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ある異能者の備忘録  作者: 鷹沢綾乃
第一話 凍れる願い
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08.事務所の日常

 和海は、突然鳴り出した着メロに、歩く早さを緩めた。最寄り駅から事務所へと向かう、朝の通勤の道すがらのことだ。

 急いで、愛用のショルダーバッグの脇ポケットに収めてあるスマホを引っ張り出した。

 着メロはしょっちゅう変えているが、今はヒットチャート上位のJ-POPに設定してある。道路脇に寄って着信を確認した。父方の祖母からだった。

 「和海、お前また見合いの話、すっぽかしただろう。いい加減にしなさい」

 いきなり祖母の叱責の声が、携帯電話特有の微妙な聞き取りづらさを伴って、耳元に響く。頭ごなしの叱責に、和海は無性に腹が立った。

 「何よ、わたしの都合も考えずに勝手に見合い話を進めていたくせに。こっちにだって、どうしても手の離せない仕事の予定や、急用だって入るのよ。それをすっぽかしたと言われるのは心外だわ。いい加減にしてほしいのはこっちのほうよ」

 祖母はまだ電話の向こうで何か言っていたが、和海は電話を切り、電源も落とした。

 これで、当分祖母と電話越しの喧嘩はしなくてすむが、次に電源を入れたときのことを考えると、気が重い。

 朝から不愉快な思いをした和海は、スマホをバッグの脇ポケットに押し込み、肩をいからせながら早足で歩き出した。

 祖母はここのところ、やたら『見合い話がある』と言っては自分の両親がいる実家にやってきて、自分が預かってきた男性の写真を見せようとする。

 それがいやで、ここしばらく実家に顔を出さないようにしていたのだが、今日はとうとう直接電話での叱責となった。

 祖母の価値観は、『女は結婚して子供を産んで一人前』だから、そうなってしまうのも仕方がないのだろうが、叱咤されるほうはうっとうしい。

 しかし、いくら見合い写真を見せられても、間近で晃を見慣れていると、全く心が動かない。

 しかも晃は、見た目だけでなく性格も好みだ。でしゃばりや目立ちたがりが嫌いな和海にとって、晃は理想にかなり近いことは確かだった。

 別に、晃と付き合おうと考えているのではないが、彼が近くにいるとほのかな甘い夢を見ることが出来る。

 それに、今の職場はときに所長の結城との喧嘩などもあるが、小さな個人事務所だけに、和海に裁量がゆだねられる範囲も広く、責任ある仕事を任されて充実している。

 それを考えると、今はとても結婚など考えられない。

 しかも、祖母の考え方は『女は結婚したら仕事など辞めて家庭に入るのが当たり前』という一時代前としか思えないもので、和海の考えとは相容れなかった。

 そんな祖母の持ってくる見合い話では、どんな男がくるかわかったものではない。祖母の眼鏡にかなう男では、価値観がぶつかるのではないだろうか。今のところ、両親が防波堤になってくれているが、肝心の父親が今一つ頼りないので、そのうち本格的にぶつかる日が来るかもしれない。

 怒りに任せて取りとめもないことを考えながら歩いていると、ふと、晃に出会ったときのことを思い出した。

 あれは半年前。まさに衝撃の出会いと言ってもいいものだった。今でこそあの容姿に慣れてきたが、初めて見た時の驚きとときめきは、今でもはっきりと覚えている。

 半年前、結城とともに心霊事件調査の仕事をした帰り道。夕日がまさにビルの向こうに沈もうとする頃だった。

 現場で能力を使い過ぎ、二人とも疲労困憊で足を引きずりながら駐車場に向かっていた。ちょうどそのとき、不意に背後から声を掛けられたのだ。

 『背中に霊が何体も憑いてきていますよ』と……

 それに驚いて振り返ったその瞳に映ったのは、暮れなずむ夕日の(あか)い光の中に佇む、絶世の美青年。そのとき和海は、一瞬、周囲の時間が止まってしまったように感じた。

 あのような感覚は、後にも先にもあのとき一度だけだ。

 しかし、当時の和海には、その青年の言葉がぴんと来なかった。自分も霊能者であるだけに、気づかないはずはないと思っていたのだ。

 だが、青年が和海に“気”を入れ、わずかに疲労感が薄まったとき、和海自身が複数の霊の存在を感じた。疲労のあまり感度が鈍くなっていたのだ。

 けれどその気配は淡く、何体いるのかは依然として判然としないままだった。

 和海が、青年の能力の高さに気づいたのはそのときだ。

 『五体いますね。それが重なり合って、ぴったりくっついている状態ですよ』

 青年はそう言った。

 はっきり確信した言い方に、和海も結城も驚きを隠せなかった。和海の背後に憑いていた気配は、とても、数を数えられるほどの気配ではなかったからだ。

 その場で青年を説得して事務所まで来てもらい、能力を確認する意味もあって憑いてきた霊を祓ってもらったのだが、二人とも青年の力に圧倒された。とても、こんな若さで使える能力とは思えなかった。長年修行を積んだ老練な能力者に匹敵する、と二人で同時に直感した。

 それから、二人で青年を拝み倒し、大学の勉強の空き時間に、アルバイトとして手伝うと約束してもらうことが出来た。その青年が、晃だった。

 あとで聞いたら、声を掛けようかどうしようか、しばらく迷っていたという。だが、憑いている霊があまり性質のよくないものだと感じていたので、思い切って声をかけたのだと言っていた。

 おそらくは、そのうち気づいたはずだが、気づいたときには霊障が始まっていた可能性もあったので、そういう意味でも、あの出会いは幸運だったと和海は信じている。

 駅からの大通りを一本路地に入り、住宅地の道を歩くことしばし、もうすぐ事務所が見えてくるというところで、肩をすぼめて歩くスーツ姿の大柄な男を追い越した。その直後に気づく。それは所長の結城だった。

 武道を習っていることもあって、普段は背をまっすぐ伸ばし、人込みの中に入っても頭ひとつ高い結城が、別人のように背中を丸め、悄然と歩いている。

 「……所長、どうしたんですか。何かあったんですか」

 和海に声を掛けられても、結城は力なくそちらを見ただけで、何も答えない。代わりに長い溜め息をついた。

 和海は困惑し、眉間にしわを寄せる。

 「所長、どうしたというんですか、今朝は。……わたし、先に行って、事務所開けてますからね」

 和海はいっそう足を速めると、事務所の前にやってきた。

 ここに通い始めて丸二年になる。

 短大、続いて経理の専門学校を卒業し、派遣社員をしながら秘書の資格を取って、ふとしたきっかけからこの探偵事務所に勤めることになった。

 ちょうど、夜の街中を歩いているとき、性質の悪い浮遊している霊と睨み合っているところを、たまたま通りかかった結城にスカウトされたのだ。

 その霊は、結城と力を合わせて祓った。それ以来、事務所の経理と総務と結城の秘書も兼任している。

 この事務所の建物は、元々は結城の妻千佳子の実家だった。

 千佳子の両親が、会社を定年退職したら田舎で農家をし、自給自足の生活をしたい、という長年の希望をかなえて、田園地帯の古い民家を安く借り受け、そちらに移っていったために、その家は完全に空き家になっていたのだ。

 千佳子の両親はすっかり田舎暮らしに慣れてしまい、この家を手放すという話になっていたところを、独立開業するために事務所となる場所を探していた結城が借りることになり、改装する許可を得て、今に至っている。

 バッグから鍵を出すと、和海は玄関ドアを開け、中に入る。

 靴を脱いでスリッパに履き替えると、玄関脇のシューズボックスに靴をしまい、事務所の入り口のドアを開け放してドアストッパーで固定する。

 慣れた手つきで〈Welcome〉プレートをまっすぐに直し、部屋に入ってそのまま一番奥まで進み、クローゼットにしまってあった掃除機を取り出して、朝の掃除を始めた。ここまでは毎朝のいつもの風景だった。

 そこへ結城がのっそりと姿を現し、部屋に入ってくると、長椅子に座り込んでまたも大きく溜め息をつく。見かねた和海が、とうとう業を煮やして、強い口調で理由を問いただした。

 「所長っ。溜め息ばっかりついていないで、わけを話してくださいよ。気になって仕事にならないじゃないですかっ!」

 結城は、うつむいていた顔をわずかに上げ、上目遣いで和海のほうを見た。

 「……娘の恵理が、私を嫌うんだ……」

 和海は思い出した。結城の娘は、確か今、中学二年生。難しい年頃だった。

 「……娘がな、『パパが入った後はお湯が汚れるから、お風呂は最後に入って』と言い出したんだ。昨日は、せっかく早めに帰れたのに、そんなことを娘に言われるなんて……」

 あとは言葉にならず、ただ溜め息をつくばかりの結城に、和海はどう慰めたらいいかと悩んだ。

 中学生といえば、ちょうど思春期で、良くも悪くも異性を意識する時期だから、男親に対し、過剰反応しているだけで、時期が過ぎれば収まるものなのだが、結城がまた過敏になっている。

 日頃娘がかわいくて仕方がなかったらしいのはわかるが、ここまで落ち込まなくても、と思うほどしょげていた。

 「……所長、そういうのは、いっときの嵐みたいなもので、時期が過ぎればまた落ち着きますよ。わたしがそうだったんですから。一時は父親のやることなすこと気に障って、どうしようもない時期がありましたからね」

 和海の言葉にも、結城の反応は芳しくない。

 「それだけじゃないんだ。もっともこれは、自分で墓穴を掘ったんだが……」

 聞いてみると、娘に嫌われていると感じた結城は、晃の写真を見せて自分の部下だと話を向けてみたのだと言う。ところが、それを見た娘が会いたいと言い出してしまった。

 晃本人に無断で写真を見せびらかした手前、『大学生のアルバイトで、たまに手伝いに来るくらいだからいろいろ難しい』と言い繕ったため、嘘つき呼ばわりされて、かえって事態が悪化したという。

 「それはそうですよ。うっかり晃くんの写真なんか見せたら、会いたがるに決まっているじゃないですか」

 和海は呆れ、微苦笑をした。そこら辺のアイドル顔負けの晃の写真など見せたら、それこそ事態がややこしくなるだけだ。

 「そういうことなら、晃くんに頼んで、一度自宅に来てもらったらどうですか。晃くんは優しいから、事前に訳を話して頼めば、ちゃんと空いてる時間を見計らって、来てくれますよ」

 「それはそうだが……自分の身の回りのことも解決出来ないようでは、その、沽券に関わるというか……」

 やはり、娘のことは自分で何とかしたいのだろう。こういうことは、あまり他人が口を出すことではない。

 とにかく和海は、事務所の掃除に専念することにした。落ち込んでいる理由がわかったのだから、放っておいても害はない。

 すると、玄関ドアの開く音がして、少々ふくよかな中年女性が元気よく事務所に入ってきた。

 色味は地味だが品のいいブラウススーツを着ている。

 「あ、所長、小田切さん、おはようございます。例の写真撮れましたよ」

 言いながら、女性は肩に掛けたバッグを降ろし、中からひときわコンパクトサイズのデジタルカメラを取り出して、デスクの上に置いた。

 「ああ、高橋さん、おはようございます。写真撮れましたか」

 掃除の手をいったん休め、和海はその女性、高橋栄美子に挨拶を返した。

 「ええ、決定的なのが。それこそ、誰が見ても言い訳がきかないくらいの、浮気の確実な証拠写真がね。これで、クライアントに調査結果を渡せますね」

 栄美子はそう言って、自分でデジタルカメラを再度手に取ると、ぎこちなく記憶媒体を取り出し、パソコンに繋ぎっ放しの読み取り機にそれを入れて、写真を和海に示した。

 そこには、ターゲットの男性が若い女性とともにホテルから出てきたところが写っていた。栄美子はさらに、少したどたどしくマウスを操作して、その写真の前後も見せる。それは完全な連続写真だった。

 「このほかにも、この女性をアパートに送っていくところまで、ちゃんと追いかけて写真を撮っていますから」

 栄美子は得意げな笑みを浮かべた。

 栄美子は、元々はこの事務所が開設された折に、パートで電話番を頼んでいた近所の主婦だった。

 それが、電話番をしている間に本人が探偵というものに興味を持ち、自腹を切って探偵養成学校に通い、技術の基礎をすっかり身につけた上で、正規の所員となった。

 そして今では、村上と並んで一般的な探偵業務のほうの重要な戦力になっている。この二人が頑張っているおかげで、結城探偵事務所は何とか収支が黒字になっていた。

 「……あれ、所長。ずいぶんと元気がないですね。何かありましたか」

 栄美子が、不意に結城に話しかける。突然前触れもなく話しかけられ、結城は一瞬言葉に詰まったあと、つっかえながら答えを取り繕う。

 「い、いや……そんなことはないぞ。普通どおりだ」

 「普通どおりなんてことはありえませんよ、その顔で。娘さんかなんかのことで、悩んでいるんでしょ」

 結城の顔色が変わった。和海も目を丸くした。

 「……何故わかった」

 やっとのことで、それだけの言葉を搾り出した結城に対し、栄美子はこともなげに答える。

 「普段は、長椅子には座らないでしょ。自分のデスクの向こうの、自分の椅子にちゃんと座っているじゃないですか。こんなところで肩を落として茫然と座っているなんて、何か悩みがあったに決まってますよ」

 栄美子は、結城に向かって苦笑した。

 「それで、今の所長が悩むことなんていったら、ちょうど年頃の娘さんのことだろうなって思ったんですよ」

 元から、栄美子は洞察力に長けている。これは天性のものだった。だからこそ、自他共に探偵業が天職と思える状況になっている。結城の悩みを見抜いたのも、この天性の洞察力だった。

 「……高橋さんにはかなわんな。私の様子を見て、そこまでわかるか。相変わらず、たいした直感だな」

 感服した結城は、今までのことを一通り栄美子に打ち明けた。

 「……なるほどね。そういうことですか。でも、お年頃の娘さんなんだから、ある程度はしょうがないですよ。でも、これくらいのことで大騒ぎするようじゃ、彼氏が出来たらどうなるんでしょうねえ」

 栄美子がそう言った途端、結城の顔色が再度変わった。

 「彼氏だと。そんなことはありえん。娘はまだ十四歳になったばかりなんだ。まだ早すぎるっ」

 それを聞いた和海と栄美子が、申し合わせたように同時に肩をすくめた。

 「所長、今時の中学生なら、彼氏彼女がいてもちっともおかしくないですってば。確かに、学校側が睨んでいるから、表には出ないでしょうけど」

 「そうですよ。うちの馬鹿息子たちも、中学生の頃から女の子のことばっかりで……。バレンタインデーなんかで、『クラスの誰某は、女の子から手作りチョコをもらった』とか、くだらないことで騒いでましたもの。誰某がもてるの、もてないの、どの娘が可愛いの可愛くないのって。まったく、勉強もしないで……」

 「おいおい、ウチのは娘だぞ」

 結城が口を挟むと、栄美子は再度苦笑しながら、改めてこう言った。

 「“手作りチョコ”って言いましたよ、あたし。男の子にわざわざ手作りのチョコを渡すなんて、その女の子だって相当意識してるってことでしょう。中学生は、ちょうどそういうことに目覚める時期ですからね」

 結城が言葉を失っていると、和海が直接関係ないことを言い出した。

 「でも高橋さん、ご自分の息子さんを“馬鹿息子”と言うのはどうかしら。だって、ご長男は大学に入ったんでしょう」

 それを聞き、今度は栄美子が溜め息をついた。

 「何言ってるんですよ、小田切さん。二流大学に一浪して入って、バイトと合コンに明け暮れてるんだから、どうしようもない。あーちゃんとは比較にならないわ」

 栄美子は、親しみと多少のずうずうしさも込めて、晃のことを“あーちゃん”と呼んでいる。そして、こういう口調で話し始めたときは、愚痴をこぼす前兆だった。

 「だってあーちゃんは、将来司法試験を受けるのを前提にした特別な大学に行っているんでしょう。本当に、うちの馬鹿に爪の垢煎じて飲ませたいわ。同い年だっていうのに、どうしてこれだけ違うのかしら。下のは下ので、ゲームばっかりやってて……」

 栄美子のこれが始まると、長い。しばらくは、息子に対する愚痴が止まらなくなる。

 始めは呆気に取られていた結城も、そのうちこれはだめだと思ったか、長椅子から立ち上がって自分のデスクに移動した。和海は、最初に話を振ってしまった手前、相槌を打ちながら愚痴に付き合った。

 いつしか栄美子は、自分の息子に比較する対象を、晃から村上に変え、話は続いた。

 「琢ちゃんだって、仕事を一所懸命頑張ってるわ。学生にとっての本分は勉強することでしょ。だったら、もう少し勉強に力を入れてもいいはずなのに、適当にバイトして、女の子と仲良くすることしか考えていないのよ。あんなことじゃ、四年でなんか卒業出来ないわよ。授業料だって、安くないのに……」

 「……もしかして、昨日あたり喧嘩しましたか」

 なんとなく気がついた和海が尋ねると、栄美子は頬を膨らませたままうなずいた。

 昨夜、尾行をするために家を出るというときに、ひと悶着あったという。

 栄美子が出かけようとしたときに、長男の利樹がやはり出かけようとしていて、合コンに行くのだと直感した栄美子が注意し、喧嘩になったというのだ。

 しかし、と和海は思う。

 そういう“バイトなどで単位はいつもぎりぎり”という学生は決して珍しくない。そして、いくら日頃合コンだなんだと遊んでいようと、就職すれば村上のようにちゃんと働くようになるものだ、普通の感覚の人間なら。自分のかつての同級生がそうだったから、よくわかる。

 けれど、そういう精神状態であっても、仕事はきちんと仕上げているのだから、もはや完全なプロだ。その点はたいしたものだといえる。

 「とにかく、証拠写真押さえてくれて、ありがとう。お疲れ様でした。それと、さっきの話の戻りますけど、所長と娘さんのほう、何かいい案思いつきましたか」

 和海が、適当なところで話題を変える。

 「ああ、そうですねえ。やっぱり、あーちゃんに頼んで、一回娘さんと話してもらうのが一番手っ取り早いんじゃないですかね。わけを話して来てもらうのに抵抗があるなら、『一回遊びに来て』とか言って、普通に自宅に招待する感じで来てもらっては。一回会えば、娘さんも納得するでしょう」

 言いながら、栄美子は窓の外に何気なく目をやり、軽く会釈した。掃除のために開け放してあったカーテンの向こうに見える表通りに、誰かがいたようだ。

 「あのおじいさん、元気ですよね。朝決まった時間に、ここを通るんですよ」

 微笑みながらそうつぶやいた栄美子の視線を追った和海は、頬を引き攣らせた。そこを歩いていたのは、生きている人間ではなかったからだ。

 霊体の中には、日の光の中でも姿を現すものもいる。あの老人もそういう存在で、生前の習慣そのままに、朝の散歩をしているのだ。

 特に何をするでもなく、生前の習慣を繰り返すだけの無害な霊体なので、見かけたとしてもこちらから何かするわけではない。相手から頼まれた場合にのみ、成仏の手伝いをするくらいだ。

 しかし、あの霊体が“視える”ということは、栄美子にも多少はそういう素質があるということになる。

 和海は、さりげなく栄美子の様子を伺った。どうやら、自分の“視た”ものの正体は察していないようだ。

 そういうことなら、黙っていようと思った。

 ここで余計なことを言って、本人を不安にさせることはない。自分で気がついて相談されたときに、アドバイスしてあげればいいのだ。

 それに、これ以上心霊関係のスタッフが増えては、探偵事務所としての性格が変わってしまう。心霊事件の解決はあくまで“裏仕事”で、普段は所長や和海も、通常の探偵業務を行うのだから。そもそも、依頼の数の絶対数が違う。

 事務所の掃除を手伝い始めた栄美子の姿を横目に見ながら、和海はいつもの始業準備を続けるのだった。


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