう住所を登録済みだから、指示に従っていけばいいだけよ。ところで、笹丸さんだったかしら、車に乗って、大丈夫なの?」
和海が、晃に続いて後部座席に乗り込んだ笹丸のことを気にかける。
(案ずるな。乗り物に乗るのは、嫌いではない。我のことは気にせず、行くがよい)
笹丸の言葉を和海に伝えると、和海はうなずき、つぶやくように言った。
「……わたしや所長は、狐さんの姿はわかるけど、何を言っているのかわかるのは晃くんだけだものね。なんか、羨ましいというのかな、能力の強さの違いを思い知らされるわ」
「仕方なかろう。我々と早見くんでは、能力的には大人と子供だといつも君自身が言っていただろう」
二人の言葉に、晃は溜め息をついた。
「そう言われても、“視え”過ぎるのもいろいろありますよ。いつかなんか、小さな神社の前を通りかかったら狛犬に挨拶されましたし、夜道を歩いていて急に人気がなくなったなと思ったら、なんだかよくわからないものが集団で歩いてくるのを“視た”こともありました。あれは〈百鬼夜行〉だと思いますが、そんなのに出くわしたくはないでしょう?」
「確かに、そこまで行くと、いやかも知れないわね」
和海が苦笑した。
「ところで、〈百鬼夜行〉を“視た”というのは、どこなんだ」
結城が、興味を引かれたように尋ねてくる。晃は答えて、ごく普通の住宅地の道だと言った。
「まだ事故に会う前、夕方から夜に開かれていた、ジャズの研究サークルに出入りしていたときのことですが」
サークルからの帰り道、すっかり暗くなった住宅地の道を、自転車で走っていたら、前方からそういう連中が近づいてきた。咄嗟に路地に逃げ込んで息を潜めていたら、路地を通り過ぎていずこかへ去っていったという。
「あのときはさすがに、しばらく心臓がドキドキして寝付けなかったですけど」
「そりゃそうだろうな」
もちろん今なら、正面から堂々と対峙出来る。その気になれば、祓うことも可能だろう。ただ、当時の晃にそこまでの力はなかった。 だから、逃げるしかなかった。
「純粋に“視る”力だけは、子供の頃から強かったですから。おかげで、怖い思いもけっこうしましたけどね」
「でも、時にはそうやって危険から身を守ったこともあったわけよね」
和海が、わざと明るい声でそういうと、晃はふっと視線を遠くにやった。
「親はひとつも認めてくれませんでしたけれど。すべて、『そんなことがあるわけがない』『お前の錯覚だ』で終わり。時には『妄想だ』と言われて病院に引っ張っていかれて、精密検査です。正直、そういうものを“視た”ことより、親の態度のほうがいやでしたから、しまいには親には何も言わなくなりました。自分の身は、自分で守るしかない、と、子供の頃に悟ったんです」
晃の、実の親に対する醒めた口調に、結城も和海も答えに窮した。
(お前の親の態度は、当時から全然変わってないからな。人としては、決して悪い親じゃないんだが、なあ……)
遼が、苦笑しながらつぶやく。
遼は、当時から晃の傍に居てくれた。今ほど緊密な関係ではなかったが、性質の悪い霊などがやってきたときには、晃を護ってくれたこともあった。だからこそ、“あのとき”晃は、遼の力を受け入れ、自らが人ならざるものになることをも受け入れたのだ。
(そなたもまた、数奇な星の下に生まれたもののようであるな。この半日接しただけで、それがよくわかる)
笹丸は、晃の力は十二代前の先祖返りだといった。
(そなたの先祖、八代前までは、代々陰陽師の家系。中でも、一族の中で傑出した力を持っていたのが十二代前よ。そなたは、その者の力を先祖返りで受け継いだのだ)
笹丸によると、それからは何のはずみか霊能の力が弱くなり、八代前を最後に、直系から陰陽師を出せなくなった。そして、力を持った弟子に名跡を譲り、その後は普通の行者として過ごしていたが、明治の代になって完全に行の世界から縁を切り、市井のものとして暮らしてきたという。
(そういえば、村上さんも先祖返りでしたね。どういうめぐり合わせなんでしょうかね)
(『類は友を呼ぶ』とも言うからの。しかし、そなたが先祖返りをしたのは、ただの偶然ではない。“血が濃くなった”のだ)
晃の両親は、それぞれが同じ陰陽師の一族から別れて別個の系譜を辿った者たちなのだ、という。
(二つの家系が別れたるは、十五代も前のこと。しかも記録には残っておらぬから、確かめることは不可能。薄められすぎて用を成さなくなった“血”が、数百年ぶりに混じり合い、それが先祖返りを引き起こしたのであろうな)
(記録に残っていない、とはどういうことで……?)
晃が困惑した顔で尋ねると、笹丸はくすりと笑った。
(片方が妾腹ということよ。一族の公の記録には、残されておらぬし、その家系は母方が霊能のない家系であったので、たいした力を発揮せぬまま、すぐさま市井に沈んだ。それゆえ、どこをどう調べても、繋がりがあるとは出てこないのだ)
しかし、晃は複雑だった。今更、自分がそういう血筋に生まれたことがわかったとして、どうだというのだ。両親が力に目覚めることは、まずありえないし、あの態度が変わることもまた、ありえないだろう。
(そなたが、そう思うのも仕方がない。しかしこれは、運命がそなたを選んだということ。それはわかっておるであろう)
(わかっていますけどね。この定めから、抜けられないということも含めて)
晃が大きく溜め息をつくと、結城が声をかける。
「狐さん、いや、笹丸さんか。笹丸さんと、ずいぶん話していたようだが、何か厄介なことでも聞いたのか?」
「たいしたことじゃありませんけどね。先祖の話を少し」
「先祖か。考えてみれば、今回は村上くんの先祖返りの厄介な力が発端みたいなもんだしな。おまけに、私の血筋も関係しているようだし」
結城がそういうと、笹丸は結城の顔をしばらく見た後、この男は関係ないと言い出した。
(我が“視た”厄介な因縁のある血筋は、この者のいとこにして村上家の長男の母である女の、父親が関係するものだ。この者と血の繋がりがあるのは、母親のほうであろう)
(あ、そうなんですか。でも、所長の本家の菩提寺へ向かっていますよ、今)
晃は、笹丸の言葉を結城に伝えた後、どういうことなのかを尋ねた。
(そこまでは、さすがにわからぬ。だが、『行けばわかることもある』であろうよ)
笹丸に言われ、結城は天井を仰いだ。
「全然解決になっていないぞ、まったく……」
「仕方ないですよ、所長。いくら憑き神とはいえ、森羅万象すべて見通せるほどの神通力はないはずですよ、狐さんは」
和海がなだめると、笹丸はすました顔でうなずいた。隣で晃が苦笑する。
(そうあっさり認めてもらっても、僕としては複雑なんですが……)
(そのような顔をするな。そなたがその力のまま陰陽師としての修行を積んでいたのならば、我など式神程度の存在に過ぎぬ。今は、式神を使うすべを知らぬだけのこと。もっとも、そなたが真の力を現せば、我など力づくで組み伏せられてしまうであろうがな)
笹丸はそういって、晃の隣で丸くなった。その姿は、本当にデフォルメされたぬいぐるみの狐のようだ。
そっと“左腕”を伸ばして笹丸の身体に触れると、特有の毛皮の手触りがした。