16.接触
結城探偵事務所の三人は、いつもの軽自動車で妙昌寺に向かっていた。ひとまず頼子を自宅に送り届ける間に、法引は先に寺に戻って準備を整えることになっていた。
「和尚さん、スクーターで走っていったけど、考えてみれば、よくあのマンションの場所がわかったわね。カーナビなんてないのに」
すでに日がとっぷりと暮れた道を運転しながら、和海が改めて感心する。
「住所は言ったんだろう。なら、何とかなるんじゃないのか。ロードマップだって、市販のものがあるだろうし」
助手席の結城が呑気な口調で答えると、後部座席の晃が口を挟んだ。
「いや、そうじゃないですよ。和尚さんの使っていたスマホ、あれ、ナビゲーションアプリが入ってましたよ」
「え、それじゃ、スマホのナビを使ってあそこまで来てたの!? なあんだ」
和海が、拍子抜けしたような声を出した。結城も苦笑する。
「種を明かせば、そういうものなんだな。道路の分岐に来るたびに、ナビで方向を確認しながら来れば、それは迷わんわな」
そんな話をするうちに、車のライトが妙昌寺の門を照らし出した。
門を入り、駐車場に車を止めると、法引が姿を現した。
「皆さん、こちらの準備はすでに整っております。本堂のほうへどうぞ」
法引に促され、三人は正面の外階段から二階の本堂へと上がった。
開いていた両開きの扉から一歩中に入ると、外の殺風景な雰囲気は消えうせ、ここは間違いなく寺なのだと腑に落ちる。
入ってすぐは、訪れた参拝客が土足で拝めるよう、コンクリートのたたきになっており、ガラスで仕切られたその奥には、板張りの 上に畳が敷かれ、正面に本尊である十一面観音像が安置されている。
本尊の前には、すでに護摩壇が整えられ、幾つもの蝋燭には火が灯っていた。
法引は一旦入り口に戻ると、扉を閉めて内側から鍵をかける。
「しばらくの間、ここは締め切ります。儀式の最中に、何も知らない一般の方が来られると、場合によっては不都合が生じますからな」
三人は、法引の案内で、たたきを回り込んだところに作られている上がり口から、本堂の中に上がった。
そこは板張りの床で、すぐのところに引き戸があり、そこをあけるとやはり板張りの小部屋になっていた。本堂の控えの間といった感じの部屋で、本堂とは襖一枚で隔てられている。そして、そこには少し型の古い石油ストーブが、赤々として熱を周囲に送っていた。
そこまで三人を案内すると、法引は急に結城と和海に向かって、思いがけないことを言った。
「結城さん、小田切さん。これから行うのは、わたくしが我が師より伝えられた秘術。それを受けることになる早見さんとわたくし以外の方は、本堂に入ることまかりなりませんのです。申し訳ないことですが」
二人は、慌てて問いただした。
「ちょっと待ってください。もしかして我々、ここで足止めですか」
「どうして、わたし達が本堂に入ってはいけないんですか。教えてください」
しかし法引は、“我が師の戒め”とだけ言い、詳細は語ろうとしない。遂に、結城も和海も諦めた。食い下がっても無駄だと悟ったのだ。
「わかりました。その代わり、我々はここに居させていただきますからね。もし何かあったら、直ちに呼んでくださいよ、和尚さん」
結城が念を押すと、法引はうなずいた。
「わかっておりますよ。では、これより始めます」
法引は晃を連れて本堂に入ると、襖を閉め、入り口とを仕切っているガラスの部分にロールスクリーンを下ろした。ロールスクリーンには、見事な曼荼羅が描かれている。
「なるほど、ロールスクリーンなんてどうかなと思っていたんですけど、こういうことだったんですね」
晃が、ロールスクリーンの曼荼羅に感心していると、法引が近寄ってきてそっと耳打ちした。
「これなら、あなたが真の力を出したとしても、誰にも見られないでしょう。私も祈祷してお助けしますゆえ、充分気をつけて接触を図ってみてくだされ」
「え、秘術を行うという話だったのでは……」
晃が呆気に取られていると、法引は静かに微笑み、こう言った。
「嘘も方便と言いますでしょう」
「え、それじゃあ……」
「あの二人を前にしては、あなたは本当の実力を発揮することは出来ない。そうでしょう。だから、こういう場を設けたのですよ」
晃はしばし絶句した。
(たいした人だぜ、この和尚。お前が寺を借りたいと言い出したのも、あの二人の目の届かない場所があるかもしれないと思ったからだろ。それを先読みして、いかにもそれらしい理屈であの二人退けちまったんだもんな。ほんとにたいした人だ)
(まったくだ。僕が何を考えたのか、咄嗟に読んだみたいだよ。すごい人だ……)
法引は晃の肩を軽く叩くと、護摩壇に向かい、火を入れた。
その前に座って分厚い経典を手に、経を唱え始める。経典をはらはらと空中を流すようにめくり、読経の声が一層声高になった。
晃は、周囲に清らかな気が満ちてきたのを感じ、本堂中央に結跏趺坐で座った。
そして、遼の力を呼び込むと、夢の中で見た光景に向かって、ゆっくりと意識を降ろしていく。
それが危険を伴う行為であることは、晃もわかっていた。万が一、識域下から戻れなくなったら、ときに命に関わることもあり、ましてそこで敵対する存在に接触を試みようというのだ。しかし、やらなければ何もわからないままになる。
意識を下ろしていくと、あたりは薄暮の中にさまざまな色が過ぎていく。色は記憶。夢は、識域下の中で他の人の意識に繋がる可能性のある世界。本来、深入りはしないほうがいい世界。
しかし晃には、法引の読経の声が聞こえていた。それはまるで、晃を守るように晃の中で響いている。それに力づけられて、晃は“夢で見た光景”を捜し求めた。
そしてそれは、不意に現れた。
突然空間が割れたように感じた直後、あの光景が目の前に広がった。
茜の光の中で、崩れかけた白壁が見えてきた。形を成していない山門の瓦礫の間をくぐると、枯れた雑草に覆われた庭とも参道ともつかない空間の向こうに、すでに屋根が抜け落ちた寺の本堂らしい建物が見える。
晃は、雑草を突っ切って建物に向かった。そのとき晃は、自分の体が枯れ草を突き抜けていることに気がついた。枯れ草が全然揺れもせず、何一つ音を発しない。今の自分は、“この世界”に実体がないということか。
晃はゆっくり深呼吸すると、気持ちを引き締めて崩れた本堂に向かった。
夢の中の光景が再現されていく。あの場所を探さなければ。
本堂に足を踏み入れようとしたとき、あの体の内側がざらつくような違和感が走った。
(いる。近くにいるぞ)
遼が警告の叫びを上げる。晃は、全神経を張り詰めて、気配を探った。
本堂跡に上がり、今にも抜け落ちそうな床の上を、音も立てずに歩いていくと、突然違和感が強くなった。気配が背後から迫ってくる。晃は素早く振り返った。
そこには、萌黄の縮緬の着物に紅の帯、少女と変わらぬ大きさの人形が立っていた。
「……マサカ、自分カラココニ来ルトハ思ワナカッタ……」
鴉の濡れ羽色の艶めきざわめく髪に、ぬめるような瞳、対照的に艶のない白い肌、笑みの形に結ばれ紅を差された唇。その動かない唇の奥から、声が聞こえてくる。
「何故オ前ガココヘ来タノカハ知ラヌガ、手間ガ省ケタ。ソノちから、我ニヨコセ」
「そうはいかない。お前の言うなりになどならない。それより、間宮梨枝子さんをどこへ連れ出した」
「ソレハ、オ前ニ言ウコトデハナイ。サア、ソノちからヲヨコセ」
相手の髪が、ゆらりと伸びたその瞬間、晃は逆に相手に向かって突進した。晃は気づいていた。相手が、今の自分が先程の自分とまったく違う状態であることに、気がついていないようだということを。
まばたく間もないほどの瞬刻ののち、晃の体が人形と重なった。