03.空虚
次の日の午後、いくらか日差しが傾きはじめる頃、晃が、村上が入院する病院の最寄り駅に到着したとき、駅前のロータリーにはすでに、見慣れた淡いクリーム色の軽自動車が止まっていた。結城探偵事務所の車だ。
事前に、早退して駅に向かう旨を伝えておいたので、迎えに来てくれたのだ。
晃が小走りに車に近づくと、早速助手席側のドアが開いた。中には、運転席に小田切和海が、後部座席に所長の結城孝弘が座っている。
「わざわざすみません。迎えに来てもらってしまって」
「いいのよ。それより早く乗って。急いで病院に向かうから」
晃が乗り込み、ドアを閉めてシートベルトを締めると、和海は早速車を発進させた。
「そういや、今何時だ」
結城がそうつぶやきながら、腕時計を確認する。午後三時を回ったところだった。
「このまま病院に直行するとして、病院までどのくらいですか」
晃の問いかけに、和海は五分もかからないといった。
「ただ、面会時間が結構限られているので、どのくらい“視る”ことが出来るか、行ってみなければわからないところがあって。あと、親御さんが付き添っている時間帯だろうとも思うから、親御さんの対処次第というところもあるわね」
そうして話をするうち、病院の建物が道路からも見えてくる。かなり大きい大学付属の総合病院で、正面玄関横には、それなりの駐車スペースがあり、まだ余裕を持って止められた。
和海は早速車を敷地内に入れると、あいているスペースに駐車し、エンジンを切ってサイドブレーキを引き、キーを抜き取ってバッグの脇ポケットに入れた。そうする間に、晃と結城は一足先に車を降り、和海を待った。
「さ、行きましょう」
最後にドアロックを確認した和海が促すと、皆は病院の建物に向かった。
正面玄関から入って、和海が受付で面会であることを告げると、渡り廊下を通った別館の二階の病室であると告げられた。
「面会時間は、二十分以内でお願いします。ナースステーションにも、声を掛けてくださいね」
受付の女性からそういう注意をもらうのが、妙な不安を掻き立てられる。
「……病院って、なんか落ち着かないんですよね。僕自身、今でも半年に一回くらいは状態を確認するために病院へ行くんですが、やっぱり落ち着かないです」
渡り廊下へ向かいながら、晃がつぶやいた。すぐ後ろを歩く結城が、苦笑しながらもうなずき、答える。
「病院が大好きなんていう人は、あまりいないだろうさ。私も、出来れば病院のお世話になりたくないと考えているひとりだ。場合によってはそうも行かんというのは、もちろんわかってはいるが」
「でも、今回はそのどうしようもないケースですよ、所長。親御さんがいらしてた場合、所長に噛み付いてくることも考えられます。そういえば、確か村上さんのお母さんと所長が、いとこ同士でしたよね」
「……そうなんだよな。そこが一番気が重いところでな」
三人は本館を抜け、十メートルほどの短い渡り廊下を通ると、近くに階段が見当たらなかったので、エレベーターで二階へと上がった。
エレベーターを出てすぐのところにナースステーションがあったので、受付で言われたとおり声をかけ、病室を確認してみる。
その階の病室は、精神疾患の患者のもので、比較的症状が安定している患者が入院しているところであるという。
「村上琢己さんでしたら、ナースステーションのはす向かいの部屋です。個室ですから、名札で確認すれば、すぐにわかると思います。おとなしいですけど、あまり無理に刺激しないでくださいね」
看護師長らしい年配の看護師が、注意とともに、母親が来ていることを付け加えた。
「はあ、わかりました……」
結城が、眉間に微妙にしわを寄せた。村上琢己の母親は、結城より七つ年上のいとこ杏子だ。幼馴染でもあるが、対等の遊び相手というよりは、“親戚のお姉さん”という感覚で接していたので、今でも顔を合わせると、どうも押され気味になる。
「所長、責任者として、説明はして下さいよ」
和海に釘を刺され、結城はやむなく自分が先頭で病室に向かった。看護師長に言われたとおり、病室自体はすぐに見つかった。
結城は一瞬ためらったあと、病室のドアをノックし、応答があったことを確認してドアを開けた。
そこは、広さにして三畳ほどの部屋に、ベッドがひとつ置かれていて、一見したところ、普通の病室となんら変わりはない。そのベッドの上で、ジャージ姿の村上が呆けたような笑みを浮かべて座っており、ベッドの傍らの丸椅子に、藤色のサマーセーターに茶色のスラックス姿の中年の女性が腰掛けていた。村上の母、杏子だ。
杏子は、入ってきた結城の顔を見るなり立ち上がり、猛然と食ってかかる。
「ちょっと、どういうことなのよ、これは! 琢己はどうして、こうなってしまったのよ。答えてちょうだいよ、ねえ。あんた所長なんでしょ!?」
「ま、まあ、順序立てて話をするから、興奮しないでください。落ち着いて」
結城がひとまずなだめようとするが、杏子はますます食い下がる。
「何よ、どういう話があるって言うのよ。何でこんなことになったのか、訊いているんじゃないの。答えなさいよ」
やむなく、和海と晃もなだめにかかった。
「落ち着いてください。こういう状態じゃ、事情説明も出来ないですよ」
「村上さんは、なんとしてでも元に戻してみせますから」
晃の、『元に戻してみせる』といった言葉に、杏子が反応した。
「ちょっと、お医者さんでもないあんたが『元に戻す』なんて無責任なことを……」
晃を睨みつけた直後、杏子の顔に戸惑いの表情が浮かんだ。漆黒の髪をした、にわかには信じられないほどの美貌を持つ青年に、言葉を失ったのだ。
「元に戻して見せます。村上さんの様子を、直接見させてください」
晃は真顔で、杏子に向かって再度同じことを言った。
杏子が戸惑って、どうしていいのかわからないでいるうちに、晃は杏子の傍らをすり抜けて、村上の傍に行き、村上の様子をじっと“視た”。その間に、結城と和海が杏子に向かって当時の詳しい話を改めて話し始める。晃の霊視が終わるまで、杏子の注意をそらすためだった。
晃は、二人の行為に感謝しつつ、村上をじっと見つめ、気配を探ろうとした。
微笑みに見える表情を浮かべながら、ぼんやりとベッドの上に座る村上は、晃を前にしても何の反応も示さない。晃は、遼からもらった“霊気の左腕”を伸ばして村上の肩の上に置くと、“気”を探った。
(おかしい。“気”の動きがない。これは……)
(……空っぽだぜ。マジで“魂が抜け落ちてる”状態だ。何でこんなことになったんだ、こいつは)
晃はなおも、村上の“抜け落ちた魂”の行方を探った。村上自身は生きているのだから、魂と肉体はつながっているはずだ。魂の行方を探って、どんどん無意識域まで降りていくと、不意に薄紅色のものが“視え”た。桜だ。
真っ暗な空っぽの空間の中に、どこまでも続く真っ黒い大地。その中に、まるで自らの内側から光を発するかのようにそびえる、巨大な枝垂桜。花びらが零れ落ちんばかりの満開の桜は、花の奥から仄かな光をこぼれさせているかのごとく、爛漫と輝いている。
(誰だ、お前は?)
巨木の奥に、何がしかの存在を感じ、晃は思わず問いただした。しかしそれに答えるものはなく、まるで晃を拒むように巨木からまばゆいばかりの光が溢れ、すべてがハレーションを起こしたように真っ白になる。
さすがにひるんだ晃の隙を突き、巨木の姿は掻き消えた。