24.休息
その場の誰もが息を飲んだ。そこには法引と晃が立っていたが、二人とも顔色が青ざめ、特に晃は、法引に支えてもらってやっと立っている状態だ。
「晃くん! 和尚さん!」
和海が、弾かれたように二人に駆け寄った。釣られるように、千佳子も慌ててやってくる。そんな千佳子に、法引が言った。
「申し訳ありませんが、暖かくて、出来れば栄養が取れる飲み物か何か、ありませんでしょうか」
言われた千佳子は一瞬考え、葛湯が頭の中に浮かんだ。
「葛湯でいいですか」
「それで結構です。用意していただけますか」
「はい、今持って来ます」
千佳子が、廊下の先のキッチンに向かうのを見て、法引は和海に、部屋の蝋燭を片付けておいて欲しいと頼んだ。
「わたくしは、早見さんをリビングのソファーまで連れて行きますゆえ」
和海はうなずき、部屋の中に置きっぱなしになっている火の消えた蝋燭を、急いで片付け始める。
法引は、晃を支えてリビングへはいると、晃をソファーに座らせた。残っていた三人は、晃と法引の様子の変わりように言葉を失っていた。人間とは、あんなわずかな時間で、これほど顔色が変わるものなのか。法引も疲労の色が隠せなかったが、晃はすでに蒼白で、わずかに開いた目にも力がなく、背もたれに寄りかかったままぐったりとしている、
「あ、あの……」
恵理が、何か言葉をかけようとして、そのまま口ごもる。今の晃が、近寄るのをためらうような、凄絶な姿だったためだろう。ただ、この世のものとも思えない幽鬼のような有様でありながら、目も覚めるような美貌を保っている。
法引は、どうすればいいのかわからないでいる恵理に、晃の体に掛けるものを取ってきて欲しいと頼んだ。
「早見さんは、力を使いすぎてしまったのです。なんとしても、結城さんの行方を突き止めるためにと、無理をしたのですな。少し、休ませなければなりません」
「は、はい」
恵理が、あたふたとリビングを飛び出し、どこからか大判の膝掛けを持ってくる。裕史と浩史は、困惑したまま遠巻きに見ていることしか出来ない。
そこへ、大きめのマグカップに葛湯を入れたものを二つお盆にのせて、千佳子がリビングに戻ってきた。
「さあ、どうぞ。温かいうちに」
「ありがたくいただきます」
法引は、千佳子に向かって合掌すると、それを受け取り、うちひとつを晃の元に持っていく。そして、晃に声を掛けながらマグカップを口元に近づけると、晃自身が右手を伸ばして何とか受け取り、ゆっくり口をつける。
恵理が掛けてくれた大判の膝掛けを整え、法引はしばらく様子を見ていたが、どうやら取り落とさずに飲めそうだと判断し、晃の元を離れ、自分の分の葛湯に口をつけた。
恵理はというと、いまだに晃のすぐ傍で立ち尽くしていた。法引に言われて持ってきた膝掛けを、成り行きで晃の体に掛けたとき、その横顔を間近で見てしまい、魅入られたように茫然となってしまっているらしい。
程なくして、箱に入れた蝋燭を手にした和海が、リビングにいる千佳子に声を掛けた。
「あの、この蝋燭、どこにしまったらいいですか」
「あ、いいですよ、そこら辺に置いておいてもらえれば。あとで片付けますから」
そう言われ、和海は廊下の片隅の邪魔にならないところに蝋燭を入れた箱を置き、リビングに入った。
「晃くん、大丈夫? また、無理したのね」
そのとき、晃の様子を見ていた浩史が、突然指差した。
「あれ、あの人、左腕動かないよ」
途端に、千佳子や恵理、裕史が気まずい表情になった。
「これ、いきなり何言い出すの。黙っていなさい」
千佳子が叱りつけると、今まで黙っていた晃が、かすれた声で言った。
「……いいんですよ。僕は、交通事故で左腕を失くしたんです。だから、左腕は作り物。動かないのは、当然なんだよ……」
最後の一言を、浩史に向かって言うと、晃は青ざめた唇にわずかに笑みを浮かべた。
「もう、いつもいつも言わなくていいことばっかり。ほんとに、お前は余計なこというんだから……」
恵理が、本気で浩史に怒ると、晃は優しい声で言った。
「……しばらく見ていれば、誰でも気づくこと。僕は気にしてませんから、そんなに怒らないで」
恵理は下を向き、黙ってしまった。
なんとなく雰囲気がおかしくなったので、和海が本題に戻そうと、わかったことがあるかを法引に問いかける。
「ところで和尚さん、何かわかったんですか」
「ええ、わかりました。結城さんが、今居られるところがどこかが」
法引は、結城は今、ここから数十キロ離れたところにある寺に、人形とともにいると言った。その寺は、もう二十数年前から管理するものがいなくなり、今ではすっかり荒れ果てて、人形と結城しかいないという。
「早見さんから、およそのイメージを受け取りました。ただ、本当に詳しい場所は、早見さんでなければわからないでしょう。実際に接触したのは、早見さんですからな」
法引はそう言うと、葛湯をうまそうに飲み干した。
和海が晃のほうを見ると、晃もゆっくりとではあるが、葛湯を飲んでいる。もう少しで飲み終わりそうだった。
和海は、晃が飲み終えるのを待って、空になったマグカップを受け取り、横になって休むようにといった。
「今は、体を休めるのが先決よ。また逃げられたらって焦る気持ちはあるかも知れないけど、こんな真っ青な顔しているんじゃ、どうしようもないわ」
けれど晃は、意外なことを言った。
「……いいえ、相手は動きません。動きたくても……動けない理由があるんです。大丈夫、時間はあります……」
そこまで言うと、晃はまるで気を失うようにがくりと首を折り、眠りに落ちた。いや、本当に気を失ったのかもしれない。和海には、どちらとも区別がつかなかった。
とにかく、法引の力も借りて晃の体をソファーに横たえると、膝掛けを縦にして出来るだけ体を覆うようにし、和海は大きく息をついた。
法引は最後に、魔よけになる印を空中に書き結び、合掌して数珠を鳴らした。
「これで、しばらくはゆっくりと休めるでしょう。早見さんの回復を待たなければ、踏み込むのは無理ですからな」
それを聞いた和海は、出来れば晃にこれ以上無理をして欲しくないと言いだした。
「晃くんは、昨日から無理のし通しです。時間があるというなら、このままゆっくり休ませてあげて、場所だけ聞いて私たちだけで踏み込んでいいんじゃないでしょうか」
しかし法引は、それは出来ないと首を横に振る。
「早見さんの力が、必ず必要になります。わたくしとあなたの二人では、無理なのです」
「相手が、それほど強力だということですか?」
「それもありますが、それだけではない。早見さんしか持っていない力があるのです。そしてそれは、必ず必要になる力なのです」
法引の顔色も、決してよくはない。和海はそれ以上問い詰めるのはやめて、法引にも少し休んでもらうことにした。
ふと気がつくと、お昼をすっかり回っている。和海は慌てて結城の家の人たちに、何か食べるよう促した。
「もう、お昼を過ぎてます。何か召し上がったらいかがですか。わたしたちは、コンビニで何か買ってきますから」
和海が腰を浮かすと、千佳子が慌ててそれを引き止める。
「いえいえ、お雑煮でよかったら、今から作りますから、ご一緒にどうぞ。わざわざ買いに行く必要はありませんよ」
千佳子の言葉に甘え、和海と法引は結城家の雑煮をご馳走になることにした。
「あ、そういえば、お坊様は肉や魚はだめなんでしたっけね。お肉やかまぼこは入れないでおきますね」
「お気遣いいただき、ありがとうございます」
やがて、だしのいい香りとともに、法引と和海のお椀が運ばれてきた。それを見て、羨ましそうにする男の子二人に向かって、千佳子がたしなめる。
「わかってるでしょう。こういうものは、お客様が、一番先になるのよ。お前たちの分はすぐ作るから、もう少し待っていなさい」
出されたお椀は、和海のものと法引のものでは、汁の色からして少し違っていた。
聞けば、カツオだしもまずいだろうと、法引の分は昆布だしにして作ったという。法引は、その気遣いに再度頭を下げ、ありがたく雑煮をいただいた。
それから子供たちは、キッチンに繋がるダイニングのほうで、千佳子とともに雑煮を食べた。それはまた、内々で話すこともあるだろうという、もうひとつの気遣いでもあった。
リビングにいるのが仲間内だけになって、和海は再度口を開いた。
「和尚さん、さっきの話の続きですけど、どうしても必要な晃くんの力って、なんなのですか? 確かに晃くんは、わたしから見ても、“気”の回復力が超人的って思うくらい早いです。でも、昨日から無理のし通しで、かなり厳しい状態なのは、和尚さんもおわかりのはずです。今だって倒れて、眠っているのか気を失っているのか、わからない状態なんですよ。晃くんの、何の力が必要なんですか?」
「……それは、今はまだ言えません。いつか、わかるときが来ると考えておりますが、今言うことは出来ません」
「和尚さん」
とがめるような口調の和海に、法引は微笑んだ。
「ひとつだけ申し上げておきましょう。早見さんの力、あなた方が見ているのは、そのほんの一部に過ぎないのです。ただ、これ以上のことは、本当に申し上げられません。いつかその日が来るのを、お待ちくださいとしか……」
ここまで言われては、和海もこれ以上の追求は出来なかった。そこで話題を変え、晃が何故『相手は動きたくても動けない。時間はある』といったのか尋ねてみた。
「それは、そこを離れて身を隠しても、無駄だからです」
法引は、晃からイメージで受け取ったという、こういう話をしてくれた。
その寺は、今でこそ荒れ果ているものの、かつては数人の尼僧が守る尼寺で、人形はかつてそこに安置され、供養されていたという。
「そして、その寺には、人形に心を封じた竹内サワの墓もあるのです。人形にまつわる因縁も、人形に心を封じた女性の因縁も、その寺にある。これでは、動いたところで無駄でしょう。相手もそれはわかっている。だから、居場所を突き止められたとしても、動きたくても動けないというわけです」
「……なるほど」
二人が雑煮を食べ終わり、一息ついたところで千佳子が顔を出した。
「今、お椀を下げますから」
「あ、いいえ、そのくらい、こちらでやりますから」
和海は素早く法引のお椀と自分の分を重ね、立ち上がる。千佳子は、お客さんにそのようなことをさせてはと慌てたが、和海はそれを持ってダイニングへとはいった。
裕史と浩史は、まだ足りないからとばかり、オーブントースターで追加の餅を焼いていた。けれども恵理は、ろくに中身の減っていない冷めかけたお椀を前に、溜め息をついている。
和海はすぐに、恵理の状態を理解した。ちょうど年頃だし、晃の美しさと優しさに舞い上がってしまったに違いない。
自分も、もし出会ったのが学生時代だったら、今よりはるかに取り乱していただろう。
最大の問題は、晃本人が、自他共に認める奥手だということだろうか。
あんな美形なのにと思うが、それゆえにクラスメイトから浮き上がってしまった経験があると、晃自身が言っていた。
とにかく、食べ終わったお椀や箸を流しまで持っていくと、今度こそ千佳子が、自分がやるからとそれを和海から半ばひったくるように受け取り、流しの洗い桶の中に入れた。
それを見た和海は、内心苦笑しながらリビングに戻ると、まず晃の様子を確認した。
顔色は悪いが、呼吸は静かで落ち着いている。“糸”が絡んでいる様子もない。和海はやっと安堵し、法引に向き直った。そのとき、法引が微笑しながらこう言った。
「小田切さん、あなた、早見さんのことを、憎からず思っておるようですな」
「お、和尚さん。そんなんじゃないんですよ」
和海は慌てて否定したが、法引は微笑んだまま何も言わなかった。