19.再度の接触
晃が自宅に帰りついたのは、夜十時近いころだった。
梨枝子が発見された状況の不審さから、警察で事情聴取された四人は、法引が寺の住職、結城が元警察官、晃が本庁の現役警部の息子ということで、身元の確かさからそんなにややこしいことにならずに済んだ。
警察に行く前に間宮の家と連絡がつき、自分たちが捜索を依頼していたのだと証言してもらったことも、警察が納得してくれた理由のひとつでもある。だが、たっぷり数時間聴取され、帰るのがすっかり遅くなってしまった。
唯一の救いは、家族が梨枝子の収容された病院に駆けつけたあと、頼子の声で『梨枝子が助かった』と聞けたことだろうか。
疲労困憊し過ぎて食欲もなく、母の智子の小言もまったく耳に入らず、二階の自分の部屋へ、這うようにして階段を上ると、着替えもそこそこにロフト型ベッドによじ登り、倒れこんだ。シャワーを浴びる気力さえなかった。
眠ろうとしたとき、ふと、笙子のマンションで見た悪夢が脳裏をよぎる。
しかし、あのとき他の人には言う暇がなかったが、梨枝子は人形の呪術の媒体のような存在だったということを、晃は思い出した。 そして、術返しの反動が自分に来ないよう細工までしていた。
その媒体となっていた梨枝子がいなくなった今、接触することぐらいは出来ても、あれほどの力は使えないはずだと思い直したのだ。
ただ、不安材料は、人形そのものが、どこにいるかわかっていないということだ。今もどこかで、何とか誰かに“糸”を繋ごうとしていることは、間違いなかった。
もういい、寝よう。そうしないと、いくらなんでも持たない。
気を抜いた瞬間、晃はそのまま眠りに落ちた。
どれほど眠ったか、ふと、何かが見えてきた。それが何かがわかった途端、これは夢だと直感すると同時に、夢の中であるはずなのに、全身に緊張が走る。
(あの、荒れ寺じゃないか!)
(晃、気をつけろ。夢の中で接触してきたんだからな、今まで)
遼の声が聞こえる。
(おかしいね。僕の夢なのに、遼さんの意識まで関わってくるなんて)
(晃、ここは夢であって夢じゃない。お前はまだ、完全に“糸”が切れていなかったんだ。最初に見たとき、拒絶の意思が強すぎてぼやけたが、あのときほんのわずかだが、絡まったやつがあったんだ。俺も、今更ながら気がついたんだが。それで、お前とあの人形とのや間に、わずかな縁が残っちまったのさ。だから今は、ただの夢じゃなくて、識域下に降りたときと近い状態なんだ。もちろん、俺がフォローする。人形には絶対に操らせない。だが、充分注意していけ)
(わかった)
晃は、これで三度目となる荒れ寺の風景の中に立った。おそらくここは、あの人形の心象風景なのだろう。ならば、出来る限り相手の心の奥を覗いてやるまでだ。もしかしたら、何かわかるかもしれない。
晃が腹をくくったとき、あの体の内側がざらつくような違和感が全身を走る。この感じ方、近い。
朽ちかけた床の上を、音もさせずに歩く晃は、不意に気配を感じ、そちらのほうを向き直った。
そこには人形がいた。しかし、大きさは本来の大きさになっている。力の媒体となる存在を失って、本来の力に戻ったのだろう。それでも、ここに晃を呼び寄せたのだから、それはもはや執念といったほうがいいようなものかもしれない。
黒髪が揺らめき、動かぬ唇から、声が紡ぎ出される。
「ちからヲヨコセ」
以前より迫力はないが、かえって粘りつくような何かを感じさせる。
「お前に力を与えるわけにはいかない。そもそも、お前が何者なのか、まだ聞いていない。何故、そんなに力を欲しがるのか、聞いていない」
「話ス必要ハナイ。ちからヲヨコセ」
表情の変わらない人形が、ゆっくりと晃のほうに歩み寄ってくる。最初に、梨枝子の腕の中で威圧感を放っていたときと同じような雰囲気だ。晃は身構えた。
近づいてくるにつれ、さすがに梨枝子がいない現状が目に映ってくる。鴉の濡れ羽色の髪は、夢で見たときより艶やかさが失われていた。生きているようだった瞳も、ガラス玉にしか見えない。
「お前が、ただの人形の付喪神でないことは、わかっている。お前の心は、僕がかつて出会った器物霊とはまったく違っていた。お前の心は、人間のそれだ。人形の体に、人間の心が封じられている。何故、そんなことになったんだ? 何が目的で、誰が何のためにこんなことをした? お前自身、何のためにこんなことをしているんだ?」
晃が畳み掛けても、人形は答えない。
(晃、やつに話し合いは通じない。俺が支えているから、思い切ってもう一度接触しろ。今なら、お前のほうが“力”が強い。突破出来る)
遼の励ましに、晃は一気に距離を詰め、直前でかがみこむと、その“霊気の左腕”を人形の胸に突き入れた。
入れているのは“左腕”だけなのに、全身に痛痒いような感覚が走る。互いの持つ力が違いすぎるが故の、拒絶反応だ。だが晃は、それをこらえて人形の心に接触を試みる。
人形は後ずさりして逃げようとしたが、晃は右腕で人形を抱え、それを封じた。
まず“喜美子”という名前が、脳裏をよぎった。それは、この人形につけられた名前。そしてもうひとつ、名前が浮かぶ。それは“竹内サワ”といい、人形に封じられている女性の名前。彼女は死ぬ直前に、呪術によって自分の心を自分で人形に封じた。言葉を変えると、命と引き換えの呪術で人形に心を移し、逆に“寿命”を乗り越えた。
人形の中の竹内サワが、晃との接触を激しく拒絶する。だが晃は、識域下に降りたとき、垣間見えたことを告げた。
「お前は誰かに思いを寄せた。けれど受け入れてもらえなかった。そして、怨みを募らせた。その怨みを晴らすために、呪術を使った。違うかな?」
竹内サワが動揺する。その隙を突く形で、晃は一気に接触を図った。
(本当なら、こんな形で心を覗きたくはなかった。きちんと話してくれれば、強引に接触することもなかったのに)
(何故。何故、放っておいてくれないの。あたしの思うとおりにさせてくれないの)
(それは、赤の他人を巻き込んだからだ。無関係の人を勝手に巻き込んでおいて、そんな自分勝手な言い分が通るはずないだろう)
(お前に、あたしの気持ちなどわかるものか! あたしの気持ちなど……)
そのとき晃は、自らの出生ゆえに差別され続けてきた彼女の一族の哀しみに行き当たり、言葉を失った。
近代になるまで戸籍すら持たず、山河を漂泊したといわれるものたちだった。晃自身には、その知識はほとんどない。かつてそういう民がいたと、教科書の片隅に載っていた文章で知るのみだ。
しかしここに、その民の血を引くが故に、こういう歪んだ形でしか自分の想いを遂げる手段がなかった娘がいる。その事実の重さに、晃の心も重くなった。
竹内サワは、出自を隠して都会に出たものの、結局馴染めず夢破れ、さらには命を掛けた恋にさえ、その出自のために叶わなかった。彼女が狂気に飲まれたとしても、おかしくはないだろう。
今度は、晃の心にためらいが起こった。その直後、一瞬にしてすべてが暗転した。接触を断って、一気に離れたのだ。
(……逃げられた。お前最後に同情して、接触し続けるの、ためらっただろう)
(ああ、ためらった。プライバシーに踏み込むことだしね。あれ以上踏み込んだら、識域下で接触したときに垣間見た、おどろおどろしいまでのどす黒い情念を覗いてしまうことになっていたと思う。それが、どうしても嫌だったし……)
(まあ、俺もあんまり覗きたくない類いの感情ではあったけどな。仕方ないか……)
遼が苦笑している。晃もまた、苦笑しながら力を抜いた。そしてふと気づくと、ベッドに横たわっている自分に気がつく。
起き上がって時計を確認すると、七時近い時間だ。いっそ朝のシャワーでも浴びようかと、晃は一伸びしたあとベッドから降りて下着を用意し、一階の浴室へ向かうため、階段を下りたところで、晃は後ろから父正男に声を掛けられた。
「晃、お前昨夜、警察署で事情を聞かれたそうだな」
振り返ると、ワイシャツにカーディガンを羽織った姿の正男がいた。下は警察官の制服のズボンだ。晃は面倒くさそうに、ぶっきらぼうに答える。
「ただの第一発見者だよ。父さんだって、第一発見者には、時間を掛けて事情を聞くでしょ。ただそれだけ。担当者に直接問い合わせてもいいよ、何なら」
晃はそれだけいうと、さっさと浴室に向かう。
一通りさっぱりして廊下に出ると、すでに正男の姿はなかった。