17.火急
晃の全身に、皮下に無数の虫が這っているかのような感覚が走る。互いの持つ力が異質すぎて、いわば拒絶反応が起こっていた。人形もまた、拒絶せざるを得ない力が自分の中に重なり、叫び声をあげる。
だが晃は、死力を尽くして相手の“心”に接触を試みる。
互いに苦しい状態であることが、頑なに拒絶する“心”に隙を与えた。ほんの一瞬だったが、“想い”が“視え”た。
垣間見えたそれは、見通せないほどどす黒く折り重なった情念。狂おしいほどの、誰かへの思慕。それを拒絶された悲しみ、怒り、憤り、そして怨み……
さらに、晃は“視た”。梨枝子が、闇に包まれて眠るように横たわっている姿を。あれはどこだ。彼女はどこにいる。
突然、人形が晃を引き剥がしにかかった。呪文を唱える声が聞こえる。呪術の力が晃を捉え、どこかへ弾き飛ばそうとする。
梨枝子の居場所を確認するまでは、弾き出されるわけに行かない。
晃は力を振り絞り、最後の接触を試みた。梨枝子のいる場所、それは……
“視えた”と思った刹那、晃は光さえもない虚無の彼方まで飛ばされていた。力を使いすぎて、思うように動けない。
早く戻らなければと思うが、もがけばもがくほど力が抜けていく。
そのとき、法引の読経の声がはっきりと聞こえてきた。まるで、こちらへ来いとでも言うかのように。晃は、懸命に読経の声のするほうへと進んだ。
ふと見ると、法引の姿が見える。
「よく頑張りました。さあ、わたくしが導きましょう。一緒に戻りましょう」
法引が差し出してくれた手を、晃は握り締めた。力強く引っ張ってくれるのを感じ、晃はやっと安堵の気持ちが広がる。
「まだ気を抜いてはいけません。まだ、戻ってはいませんからな」
法引の言葉にうなずき、晃は改めて気を引き締めた。
二人は一瞬にして虚無の空間を抜け、薄暮の中の色とりどりの世界を通り、遂に現実の世界に復帰した。戻ってみれば、それはあっという間だった。
現実に戻った途端、晃は、遼の力を分離したら、立っていることも出来ないほど消耗している自分に気がついた。だが、そうしなければ、控えの間で待っている二人との対面は出来ない。いつの間にか、目の前に読経を続ける法引の姿が見えた。
晃は、自分の体の状態の悪さを必死にこらえながら、法引に、梨枝子の居場所を暗示する光景を告げた。
「和尚さん、梨枝子さんは、どこかお堂の中に眠っています。早く、見つけてあげないと、危険だと思います……」
晃が、お堂の特徴を告げると、法引はうなずき、ゆっくりと読経を終えた。いつの間にか、護摩壇の火もすっかり弱くなっている。
晃は結跏趺坐を解き、遼の力を分離した。途端に、脱力感が襲って思わず本堂の床に倒れこんだ。
法引は二人を呼ぶと、再び、倒れこんでいる晃に気を与えるための儀式を直ちに開始する。
一方、呼ばれた二人は、倒れている晃の姿に、血相変えて駆け寄ってきた。
「これは一体、どういうことですか!」
「秘術で護ってくださるはずじゃなかったんですか!」
法引は真顔になって、二人をなだめる。
「落ち着いてください。いくら術をかけるとはいっても、本当に接触するのは早見さんです。時に、予想外のことが起こります。今回、相手と接触したあと、虚無の彼方まで飛ばされてしまったのです。それを何とかわたくしが術で見つけ出し、引き戻して差し上げたのですが、やはり消耗が激しく、こういうことに……」
法引は、読経を始め、横たわっている晃の額に手を置き、念を凝らし始める。そこで法引は気がついた。晃は消耗のし過ぎで動けなくなってはいるが、意識までなくなっているわけではない。周囲の物音は聞こえていると。
法引は、晃の心が接触してくるのを感じた。
(和尚さん、あなたが“気”を分けるこの力、ご自身の気力を分けるわけではなくて、別の何かから分け与えられた力を注いでいるんですね)
(その通り。私は、御仏の御力にすがっているに過ぎないのです。あなたは、時に御自分の身を削ろうとも、誰かのために尽くそうとしていらっしゃる。尊い。まことに尊い)
(いいえ、それは僕を買いかぶりすぎです。僕は、自分の力を持て余すただの迷い子なんですよ。それより、一刻も早く梨枝子さんを探し出さないと……)
(その体では、満足に動けないでしょう。焦りは禁物です)
(和尚さん……)
法引の言う“御仏の力”が、自分の中に流れ込んでくるのを感じ、晃は次第に体が暖まってきたと思った。少しずつ、体に力が入るようになる。
晃は重いまぶたを開け、自分を覗き込んでいる結城や和海を見上げた。
「晃くん、気がついたのね。よかった」
和海の声は、安堵感に満ちている。
晃は何とか上体を起こすと、自分が“視た”梨枝子のいる場所のイメージを、改めて二人に伝えた。そして、彼女の身に危機的状況が迫っていることも直感したのだ、と真顔で告げた。
「人形がどういう形で呪術を使っているか、なんとなくわかったんです」
晃が感じたもの、それはとんでもないことだった。
あの人形は、本当の意味での付喪神ではなく、人形の体に人間の心が封じられているらしいというのだ。憑依ではないという。
だが、そんなことは、今は瑣末なことだと晃は言った。
「最大の問題は、さっき所長や僕に掛けられた呪術を返しましたよね。それがどうやら、人形ではなく梨枝子さんに反動が行く構造になっているようなんです」
その場にいた全員の顔色が変わった。
「これは、ゆっくりあなたを回復させている場合ではありませんでしたな」
さすがに、法引の顔にも焦りの色が浮かぶ。
晃を含めた全員が立ち上がると、法引は護摩壇の火を完全に消し、ロールスクリーンを上げた。結城は晃を気遣いながらゆっくりと出入り口まで誘導、和海は控えの間のストーブを消し、皆の靴を整えた。
まず結城たちが、本堂入り口のコンクリートのたたきに出、それを追いかけるように法引も本堂を出る。
出入り口の扉を開けると、外には怪訝そうな顔をして立っている、夫婦らしい初老の男女がいた。近所の檀家が新年の挨拶に来たらしいのだが、法引は、事情で出かけるので、二人でゆっくりと拝んでくれるようにと言い、事情がわからないで途方に暮れている二人を残して、そのまま皆で下に下りていく。
「あの二人には申し訳ないですが、事情が事情ですからな」
駐車場へと向かいながら、法引がつぶやく。
「今回ばかりは、どうしようもない。和尚さん、我々の車に同乗しますか。それともスクーターで行きますか」
結城に問いかけられた法引は、万一に備えて、自分はスクーターであとからついていくと答えた。
「その、間宮梨枝子さんという方を、車で運ぶ事態があるやも知れません。そのためには、座席を空けておかないといけませんからな」
あの軽自動車には、四人までしか乗れないことを、何度か探偵事務所を手伝ったことがある法引は知っていた。
そういうことならと、結城たち三人はいつもの軽自動車、法引は自分のスクーターにそれぞれ乗り込んだ。ただ、今回晃のほうが助手席に座る。