23.秘儀
そのとき、晃は思い出した。妙昌寺で識域下に降りて接触したとき、竹内サワが、超常の力を宿した自分に気づかず、消耗したときに接触したときと同じ態度でいたことを。
あの“娘”は、呪術は使えても霊能力は持っていないのかもしれない。ならば、それを最大限利用するしかない。
「僕は、もう一度識域下での接触を試してみようと思います。なんとしてでも、目的はともかく潜んでいる場所がどこか、確かめなければ」
真顔で告げる晃に、和海は顔色を変えてそれを止めた。
「ちょっと待って。危険すぎるわ。妙昌寺の本堂で、倒れたことを忘れたの。しかも今度は、所長が媒体になっている可能性があるんでしょう。梨枝子さんのときより、強力になっているかもしれないんでしょう。今度こそ、戻ってこられなくなったら、どうするつもりなのよ」
「どんなことをしてでも、戻ってきますよ。一度行ったことがある場所なら、次にはそんなに力を使わなくても行けますからね」
「でも……」
なおも晃を止めようとする和海に、冷静に法引が言った。
「では、どうするというのですか。危険があるということは、わたくしも承知しております。ですが、早く対処しなければ、結城さんの身に危険が及ぶ可能性があるのです。他に手段がないのなら、危険を冒してでも試みるしかないのです」
そして、自分が“気”を分けて補佐し、晃を引き戻そうと法引は約束した。ここまで言われては、和海も承知せざるを得なくなる。
法引は、千佳子に頼んで家中の蝋燭を集めてもらった。
結城夫妻は、ともに両親が健在で自宅に仏壇がないので、集まったのはクリスマスキャンドルの残りとか、アロマキャンドルなど、儀式にはあまり似つかわしくない派手なものばかり。その数、十数本。法引は苦笑しながら、晃と和海に指示を出し、菓子の空き箱に入れられていた蝋燭を取り出し、部屋の中央部に、内側の直径が二メートルほどの二重の円の形になるように並べた。
「本当は、もっと多くの蝋燭で、きちんと円に見えるように並べるのですが、この際贅沢は言えませんからな」
法引は、晃を促してその円の中に二人で入り、その後すべての蝋燭に火をつける。そして、晃が結跏趺坐でそこに座り、その正面に向かい合わせに法引が正座する。
「申し訳ありませんが、小田切さん、この場はわたくしども二人きりにしていただきたい。何かあれば呼びますゆえ、リビングのほうでお待ちいただけますかな」
法引にそういわれれば、席をはずすしかない。和海は仕方なく和室を出て戸を閉め、リビングへ戻った。
リビングでは、千佳子と子供たち三人が、ひとりでこちらに戻ってきた和海に怪訝な表情になる。
「あの、他の二人は、どうなさったんですか」
「寝室で、儀式をするそうです。二人だけにして欲しいということだったので、こちらに戻ってきました」
和海の言葉に、下の男の子二人は好奇心丸出しで互いに顔を見合わせた。
「儀式だってさ。何やってるんだろう」
弟の浩史が、明らかに面白がっているとわかる口調で、兄の裕史に話しかける。
「さあ。ねえ、何やってるんですか」
裕史が、和海に問いかける。和海は、苦笑に近い笑みを浮かべながら、首を横に振った。
「わたしもわからないの。そこにいてはいけないって、和尚さんから言われてしまったから」
それを聞き、千佳子が不思議そうな顔をする。
「そんなことがあるんですか。普通儀式って、皆でするみたいなイメージがあるんですが。あなたは、参加しないんですか。お仲間でしょう?」
「わたしとあの二人では、能力が違いすぎるんですよ。何かやるにしても、わたしじゃ足手まといになりかねないので」
和海が苦笑する。
そのとき、今まで黙っていた恵理が、ぽつりと言った。
「……あの、早見晃さんって言いましたっけ。あの人、本当に父の事務所でアルバイトしているんですか?」
「ええ。もっとも、超常事件の依頼があったときだけの、臨時バイトみたいな形なんですけど。もちろん、所長であるあなたのお父さんとも、間違いなく顔見知りですよ。だから、心配してここに来たんですから」
和海はここで、そういえば以前結城が晃の写真を娘の恵理に見せ、かえって娘との仲がこじれた状態になったと言っていたのを思い出した。あれからしばらく経っているが、晃が結城の家を訪れた形跡はない。微妙なまま、ずっと続いていたのだろう。
「……そう、なんですか。大学生って、聞きましたけど」
「大学生ですよ。今年成人式ですから」
ここで、裕史が横から口を挟んだ。
「でも姉ちゃん、あの人、いつかパパが、写真持ってきて見せてくれた人だよね。ほんとにいたんじゃん。姉ちゃん、“あんなの嘘だ。あんな人、パパの知り合いにいるわけない”ってぷんぷん怒ってたけど」
恵理が、裕史を睨んだ。千佳子がそれをなだめにかかる。
そのとき、和海は廊下の向こうの和室から、近寄りがたいような“気”の圧力のようなものを感じた。
妙昌寺で儀式を行ったときは、本堂が広かったせいか特に何も感じなかったが、今は“気”の力に威圧されるような気さえする。こっちに戻ってきてから一分ほどしか経っていないのに、向こうではまるで別な時間が流れているような気さえした。
薄い引き戸一枚の向こうは、一体どうなっているのか。中を見てみたい衝動に駆られた和海だが、理性でそれを押さえ込んだ。
法引が人払いをしたのには、それなりの理由があるはずだ。何らかの禁忌があるのかもしれない。今ここで覗いてしまったら、その禁忌を破ることになりはしないか。もし禁を破ったことで災いが起きたなら、取り返しがつかない。
「ねえ、隣の部屋、なんだか怖い感じがするよ」
隣から、引き戸を通して漏れてくる圧倒的な気配に気づいたか、浩史が隣を気にし始める。聞けば、霊能者の結城を除いて、一番霊感があるのが浩史だという。
「さっき言ったでしょう。今、大事な儀式をしているの。あなた方のお父さんが、ちゃんとこの家に戻ってこられるようにするためにね」
ふうんと言って、浩史はうなずいたが、まだ何がどうなっているのか、納得出来ていないようだ。
「……父が、戻ってこないかも知れないというんですか」
恵理が、不安とも困惑とも取れる表情で、和海に問いかけてくる。
「きっと戻ります。いや、わたしたちが連れ戻してきます。あなた方のお父さんは、今かなりきわどい状況に陥っているようなんです」
和海は、信じる信じないはあなたの自由だが、と前置きして、恵理に今までの経緯を説明し、結城が人形に魅入られ、操られている可能性が高いことを告げた。
話を聞き終わったあと、恵理は押し黙ったまま和室の引き戸を見た。千佳子も、半信半疑な様子ながら、やはり和室のほうを見る。
「やっぱり、あの部屋怖いよ。どんどん怖い感じが強くなってるよ」
浩史がそう言って、裕史にしがみつく。裕史も、部屋の気配が気になるのだろう、どこか顔を引き攣らせながら、引き戸のほうを見つめている。
和海もまた、壁を貫いてくるのではないかと思うほどになった“気”にほとんど気圧されながら、それでも和室のほうも見ていた。
不意に、和海は違和感を覚えた。その“気”の中に、明らかに生きているものではない、死霊のものと感じられる“気”が混ざっている。咄嗟に、悪いものではない、と直感出来た。しかし、それが何者なのか、何故混ざっているのか、どういう意味があるのか、和海にはわからなかった。
気配を感じられるものにとって、引き戸の向こうは異界そのものだった。決して、人が立ち入ることが許されないようにさえ感じられる。
“気”に気圧されるように張り詰めた空気の中、リビングにいるものが、誰も言葉を発することなく、わずか二、三メートル先の和室の引き戸を見つめ続けた。かなりの時間に感じたが、実際はほんの数分だったろう。
すると突然、その気配が消え去った。
あまりに突然の変化に、それを感じていたものが皆戸惑っていると、一分と経たないうちに引き戸が開いた。