15.悪夢を超えて
夢の中で、晃は人形と対峙した。そのとき人形は、晃の力をよこせと言ってきたという。
「……夢で見た人形は、小学校高学年の子供と変わらない大きさでした。最初にそこに立っているのが“視えた”時には、一瞬人形とは思わなかったくらいでした……」
その、本物の少女ほどの大きさの人形は、萌黄の着物に紅の帯。鴉の濡れ羽色に艶めく髪を揺らしながら、晃のほうに歩いてきた。 真っ白な肌が、光の加減で青白くさえ見える。
よく見ると、周囲は荒れ寺のようで、夕暮れのような茜の光の中に、崩れかけた白壁が見え、今にも抜け落ちそうな板張りの床に立っていたという。
人形は、人間そっくりの瞳をぎらりと光らせ、笑みの形に凍った口が、声を発した。
次の瞬間、人形の髪がたちまちのうちに伸び、絡みついてくる。念の力でそれを切ろうと、必死に腕を動かし、もがくうち、急に絡みつきがほどけていき、助かったと思った途端、目が覚めたのだという。
「……今でも、髪の毛が絡みついてくる感触が、体に残っているんです。思い出したくもない……」
晃はそう言って、右手で両目を押さえ、溜め息をついた。
法引は、静かに真実を告げた。
「それは、夢というより、夢という名の識域下で、本当に術をかけられたのです。あなたは、半ば自力でそれを振り切った。わたくしが、御仏の力をお借りして、多少は手助けをいたしましたが」
「……そうですか。やはり、和尚さんの手助けが……。自分の感覚で、あの状態が続いていたら、もう持たないと思うところまで来ていましたからね。本当にありがとうございます」
だが、夢の中の戦いで、晃が再び消耗してしまったのは間違いなかった。法引は、まだテーブルの上に残っていた卵サンドを手に取ると、封を切らずに置いてあったお茶のペットボトルも摑み、晃の元へ戻る。
「今は、まともに食べるのもきつい状態でしょうが、口に食べ物を入れてください。先程のゼリーは、もう消費してしまっているでしょうからな」
法引は晃の上体を起こして背もたれに寄りかからせると、ペットボトルの封を開け、卵サンドを袋から出し、晃の口元に運んだ。青ざめた顔色のまま、飲み込むのも辛そうにサンドイッチを食べる晃に、結城も和海もやりきれない気持ちになった。
お茶で喉の奥に流し込むようにして卵サンドを食べ終えると、晃はまず大きく溜め息をつき、それから法引に礼を言った。
「……ありがとうございました。無理にでも食べたせいで、少し人心地がついてきました。でも今は、眠るのも怖いですね。また、夢で接触されそうで……」
「今度眠るときは、結界を張っておいたほうが安全でしょうな。しかし、今は眠らないほうがいい。わたくしが、少し気力をお分けいたしましょう。何、わたくしのほうは、心配せずとも結構です。御仏の御加護がありますゆえな」
法引は、晃に向かって目を閉じるように言うと、その額に右手に持った数珠を当て、静かに読経し、最後に気合の声を発した。刹那、晃は自分の中に、暖かな力がどこからか流れ込んでくるのを感じた。それは確かに、法引が振り絞った気力ではなく、もっと強く清らかな力で、神仏の力かもしれない、と晃は思った。
法引が晃の前から退くと、皆目を見張った。晃の顔に、明らかに血色が戻ってきていたからだ。晃は、軽く頭を下げると、にっこり微笑んで見せた。
「ご心配をおかけしました。とりあえず、落ち着きましたから」
晃の気力が戻ってきたことを確認したあと、再び頼子から事情を聞くことになった。
あの人形を、いつ、どこで手に入れたのか、何とか調べられないかと考えたのだ。来歴がわかれば、人形の“正体”も推測出来るかもしれない。
それにしても、あの人形が一体何を考えているのか、まったく読むことが出来ないのが不気味だった。ただひとついえるのは、自分以外の存在の力、つまり人間の協力者を欲しているということだ。
そのために梨枝子は行方不明になり、結城や晃が呪術の標的になった。
頼子は、人形を買った店がどのあたりか聞いていないかと問われ、首をかしげた。
「ずいぶん前のことですしねえ。私もはっきりとは覚えていないんですが、確か銀座の裏通りにある骨董屋で買ったとは言っていました。店の名前までは、さすがに聞いてませんけど」
「銀座か……」
結城が眉間にしわを寄せて考え込んだ。
「あのあたりは、骨董品や何かを扱う店が、とても多いんだ。店名か住所までわからんと、ピンポイントで店を突き止めるのは難しいな。一応、専門的に扱っている品物でジャンル分けされてるから、人形を扱う店に絞れば、調べる絶対数は減るだろうが、なにぶん二十数年前だからな……」
聞き込みを行っても、店主が客を覚えているとは限らない。代替わりしていたら、それこそ廃業している可能性さえある。
それでも頼子から、人形は最初、きれいな綾織の着物を身につけていたことまでは聞きだした。
「姉が見せてくれたんですけどね、本当にきれいな朱の着物で、格子の模様の綾織の地に、細かい鶴の刺繍が施されていましてね、ずいぶん古いものだと感じました。帯も手の込んだ錦の帯で、やっぱり、大正期の着物という感じでした。そのわりには色褪せていなくて、ずっと仕舞われていたのかもしれませんね」
考え込んだままの結城に、和海が口を開く。
「所長、考えてみると、かなり特徴がありそうですよ、その人形。大正期の綾織の刺繍まで入った朱の着物、顔に傷がなくて、胡粉が剥げた様子さえないほど保存状態がよくて、人によっては怖いと感じるほど美しい市松人形。そもそも、現存するアンティークの市松人形は、絶対数がそう多くありません。地道に調べれば、手がかりが摑める可能性はあると思います」
それには、法引もうなずいた。
「可能性があることは、すべてやってみてから考えましょう。人形の氏素性を調べることは、やってみる価値のあることです」
すると、晃がとんでもないことを言い出した。
「僕が、直接相手に接触してみましょうか。こちらから接触することで、隙もなくせますし」
途端に、物凄い勢いで結城と和海が反対した。
「何を馬鹿なことを言っているんだ。それで、もし、術にかかって操られてしまったらどうするつもりだ。呪術の“糸”を、その場で切れる保証はないんだぞ!」
「そうよ、晃くん。いくら和尚さんに気力を分けてもらってたとしても、まだ本調子じゃないのは見え見えだわ。相手につけ込まれるだけよ!」
晃は、結城と和海の顔を交互に見つめると、真顔で言った。
「僕は本気です。梨枝子さんが今どこでどうしているか、まったくわかりません。時間をかけることは許されませんからね。でも……」
ここで晃は表情を緩め、法引のほうを見た。
「僕としても、無茶をするつもりはありません。和尚さんのお寺を貸してください」
「なるほど、わかりました。では、わたくしでよければ、そのお手伝いをさせていただきましょう」
法引は、すべてを悟った顔でにこやかにうなずいた。
「和尚さん、大丈夫なんですか? 晃くんは今、回復しきっていない状態なんですよ。万が一のことがあったら、どうするんですか?」
和海が、顔色を変えて法引に詰め寄る。法引は苦笑しながら、本堂を使ってきちんと策を練ってからやるつもりなのだといった。
「わたくしとて、場所を貸すだけとは考えておりません。きちんと御仏の御加護をいただいてから、わたくしも手助けいたしますゆえ、そう血相を変えずとも、よろしいではありませんか」
法引からそう言われると、和海はさすがに黙った。
結城も、晃の身を案じたが、梨枝子の足取りがまったく摑めない今としては、晃の提案を無下に断ることも出来なかった。
もうひとつのルートである、人形が売られていた店を探すというのは、どちらにしろ元日の今は出来ない。
結局結城と和海は、晃の提案を受け入れる形になった。むろん、皆で妙昌寺に行き、晃を見守ることを条件にした。
そして頼子には、また思い出したことがあれば、電話でも何でも連絡してくれるように頼み、皆はいったんこの部屋を引き払うことになった。
最後にもう一度、あの和室の様子を確認する。法引が祓いを行ったので、すでにそこは清浄になっていた。部屋にこもった陰の気は消
え、水が溜まっているようにさえ感じた空気の冷たさもなくなっている。
「ここはもう、大丈夫ですね」
和海のつぶやきに、皆うなずいた。