28.破術
晃は、人形を抱えたまま本堂まで戻ってきた。腕の力を緩めると、人形はその腕から飛び出すように抜け、宙に浮いた。その全身は、異様な赤い光に包まれている。
その髪の毛は、風もないのに揺らめき、一本一本が生きているかのようだ。人間そのものである瞳は、激しい怒気を孕んで晃を見つめ、にわかには近づきがたいほどの、殺気とも思える気配を漂わせていた。
(邪魔ヲスルナ。コレ以上邪魔ヲスルト、オ前カラ殺ス)
人形の心が、激しい怒りの感情をぶつけてくる。
晃は、それに答える代わりに、遼の力を呼び込んだ。その体から、生者と死者のものが入り混じった“気”が、燃え上がる炎のごとくに吹き上がる。
「僕は、力づくではことを進めたくはない。すでに、時は流れすぎた。あなたの生きていたのは大正だ。それから、百年前後の歳月が、流れ去っているんだよ。自分に掛けた呪術を解いて、目を覚ませ」
(ワケノワカラナイコトヲ言ウナ。騙サレルモノカ)
人形が、いや、人形の中の竹内サワが、何事か唱える。
晃の周囲に、どす黒い気配が湧き上がった。そして、一気に晃を包み込もうとする。
まさにその一瞬、人形は晃の姿を見失った。晃が、念の力で自分の体を浮かせ、音もなく跳躍して人形の背後に回りこんだのだ。むろん気配は一緒についてくるが、それも計算のうちだった。
晃は、背後から“霊気の左腕”を人形の背中につきたてる。晃の全身の皮下を、虫が這うようなおぞましい違和感が走った。人形が逃げようとするところを、右腕でかかえてそれを防ぎ、自分の周囲の気配を、“左腕”を通じて直接人形に返した。術を返され、竹内サワが、悲鳴を上げる。
「こうして直接返せば、所長に反動が跳ね返ることはない。こっちだって、捨て身でやっているんだ」
(オ前ノソノちから、人間ノモノデハナイナ……)
サワが、愕然とした声を出す。ようやく、晃の力が普通の霊能力ではないことに気がついたらしい。それでも、何事か呪文を唱えて晃の右腕を弾き飛ばすと、再び空中に逃げ去った。
(コノ世ハ無常。ナラバ、何モカモナクナッテシマエバイイ)
「それは勝手な理屈だ。街に出てきたとき、“漂泊の民”の出の者が、どう思われているか、自分でわかって出てきたんじゃなかったのか。むろん差別は許されないことだ。だが、だからといって、人を怨み、社会を恨んで復讐に走るのは間違っている」
血濡れたように光る人形の髪が、静電気を帯びたよう横に広がる。唇に塗られた紅が、今にも血を滴らせるのではないかと思えるほどに赤い光沢を帯びてくる。
(……オ前ニ関ワルノジャナカッタ。オ前ノちからニ一瞬デモ惹カレタアタシガ愚カダッタ。マサカ、コンナ形デ邪魔サレヨウトハ……)
そのとき、急に人形の体が安定を失い、床に落ちかける。体を包む光も消えた。和海たちの手で、結城との呪術的な繋がりがはずされてきているのだ。
「もう、今のあなたには、人を呪い殺すほどの力はない。どうしても現実が受け容れられないのなら、僕が断ち切ってあげましょう」
晃は、音もなく人形の元に歩み寄ると、今にも床に落ちそうになっている体を右腕で抱き上げ、自分の目の高さまで持ち上げる。
そして、“霊気の左腕”を人形の顔を覆うようにかぶせた。
晃は深呼吸をして心を落ち着かせると、怖気が走る違和感をこらえて、サワの心を縛る呪術の感触を探り出す。彼女自身に掛かった、ひときわ太い“糸”が“左手の指”にかかる。晃は呼吸を整えると、その“糸”を一気に掻き切った。
声にならないサワの声が聞こえた。
人形から急速に生気が失われ、晃の腕に人形の重みが掛かるようになる。そして、人形から滲み出すように、白い人影が姿を現した。
(やっと、呪縛が解けましたね。竹内サワさん)
晃の呼びかけに、人影は着物姿に案外モダンな形に髪をまとめた若い女性になった。
(……呪縛。あたしが、呪縛……?)
(そう、呪縛されていたんです。自分が掛けた呪術に、自分自身が)
晃は、遼の力を分離して、本堂の床に降り立った。床板のきしむ音がした。
そして、“左手”でサワの手を取ると、そのまま再度庫裏へと導いていく。サワは戸惑ったが、晃はそんな彼女にこう言った。
(一度、今がどういう世界になったのか、じっくり自分の目で確認してみてください。そのための、依り代を務めてくれる人がいます)
サワは、困惑しながらもそれに従った。
庫裏では、懐中電灯の光が盛んに動いている。晃が、サワ自身に掛けられていた呪術を断ち切ったため、結城が正気に戻って三人で庫裏から出てきていたのだ。
晃はサワに、ここで待っているように言い、手探りをしているようにして進みながら、三人に声を掛けた。
「こっちは何とかなりました。そちらはどうですか」
「あ、晃くん、無事だったのね。所長も正気に戻ったわ。今行くから、そこを動かないでね。足元が危ないから」
程なくして、懐中電灯を手にした三人が、ゆっくりと歩み寄ってきた。もっとも、法引は相当に消耗したらしく、結城に半ば支えられている。
和海が先頭で、晃のところにやってきたが、晃の背後に佇む霊の姿に、ふと足を止めた。
「彼女が、“竹内サワ”さんです。実は、小田切さんに頼みがあるんですが」
晃の提案に、和海は一瞬眉をひそめた。あれだけ振り回された相手を憑依させるのは、やはり抵抗があったのだ。
しかし意外なことに、法引はそれに賛成をした。
「やはり、実際に見てみるのが一番でしょう。今はまだ、呪術の影響が抜け切れていませんが、実際に呪術に縛られていない体を通して確認すれば、この世の真の姿が見えるはずです」
法引にまでそういわれ、和海は不承不承にうなずいた。そして、目を閉じて呼吸を整え、心を無にしていく。それを見た竹内サワは、和海に近寄ると、その体に重なった。
そして、和海の中に入ったものが、目を開ける。
「行きましょう、“竹内サワ”さん」
和海の体が手にしていた懐中電灯に照らされた晃が、優しく微笑む。
「……こんなに整った顔の男がいるなんて……」
和海の口から、まったく別人の若い女性の声が漏れる。
「……まあ、とにかく車まで戻ろう。和尚さんも、この通りだいぶ消耗しているし」
結城が、申し訳なさそうに法引の顔を垣間見ながら、その体を支えつつ寺の山門方向へと歩き出した。
晃は、法引から懐中電灯を受け取ると、人形を取り落とさないように注意しながら、先頭に立って案内をする。一番最後に、和海に憑依したサワが続いた。
本堂を回りこみ、崩れた山門を乗り越えると、グレーのセダンが見えてきた。
車の前に集合したとき、サワが、困惑しているのに皆気がついた。彼女にとって自動車とは、当時アメリカから輸入されたT型フォードあたりになるはずだ。T型フォードしか知らないものが見たら、まるで訳がわからないものに見えるだろう。
困惑する彼女に向かって、言いづらそうにしながら結城がポケットのキーを出して欲しいといった。
「ポケットのどこかに、車のキー、鍵だな、それが入っているはずなんだ。出して欲しいんだが……」
サワは、明らかに戸惑っている。晃は仕方なしに、人形を法引に預けてコートのポケットをそっと探った。
「失礼します」
晃はコートのポケットに手を突っ込み、キーを摑み出す。