09.供物
(まともに供物をもろうたのは、六十年ぶりよ。いや、久しぶりに満足した)
白狐は、稲荷寿司とお茶は、晃が食べて欲しいといった。
(我が食ろうたあとゆえ、滋味はなくなっておろうが、食えぬものではなかろうて)
(では、いただきます)
晃は、稲荷寿司をほおばった。明らかに、いつも食べている味ではない。この系列店で売っている稲荷寿司は、何度も食べたことがある。その時の味の記憶と比較すると、薄くて間が抜けたような味なのだ。湯飲みのお茶も同様で、香りの割にはお湯で薄めたのではないかと思うほど味がない。不味くはないが、美味しいとは決していえない。
なるほど、こういうことか、と晃は思った。
「あら、自分でお茶入れたの。言えばやってあげるのに」
地図と格闘していた和海が、晃の様子に気づいて苦笑する。地図に方向を示す線を入れるのに、結城と二人で集中しすぎていて、晃の動きがほとんどわかっていなかったらしい。
「狐さんが、お茶を欲しいと言ったので、忙しそうだったから自分で入れました」
それを聞き、和海は肩をすくめた。
「それにしても、狐さんはやっぱり稲荷寿司が好きなのね。満足そうにしているし、なんだか、物凄く納得したわ」
「すまんな、狐さんの世話を君に押し付けてしまって。ところで、さっきから思っていたんだが、その狐さん、名前はなんていうんだ?」
結城の問いかけに、白狐は答えた。
(我は、『笹丸』という。そのような問いをしてくれるものさえ、ここ数十年、おらなんだのだが)
晃は、狐の答えを二人に返し、狐に向かってさらに問いかけた。
(そういえば、供物なしで、今までよくやってこられましたね)
(そこは、霊感が強くない一家であったことが逆に幸いしてな。仏壇に上げられた供物を、そこにいる“者”たちに断って分けてもらっていたのだ。何せ、先々代は霊感がまったくなく、数年前まで憑いていた先代が、多少私の気配に気づいているようであったが、娘は子供の頃だけ、長男に至っては、前に話したとおり)
晃は、自分が極力供物を用意するし、忙しくてそれどころではない状態ならば、自分が食べる分の食事の一部を、先に食べてもいいと話した。
(あくまでも、僕の分ですよ。他の人の分には、口をつけないでください)
(わかっておるよ。我はそこまで、分別のないものではない)
晃は、稲荷寿司をすべて平らげ、お茶を飲み干して大きく息を吐いた。食べた量にしては、お腹が膨れた気がしない。やはり、“滋味が抜けている”のだろう。
晃が食べ終わったのを見て、和海が声をかけた。
「あ、晃くん、お茶はあとで出がらしになるまで所長と飲んでから、片付けるわ。そのままキッチンにおいておいてね。湯飲みは、ゆすげるの」
「何とかやってみます」
晃は立ち上がると、空の容器をゴミ箱に入れ、湯飲みをシンクに置いて水を出し、何度かすすいだあと、縁の部分を指でゆっくりこすり、もう一度水ですすいで水切り籠に置き、蛇口を閉めた。その様子を傍らから見ていた笹丸が、こんなことを言った。
(そなた、本当は“見えざる腕”があるというに、あえてそのまま行うか。やはり、自らの力は伏せておるのだな)
(ええ。あまりおおっぴらに使う能力ではありませんからね。湯飲みを持ち上げるくらいの力の念動なら、今このままの状態でも出来ますが、普通の人はそういう光景は見慣れていませんし、極力、自分の普段の能力でやってみたいんです)
ゆすぎ終わって事務所に戻ると、結城が手招きをする。
「早見くん、ちょっと来てくれ。地図に線を引っ張ってみたんだが、妙なことがわかったんだ」
言われた晃が、地図を広げてあるデスクまでやってくると、結城は早速地図に引かれた直線を指し示した。
すでに市街地を遠く外れているそこには、寺院を表す卍が記されていた。
「最初に、一軒一軒が識別出来る倍率の低い地図に線を引き、それを順次倍率の高いものに替えていって、ここに突き当たったんだ」
ある程度誤差はあるものの、結城にはこの寺院は心当たりがあるのだという。
「心当たりがあるって、どういうことですか」
晃の問いに、結城は、自分の家の本家の菩提寺がここなのだ、といった。
「本家といっても、私など、そう何度も行った覚えはない。ここから出てきたのは、私の親の世代だし、親の親、私にとっては祖父母だが、その人たちがすでに亡くなっているので、ここ二十年ばかり行っていない場所だ。だが、私にとっても杏姉さんの母親にとっても、ここは本家の菩提寺なんだ」
亡くなった祖父母の位牌や墓は、土地に残った長男一家、結城にとっては伯父一家が受け継いでいるため、自分の家には仏壇もないのだと、結城は言った。
「でも、菩提寺が延長線上にあるというのは、気になりますよね」
晃が考え込む。すると今度は、和海が口を開いた。
「ここが菩提寺だとして、桜はどうなるんですか。いくらなんでも、ここでは桜にはもう遅いですよ。おそらく葉桜になっているはず。どう繋がるんですか」
「そこのところは、よくわからんのだが、なあ……」
「でも、もしここへ確認に行くとしても、おそらく明日以降の話になりますよ。今から行ったら、帰ってくる頃は夜中になりますからね、下手をしたら」
言いながら、和海が晃のほうを見る。
「僕は、とても同行出来ません。明日なら、土曜日だから何とかなりますが」
今日のうちに行動するという選択肢にとっては、晃の言葉はほとんど致命的だった。
「止むを得んな。明日、出来る限り早朝に出発して調査しよう。」
「そうですね。ただ、問題の桜がどれだけ花が持ってくれるか、ですが」
まだ満開になったばかりだと信じて、明日の土曜日に、調査に出発することにし、今日のところは晃が一足先に帰宅することになった。
「それじゃあ、笹丸さんは僕が責任を持ってお世話します。お先に」
晃は二人に挨拶をすると、事務所の外に出た。むろん笹丸も、晃の左肩に乗っている。
(僕の肩の上、そんなに気に入りましたか?)
(うむ。悪くないでな。このままそなたの家にまで行くが、それで構わぬか?)
(ええ、どうせ僕の両親は、霊感もないし、超常現象そのものをまったく信じていない人たちですから、好きなようにどうぞ)
(あまり、自分の親を悪く言うものではないぞ。そなたの中にいるものも、そう思うておるようだし)
笹丸にそう言われ、晃は遼が苦笑するのを感じた。
(たいしたお狐さんだ。俺の本音までお見通しかもな。しかし、嵐のような一日だったな。いろんなことが起こりすぎて)
(ほんとだね。まさかあの村上さんが、“憑き神筋”の人だったとは思わなかったし、他人の霊能を中和する能力を持っている人だとも思わなかったしね)
バス停でバスを待ちながら、晃は今日起こった出来事を、頭の中で思い返した。そして、改めて思うことは、村上の抜け落ちた魂を一刻も早く元に戻し、正気に返してやりたいということだった。
バス停に近づいてくるバスを見ながら、晃はそれを心に誓った。