11.警告
三人を乗せた車は、間宮家の住むマンションまで戻ってきた。すでに日差しは赤みがかかり、まもなく夕暮れであることを示している。
事の次第はすでに電話で連絡済みで、頼子が立会人となって、笙子のマンションを訪ねるということの了解ももらっていた。
けれど、結城も和海も、晃のことが気になっていた。戻ってきた晃は、明らかに泣いた跡があった。右目が赤くなっていて、両まぶたが腫れぼったく、鼻の頭も少し赤みが残っていた。あれは、間違いなく泣いた跡だ。
けれど、それとなく尋ねてみても、晃は何も言わなかった。その代わり、いい方を紹介してくれたと礼を言われた。
「……何か、カウンセリングみたいなものをやったのかも知れんな。本来宗教というものは、そういう側面があったはずだし」
結城が小声でつぶやくと、和海もうなずいた。
「晃くんも、本当は悩みとかそういうもの、持っていて不思議じゃないですものね」
最初に来たときと同じ駐車場に車を止め、代表して結城がインターホン越しに話をすると、笙子の家の鍵を持った頼子が、エレベーターから降りてきた。
「まだ、片付け切っていないもので、部屋の中が散らかってますけど」
笙子の部屋は、一応あと一年ほどでローンが終わるという物件で、どうするのか親戚で検討中だという。
「あたしが一番親しい間柄だったもんで、鍵を預かっているんですよ」
結城が晃とともに後部座席に座り、頼子を助手席に乗せて、車は発進した。
そして、頼子の案内で車を走らせること二十分ほど、頼子の姉笙子の暮らしていたマンションにやってきた。
そこは、六階建ての古いマンションで、そこの四階の部屋であるという。
頼子も含めた四人は、近くの駐車場に止めた車を降りると、マンションに向かった。
オートロックのないマンションのエントランスを抜け、エレベーターに乗ると、四階を目指す。そのエレベーターは、ドアのところに窓があるタイプで、通過していく階の廊下が窓越しに見えた。
四階にたどり着くと、頼子の後についていく形で、三人はかつて笙子が住んでいた部屋へと歩いていく。
その部屋は、廊下の中ほどにあり、茜色の光が周囲を染めている。結城は頼子を促して、ドアを開けてもらった。
頼子がドアを開けると、いやにひんやりとした空気が中から流れてくる。三人は顔を見合わせた。なんとなく、異様な雰囲気が感じられる。
「それでは、どうぞ」
頼子がまず中に入り、三人が続いた。笙子の部屋は、リビングと和室、ダイニングキッチンにバス、トイレという、ごくごく一般的なつくりのものだ。
頼子は何も感じてはいないようだが、明らかに何らかの力の残滓が残っている。この空気の冷たさは、普通ではない。晃はもちろんのこと、結城も和海もわずかに残る痕跡を感じていた。絶対に、何かある。
「普段、お姉さんが人形をしまっていた部屋は、どの部屋でしょうか」
和海の問いかけに、頼子は引き戸の向こうを示した。
「確か、あたしが最後に人形を見たのは、この部屋でしたけど。ここ、和室なんです」
頼子の言葉に、三人は顔を見合わせてうなずきあうと、まず晃が戸を開け、部屋の明かりを付けて中を覗いた。冷えた空気が溜まっている部屋は、まだ和箪笥や鏡台、和風の小物が飾られたままになっている四畳半ほどの広さだ。晃は、一歩足を踏み入れる。
まるで、水の中に足を入れたようだと、晃は思った。ひんやりとした冷気が、膝丈にまで澱んで、ここの冷気が部屋中に染み出していたから、部屋の中の空気が冷たかったのだろうと、容易に想像出来る。
そして何より、人形が引き寄せたのか、魑魅魍魎と呼ぶにも力弱い存在が、いくつも周囲に漂っているのがわかった。晃は入り口で立ち止まったまま振り返り、頼子に尋ねる。
「ここで暮らしていて、お姉さんは何か言っていませんでしたか? 体が冷えるとか、おかしな気配がするとか……」
「そういえば、おかしな気配はよくわかりませんけど、冷え性で困るとはよく言っていました。若いころはそうでもなかったんですけどねえ」
「……やはり」
晃はさらに数歩奥に入り、結城と和海に、中に入るよう促した。
「……なるほど、早見くんがあんなことを訊いたわけがわかった。これは、冷えてもおかしくないぞ」
「おまけに、余計なものがいろいろいるわね。これだけ陰の気が溜まっていたら、それは惹かれてくるわよねえ」
和海は不意に、背筋に冷たい気配が走るのを感じた。咄嗟に感じたのは、相手は動物だという感覚。首筋を、毛皮の感触が撫でていく。自分の“中”に入ってこようとしていると直感した和海は、懸命に心の接触を遮断する。
「晃くんっ」
思わず小さく叫んだ和海に、晃はすぐに気づいて彼女の背後に張り付く“モノ”を引き剥がした。それは、どうやら猫の霊のようだ。見た目は普通の猫より大きく、体長五十センチほどに“視え”た。まるで山猫のごとくに晃を威嚇したが、晃が睨みつけると気圧されたらしく、急におとなしく、普通の猫と変わらない大きさになった。晃は、丁寧に念を込めて猫の霊を浄化し、静かに天に差し上げ、成仏させる。
しかしそのとき、猫の霊が見ていた光景が、晃の脳裏をよぎっていく。どことなく頼子に似た中年女性が、人形を抱いている姿だ。だがその人形は、明らかに禍々しい“気”を放っていた。それは、霊体の発するものとは、明らかに違っていた。
「やはりあの人形、只者ではなさそうです」
晃の言葉に、結城が問いかけた。
「どういうことだ。何かわかったのか」
「今、小田切さんに憑こうとしていた猫の霊を浄化したんですが、その際に、猫が見ていた光景が“視えた”んです。笙子さんらしい人が、人形を抱いている様子なんですが、その人形が、どす黒いとも表現出来るような嫌な“気”を放っていたんです。邪霊とか悪霊とか、そういうものは明らかに違う感じでした。人形を抱いている人は、もちろんそれに気づいてはいませんでした」
「霊体の“気”ではなかったと、そういうんだな」
「はい」
結城は、和海と視線を合わせ、さらにこう言った。
「小田切くんは、何か感じることはないか」
それには和海は、しばらく目を閉じて周囲の“気”を探っていたが、大きく息を吐いて目を開けた。
「いくつかたむろしている連中も、こぞって『人形は怖い』『“気”に惹かれてきたが、近づきたくはなかった』と言ってます。やはり、人形を恐れてたみたいですね」
そのとき、晃が口を開いた。
「所長、ここで〈過去透視〉を行うのは危険です。降霊術もやめたほうがいい。嫌な予感がするんです」
晃は真顔だった。ここで〈過去透視〉を含む霊的な儀式をしたら、何かが起こりそうだという。
「人形の本性は、霊体が取り付いたものではなく、どちらかといえば物に意識が宿った付喪神のような存在だと思います。ただ、純粋な付喪神とも、少し違う。あのとき、梨枝子さんの部屋で見たときの印象と、のちのちに感じたものとをあわせると、やはりあの人形自身が呪術を使っているような気がするんです。確証はありませんが、そう考えると辻褄が合ってくる。人形が部屋から突然消えたのも、その気配を僕が感じられなかったのも、霊力ではなかったとすれば、自分で腑に落ちるんです。それだけに、霊的な儀式で変につながりを持ってしまったとき、何が起こるかわからない。霊力なら何が起こるか予想がつきます。でも、呪術は予想がつかないんです」
結城は困惑を隠せない表情で、和海に救いを求めるように視線を向けた。和海もまた、判断に困っているのがありありとわかる。
「ここで〈過去透視〉をすれば、きっと何かわかるとは思います。でも、晃くんがあれほど止めるのも珍しいし、どこまで危険を冒すか、最後は所長自身の判断だと思います」
「……そうだな。最後は私の判断か……」
結城は考え込みながら、ふと部屋の外にいる頼子のほうを見た。三人の様子を見るために、部屋を覗き込むながらも、娘を案じる不安と焦燥が顔に出ている。
やがて、結城は決断した。
「……早見くん、君の忠告はありがたいが、時には危険を冒してでも勝負に出なければならんときがある。ここで〈過去透視〉をすれば何かがわかる、あるいは何かが起こるというなら、やってみる価値はあると思う。フォローに入ってくれないか」
「わかりました。所長がそこまで覚悟を決めているのなら、出来る限りのフォローをします」
晃はそう言うと、“気”を込めなおすからと結城と和海の護り石を出してもらい、廊下にいる頼子に許可をもらってただひとりリビングに行く。そして、遼の力を呼び込むと、右手に握った護り石に精神を集中し、“気”を込めていく。
一気に込めすぎて石が砕けてしまわないように注意しながら、込められるだけの“気”を込め、遼の力を分離すると、二人の元へ戻った。
「これを身につけてください。これで、多少は違うはずです」
二人は、気圧されるかと思うほどの“気”が込められた石をそれぞれ受け取ると、結城はワイシャツの胸ポケットに入れ、和海はベルト通しに石の紐をくぐらせてぶら下げる。