22.結城の失踪
住宅地に入ってまもなく見えてきた結城の家は、他より背が高い三階建ての家で、一階部分が店舗、二階以上が住宅になっていた。 結城はいつも事務所に通勤してくるので、一階店舗は奥さんの店か、誰かに貸しているのだろう。
一階は、『ハーブ・アロマの店 ラベンダー畑』という看板が掲げられ、閉じられたシャッターにも同じものが書かれている。
店舗の脇に階段がつけられていて、そこから住宅部分に上っていくらしい。
和海は周囲を見回し、車が止められそうなところがないのを確認して、仕方なしに結城の家の前に、階段を避けるようにして車を止めた。
「これ、いつもの軽と違ってちょっと大きいから、こういう止め方は気兼ねするんだけど、仕方ないわね」
エンジンを切りながら、和海は独り言のように言った。
「大丈夫でしょう。普通の車は通れるだけの幅は、空いてますから」
ドアを開けながら、晃が応える。
三人は車から降りると、店舗脇の階段を上っていき、和海がインターホンを鳴らした。
一呼吸ほどの間をおいて、電話の声と同じ女性の声で、“どちらさまですか”と言う問いかけが聞こえた。和海がすかさず返事をする。
「先程電話をいただきました、秘書の小田切和海です。他に、アルバイト所員の早見晃と、所長とわたしの共通の知人である西崎法引和尚が一緒です」
程なくしてドアが開き、緩やかなパーマを掛けた中年女性が顔を出した。
「皆さん、わざわざいらしてくださって、ありがとうございます。寒いですから、どうぞ中へ」
彼女が結城の妻千佳子で、濃い栗色に髪を染め、モスグリーンのセーターにベージュのスカートをはき、首には細い金のチョーカーネックレスをつけている。心の動揺があるためか、どこか落ち着かない様子なのだが、客あしらいに慣れているような感じが伺えるので、一階の店舗はやはり、千佳子が切り盛りしているのだろう。
千佳子に案内され、三人はひとまずリビングに入った。
絨毯と、テーブル付きのソファーセット、テレビが置かれたその部屋には、結城の三人の子供たちがいた。
千佳子が、子供たちを三人に紹介する。長女で中学生の恵理、長男で小学校高学年の裕史、次男で小学校低学年の浩史だ。子供たちは、見慣れぬ三人のほうを、不安と好奇心の入り混じった眼差しで見つめている。
その子供たちに向かって、和海から順に自己紹介をし、千佳子に勧められるまま、ソファーに三人で座った。和海を真ん中に、左右に晃と法引が腰掛ける。
そのとき晃は、長女の恵理が、先程から自分のほうをじっと見ていることに気がついた。いや、じっと見ているというよりは、我知らずに、見とれているといったほうがいいだろう。
こういう視線を投げかけられることは、街を歩いていてもよくあることではあるので、晃は恵理に向かって軽く会釈すると、恵理は一瞬頬を赤らめ、すぐさま視線をはずした。
自分がじっと見ていたことを気づかれて、恥ずかしくなったらしい。
晃は、悪気なさそうな彼女の態度にかすかに微笑んで、視線を千佳子に戻した。ちょうど、急須と湯飲みをお盆に載せて、キッチンからこちらにやってくるところだった。
千佳子は三人にお茶を入れながら、和海に問われるままに、昨夜帰宅してから、いなくなったことに気づくまでの間のことを話した。
昨夜帰宅したとき、とくに変わったことは感じなかったと千佳子は言う。
「確かに、警察署で事情を聞かれたとは言っていましたが、苦笑していたくらいで、特にそれを気にしている様子はありませんでした。軽い肴とともに晩酌をして、夫婦の寝室に自分で布団を敷き、入ったのが午前一時より少し前だったでしょうか。私も、後片付けが終わったのが二十分後くらいでしたから、その隣に布団を敷いて、さっさと寝てしまいました」
それから、千佳子がふと午前五時に目が覚めてしまったときには、結城は小さないびきをかいて寝ていたのを、覚えているという。
そして二度寝をし、次に目が覚めたのは午前七時半。そのときには、すでに布団は空になり、枕元にはパジャマが脱ぎ散らかされ、 近くのタンスの引き出しが開けられて、服を引っ張り出した形跡があった。なくなっていたのは、休みの日にはよく着ているスウェットの上下と、近所へのちょっとした買い物などのときに着ていくジャンパーなど。
何だ、だらしがない。まだ酔っ払っているのかと、千佳子はそれを整頓し、顔を洗ったり髪を梳かしたり着替えたりといった自分の身繕いをしてから、台所に立って朝食の用意をしていた。
しかし、いつまで経っても戻ってこない。最初は散歩にでも行ったのかと思っていたのだが、考えてみると結城には、朝食も食べずに散歩に行く習慣はないし、第一、結城はパジャマを脱ぎ散らかして平気なほど、だらしない性格ではなかった。
考えれば考えるほど、こんな朝早くから出かける理由がない。それに、何らかの理由で早く家を出るときには、その旨を書き置いたメモを残していくような人だった。
「そもそも、財布も置きっぱなしなんですよ。仮に散歩に出かけたとしても、財布も持たずに出て行くのは不自然だし、それで、まずは普段主人がよく連絡を取っているはずのそちらに問い合わせをしたんですが」
そして、電話をしたあとで、近所の人から結城の姿を偶然見かけた、という話があった。
まだ表は暗い午前五時四十分頃、スウェットの上下にジャンパーを羽織った結城が、いやに早足で表通りのほうへと歩いていったという。例えていうなら何かに取り憑かれたようで、とても散歩という雰囲気ではなかった、一種異様な感じがした、とは目撃した近所の人の話だ。
「それで、どうしようか、そのうち帰って来るんじゃないかと、今もいろいろと迷って、落ち着かないんです」
千佳子はそういうと、溜め息をついた。
「わかりました。では、結城さんとあなたの部屋は、どちらでしょうかな」
法引の問いかけに、千佳子はリビングの、廊下を挟んだ向かいの部屋だといった。
「念のため、確認させてくださいますかな」
千佳子がうなずくと、法引は立ち上がる。それを見て、晃も和海も立ち上がった。
リビングを出て廊下に出たところで、和海は法引に尋ねる。
「ところで和尚さん、和尚さんは〈過去透視〉が出来るんですか?」
「そのときによります。わたくしは、その方面の専門家ではないので、結城さんほどはっきりとは見えません。ですが、何もしないより、出来うる限りのことをしたほうが、いいに決まっておりますからな」
「そうですね」
法引を先頭に、引き戸を開けて夫婦の寝室になっている和室の中に、三人は入った。
特にこれといっておかしな気配は感じない、六畳ほどの部屋だった。曲がりなりにも霊能力を持つ結城が寝室に使っていた部屋、そういう気配があれば、普通は何らかの対処をするだろう。
千佳子に聞いて、いつも結城が布団を敷いていたあたりに正座すると、法引は数珠を鳴らし、ゆっくりと目を閉じて、読経を始めた。晃もまた法引の傍らに座ると、法引の読経に呼応するかのように目を閉じて深呼吸をし、精神集中をする。
和海の目には、二人の発する“気”が互いに互いを包み込む渦となり、双方の力を合わせて場の気配から過去を探ろうとしているのが“視え”た。
法引の読経の声が一層大きくなり、二人の意識が識域下に降りていくのが感じられ、和海は緊張した。二人が無事に“戻って”来るまで、気が抜けない。実際に“降りて”いた時間は、ほんの一分ほどだったろうが、和海にとってはかなり長いものに感じる。やがて、二人の意識が識域下から戻り、同時に目を開けた。
「……“糸”が“視え”ました。どこから伸びているのかまではわからない、髪の毛のような“糸”が。結城さんは、それに引っ張られていったのでしょう」
法引が、そういったあとに溜め息をつく。
続いて晃が、目を伏せながらいった。
「あの人形、やっぱり、夢の中で僕に心を覗かれそうになって逃げ、直後に所長に接触したんでしょうね。こんなことになるのなら、あのときもっとしっかり“竹内サワ”に接触しておくんだった。後悔しています」
それを聞いた和海が、戸惑いながらも慰めるように言葉をかける。
「そんなこと言っても、相手が、奥を探ろうとする晃くんの意識を振り切って逃げたんでしょう。仕方がないわよ」
「いえ、違うんです」
晃が首を横に振る。
「……僕が、相手の心情に同情して、心の奥底を覗くのをためらった。隙を作ってしまったんです。その隙を突かれて、逃げられた。あのとき、もっとちゃんと接触していれば、相手が何のためにこんな事件を引き起こしたのか、わかったはずなのに。だから、僕のせいなんです……」
晃は唇を噛む。
「それは、あなたの優しさです。情け深さです。相手が、あなたの情けを情けと思うことが出来ない可哀想な“人”だっただけのことです。いいですか、あなたが気に病むことではないのですよ」
法引も慰めの言葉をかけるが、晃の表情は沈んでいた。
(……あのとき、やっぱりちゃんと最後まで接触すればよかった。そうすれば、竹内サワが何を考え、何を思ってこんなことをし、どこに潜んでいるのかも、読むことが出来たはずなのに……)
(過ぎたことは仕方がない。大事なのは、これからどうするかだ。もう一度、接触してみるか。今度は、今朝方の夢のようなわけにはいかんだろうけどな。その覚悟は出来ているか、晃)
(ああ。所長が、新たな媒体になっている可能性が高いからね。梨枝子さんと違って、所長は霊能者だ。その力を使えば、梨枝子さんのときとは比べ物にならない呪力が引き出せるはず。そうなったら、“本気”にならなければまず太刀打ち出来ないだろうね)
(それが厄介だがな……)