12.黒い糸
三人は改めてうなずきあうと、結城は部屋の真ん中に座って胡坐をかき、目を閉じて深呼吸をした。晃と和海はかたわらに待機し、それぞれ手を結城の肩の上に置く。
結城の意識が、次第に過去の一場面に接触し、それを脳裏に映像として結んでいく。
人形を抱く、頼子に似た女性の姿が見える。次の瞬間には、人形の顔がはっきり見えるようになった。人形は、艶々とした黒髪がまるで人間の髪のように見え、胡粉の白さの中に浮かぶ、濡れたような黒い瞳は、とても人形とは思えず、生きている人間のそれにしか見えない。
と、人形の瞳が妖しく輝いたように結城には思えた。
『私は喜美子』
人形がそう“言った”。
『私は喜美子』
人形を抱く女性には、その声は聞こえていないのがわかる。けれど、結城ははっきり聞こえた。
人形の瞳が、いつの間にか真正面に見えている。動かないはずの、わずかに紅を差したような唇が、何がしかの言葉を紡いでいるのを感じる。それを聞き取れない。一番肝心なことなのに、聞き取れない。美しい人形。美しい人形。
ぬめりと光る瞳が結城を絡め取る。視線をそらそうとしてみても、身動きが取れない。視線をはずすことが出来ない。
『私は喜美子』
『私は喜美子』
人形の声が、頭の中にこだまする。人形の瞳しか、目に入らなくなる。
「所長っ!」
晃の怒鳴るような声とともに、意識が一気に現実に引き戻され、結城は一瞬眩暈を感じた。しばらく目をしばたかせていたが、やがてぼんやりと口を開く。
「人形が言っていたんだ。『私は喜美子』と……。美しい人形だったよ」
それを聞いた二人の顔が青ざめる。
「ちょっと所長。それ、本気で言っているんですか?」
和海が呼びかけたとき、それを制するように、晃が言った。
「小田切さん、気がつきませんか? 術がかかってますよ」
「えっ!?」
じっくりと気配を探ると、結城の体に得体の知れない黒く細い糸のようなものが無数に絡まっているように“視え”る。それはまるで、髪の毛のようだ。和海は、ぞっとした。
晃が言葉を続ける。
「人形が術をかけているところを、“視て”しまったと推測されます。それで、所長自身に術がかかってしまったんでしょう。力づくで解くことも出来なくはないと思いますが、ひとつ間違えると、所長の身に危険が及ぶ可能性があります。ただ、このままにしておくのも危険です。ヘタをすると、梨枝子さんの二の舞になりますよ」
和海は、どうしていいのかわからなくなった。晃自身、うまい方法が思いつかない。
「僕がもう少し呪術に関する知識があったなら、護り石に呪術に対する護りの力も込めたんですが、それぞれが持つ力の属性の違いとしか言いようがありません……」
(まずいぞ、晃。この所長、完全に意識が現実から飛んでる。とりあえず、肉体に戻っただけだぜ)
(わかってる。このままじゃ、所長が……。警告したとおりになってしまった……)
「……喜美子は可愛い。まるで娘のようだ。そうだ、あの子は何か求めてる。それを見つけてあげないと……」
結城が、うわごとのような口調でつぶやく。その目は、正面を見ているようでどこも見ていない。
和海は、どうすることも出来ない苛立ちをぶつけるように、晃に向かって畳み掛けた。
「晃くん、どうして護り石は効かなかったの? あれだけ強い力が込められてたのに、どうして。どうしてなのよ?」
晃はうつむき、溜め息をつくと、顔を上げる。
「呪術は、どれだけ強力な守護があっても、力の属性が違う場合には防ぎきれません。その人に、それを受け入れる素地があれば、本人がそれを自覚して気をつけていない限り、取っ掛かりが出来てしまいます。ひとつ取っ掛かりが出来れば、あとは絡め取っていくのは難しいことではない。僕だって、かかってしまうでしょう。たとえそれが、どんなに細い“糸”であろうと、一度“糸”が絡まれば、絡まった痕跡は残る。それが取っ掛かりになってしまうんです。霊力だったら、直感的に警戒出来たでしょうが……」
晃は、一度車内で不審な“糸”とも“髪の毛”ともつかないものを切ったことを思い出し、あれが取っ掛かりだったのだと悟った。
「……あの橋の近くで〈過去透視〉をしたのが、すべてのきっかけだったのかもしれません。あのとき一度、“糸”は絡んでいました。当時から何か嫌な予感はしていたんですが、まさかこういう事態になるとは、僕も読めませんでした。すみません……」
頭を下げた晃に、和海は急に我に返ったように肩を落とした。
「……ごめんなさい。晃くんを責めるべきことじゃなかったのに、つい当り散らしてしまった……」
そのとき、結城が立ち上がった。聞き取りにくい声で、ぶつぶつとつぶやいている。
「……喜美子のところに行かなくては。あの子の願いを叶えなければ……」
二人は慌ててそれを止めようとしたが、結城は二人を振り切る勢いで、部屋から出て行こうとする。それを見た頼子は、廊下でひっくり返らんばかりに驚いている。
「ちょっと、どうしたんですか。しっかりしてください」
何も知らない一般人の見ている目の前で、金縛りの力を使うことをためらった晃だが、今は使わなければ結城を押し留めることなど出来ない。
そのときだった。結城が急に腕を振り回し、それが晃の脇腹を直撃した。あっという間に跳ね飛ばされ、近くのタンスで背中を強打する。一瞬息が詰まり、声も出せなくなった。
和海ひとりでは、結城を止められるはずがない。結城は和海を引きずるようにして、廊下から外へ出ようとする。
晃は必死に体を引きずるようにして廊下に出た。
「しっかりしてくださいっ」
頼子が、晃を支えてくれる。晃は、結城を止められないままほとんどパニック状態に陥っている和海の姿を確認した。
晃は、結城を睨みつける。その途端、結城の動きが凍りついたように止まった。
和海はというと、困惑顔のまま、結城の肩を揺さぶっている。
「所長、しっかりしてください! これから、和尚さんに連絡しますから!」
そのうち、結城が硬直しているのに気づいた和海は、晃のほうを振り返る。晃はうなずくと、そのまま力づくで引き戻してくれといった。
「僕も、“視ていますから”」
和海は、晃が念動を使えることは知っていた。和海はうなずき、結城の腕を引っ張った。結城の体が、ぎこちなく後ろに下がり、晃がわずかに視線を動かすと、しりもちをついたように座り込む。
和海はすかさず、スマホを取り出すと法引に連絡を取った。
「和尚さん、ここへ直接来てくれるって。だから、絶対にその場から動かさないようにって言われたわ」
結城の顔を覗き込むと、呆けたようになっている。力づくで引き戻されたことで、一時的に精神が弛緩しているように見えた。
晃は、頼子に支えてもらって立ち上がると、右手を壁につきながら、何とか二人の元まで行った。
「晃くん、大丈夫なの?」
和海が、心配そうに晃のほうを見る。晃は、まだ残る痛みにわずかに顔を歪めながらも、ゆっくりとうなずいた。
「何とか、大丈夫です。でも、所長のほう、目を離さないでください。この状態で“我に返る”と、また人形を探しに出てしまうでしょう」
晃は大きく息を吐くと、跪くように結城のすぐ後ろにかがみ込み、右手を結城の右肩に乗せた。
(自分の体力のなさを痛感するよ。あんなに簡単に振り飛ばされるなんて……)
(そもそもこのおっさんとお前じゃ、基礎体力そのものが違うからな。かたや空手や柔道の有段者、かたや肺活量が普通の六割じゃあ、勝負にもならんだろうよ。大怪我しなくてよかった)
それから、法引がやってくるまでの小一時間、それは果てしなく長い時間に感じられた。
思い出したように小声で“喜美子”と口走って立ち上がろうとする結城を、晃が金縛りで動きを封じるということが繰り返された。
金縛りは、自力では指一本動かせない状態になるので、かかっている間は当人にとっては相当の恐怖とストレスとなる。長時間かけていれば、それだけで相手にトラウマを与えかねない。だから、金縛りを長時間かけているわけにいかなかった。
金縛りをかけては解き、かけては解きするうち、和海の目にも、晃が次第に消耗し始めているのがわかった。
「晃くん、無理しないで。顔色が悪くなってきたわよ」
「でも、こうしないと、僕ら二人では所長を押さえることは出来ない。もう少しで、和尚さんが来るはずですから、それまで所長をここにとどめておかないといけませんからね」
そう言って、晃はかすかに笑った。
そのとき、再び結城が何事かつぶやいたかと思うと、いきなり振り向くなり晃に飛び掛った。不意を突かれた晃は、あっという間もなく押さえ込まれてしまう。
「所長っ!」