06.桜の幻視
結城がアパートの扉を開け、中を覗き込んだとき、すぐ後ろで結城の背中越しに部屋を見た晃は一瞬、薄紅色の何かが眼前をよぎっていったのが“視え”た。
「……何かが、よぎりましたね。薄紅色の、桜吹雪のようなものが」
晃が自分の見たものを告げると、結城はぎょっとして振り返り、晃の後ろにいた和海は、呆気に取られたように固まった。
「そ、それで、その桜吹雪は、まだ残っているのか?」
結城が焦って訊いてくる。晃はかぶりを振った。
「いえ、まさに一瞬よぎっただけで、今はもう見えません」
二人の顔に、安堵の表情が広がる。
玄関先に立ち尽くしていても仕方がないので、三人は順番に部屋へと上がった。
村上の部屋は、独身男性の部屋にしては、まあまあ片付いていた。初めて部屋に上がった人間でも、どこに何があるか、おおよそ見当がつく程度には整頓されている。多少、掃除が行き届かないところがあるのは、大目に見ることにした。
三人は、じっくりと部屋の中を見回してみる。晃が“視た”という花吹雪の気配も、今は感じられない。
「さて、試してみるか。いざというときは、フォローしてくれよ」
結城は、昨夜村上が座り込んでいた場所に腰を下ろし、胡坐をかいた。電話のただならぬ気配に慌てて駆けつけたとき、村上はこの場所で足を投げ出した格好で座り込み、病院で見た姿そのままの状態で呆けていたという。
「ところで、最近の村上さんの様子で、何か変わったことはなかったんですか?」
晃が尋ねると、結城も和海も特に気づかなかったという答えが返ってきた。
「そうですか。僕の見たところでは、昨日今日何かあったという感じではなかったですね。もう、ずいぶん前から、例の枝垂桜との縁が結ばれてしまっているように感じられましたが」
「注目していたわけじゃないから、というのは言い訳だな。我々二人は、気づかなかった。今となっては、情けない話だがな……」
「……隠れていたのかもしれませんね。気配を隠し、深く深く隠れていた。そういう状態の霊は、能力があっても見つけにくいものですからね」
晃が慰めるような口調でそういうと、結城も和海もうなずいた。
「とにかく始めよう。見ていてくれ」
結城は、晃と和海にそう告げると、目を閉じてゆっくり深呼吸した。しばらく沈黙していたが、不意に何事かつぶやき始める。
「……桜……満開の……」
晃が傍らに跪き、右手を結城の肩に乗せる。引き込まれるのを防ぐためだ。
「……ずいぶん前……」
結城の表情が、次第に病室の村上に似てくる。つぶやき声が、意味を成さないうわ言のようなものに変わってきた。それを見た和海が、思わず声を上げる。
「所長っ」
その刹那、晃が気合一閃、結城の意識を一気に現実に引き戻した。
結城が、茫然としたまま目を開ける。息が弾んでいた。一方晃は、真剣な表情を崩さない。もう一度結城に向かって鋭い気合を飛ばしたあと、ゆっくりと右手を離した。
「所長、“視た”のは、やはり枝垂桜ですね」
晃の問いに、結城は完全に正気に返ってうなずく。
「ああ、間違いない。その様子が見えたのは何秒でもないが、立ち尽くしていた村上くんに、枝垂桜が覆いかぶさるように重なったのは、はっきり“視え”た。ただ……」
「ただ、なんですか?」
変なところで言葉を切ったのが気になるのか、和海が怪訝な顔で問いかける。
「……実はな、直後に妙なものが“視え”たんだ」
結城は、腰まである艶やかな黒髪の女性の後姿を“視た”という。毛先近くで髪をひとつにまとめ、そこに薄紅の金紗の細布を巻き、布の端を長くたらしているのが“視え”た。
その女性は、結城の視線に背を向ける形で、桜の幻影とともに村上に重なったという。
「着物を着ていたとは思う。だが、その髪の艶やかさに目を奪われて、どんな着物だったかよく覚えていない。ただひとつ、覚えているのが、髪飾りみたいな金紗の細布だ。地が薄紅というか、そう、桜色だった。黒髪は、吸い込まれそうに綺麗だった」
結城が、どこかうっとりとつぶやくように言うと、間髪いれず、晃が返した。
「落ち着いてください。吸い込まれかけたんですよ、意識を」
晃に指摘されて初めて、結城は自分がどういう事態だったか気がついたようだ。急に血の気が引き、噴き出してきた額の汗を手で拭った。
「……そうか、そういうことなのか。また、やりかけたのか、私は」
「でも、無事だったからいいじゃないですか。前みたいに、何かに絡まれたとかいうことはないんでしょう」
慰めるように話しかける和海に、結城は大きく溜め息をつく。
「確かにそうではあるんだが、私は自分が情けない。自分で自分の身も守れないのかと思ってな。今回だって、早見くんが引き戻してくれなかったら、どうなってしまったかわからんし……」
「向き不向きの問題ですよ。僕は、目の前で起こった事態に対処するなら強い力が振るえます。でも、〈過去透視〉の能力は“なんとなく雰囲気がわかる”程度だし、自分の身を依り代にして霊を呼ぶなどということも出来ません。僕では、所長や小田切さんの代わりは出来ないんですよ。自分の力に、自信を持ってください」
晃が微笑みかけると、結城もほんの少しだけ表情が緩んだ。
「僕も、村上さんのところで霊視をしたとき、枝垂桜の巨木の向こうに、何がしかの“意思”のようなものを感じたんです。もしかしたら、所長が“視た”女性というのも、それに関係するのかもしれません」
そう言われて、結城も和海も考え込んだ。特に結城は、その女性を実際に“視て”いるだけに、床に座ったまま腕を組んで考え込んだ。
「そういえば所長、『ずいぶん前』とつぶやいていましたけど、どういう意味だったんですか?」
今度は和海が問いかける。
「その桜と、村上くんとの関係だな。“ずいぶん前”から、何かあったようだ」
「僕もそれは感じました。いつ頃まで遡るかは、わからないですが」
晃がうなずく。
「私も、そうはっきりとはわからんが、一週間や二週間の話ではないだろうな。それだけの時間があって、異変に気づけなかった自分がなんとも腹立たしいが」
結城が、苦虫を噛み潰したような顔になった。それには、和海も同調する。
「それに関しては、わたしもそう。いくら相手が注意深く隠れていたからといって、毎日のように顔を合わせていたのに……」
二人の様子に、晃は内心溜め息をついた。冷静さを欠いていては、うっかりすると相手の術中にはまりかねないからだ。かといって、何ヶ月も直接顔合わせをせずに来てしまった自分では、二人の気持ちを静めるのは難しいだろう。
(常勤してるわけじゃないからな、お前。何かあったときの助っ人っていうのが、お前のポジションだし。しかし今回の相手、俺みたいに隠れていたって訳か。厄介なやつに見込まれたもんだ、あの男も)
(うん。しかし、あれだけ見事な枝垂桜、全国にそう何本もあるものじゃないよね。しかも、満開だっていうのが引っかかるんだ。今、枝垂桜が満開のところって、どこだろう?)
(そういや、それって立派な手がかりになるぞ。今、枝垂桜が満開のところ、か)