10.人にして人にあらざるもの
境内を抜け、出口から外に出ると、三人は駐車場に向かい、そのまま車に乗り込む。
いつものように運転席に和海、助手席に結城、後部座席に晃が座り、それで全員がやっと安堵の息をついた。
「ねえ晃くん、さっきの変な図形みたいなものだけど、あれ、もしかしたらさっき晃くん自身が言っていた呪術に関係しているんじゃないかしらね。もちろん、ただの勘なんだけど」
和海がそういうと、晃もうなずいた。
「そうかも知れませんね。出来れば、魔術とか呪術に詳しい人に、例のメモを鑑定してもらったほうが、いいんでしょうが」
「とはいっても、さすがにその方面に知り合いはおらんな」
結城が苦笑した。元警察官だけに、結城の人脈は警察や公安関係に偏り気味だった。
「表の探偵業にとっては、都合のいい人脈なんだがな……」
和海も、自分の知り合いを一通り思い浮かべた後、晃が来る前に時々手伝ってもらっていた、母の知り合いの霊能者くらいしか、ツテがないといった。
「その人、西崎法引さんって言うんだけど、わたしの母の同級生だった人で、今はお寺の住職。若くしてお寺を継ぐために仏門に入って修行をしているうちに、能力が身について祈祷とかお祓いなんかをやっている人なの。修験者なんかにも知り合いがいるそうだし、その人なら、私たちより詳しいかもしれないわ。わたしたちは和尚さんと呼んでるけど」
「そうですね。行ってみる価値はあると思いますよ」
そういって結城のほうを見た晃は、不意に短く叫んだ。
「動かないで。何かおかしい」
結城はそう言われ、思わず体を硬直させる。晃はしばらく結城を凝視していたが、やがて右手を伸ばして結城の首筋に指先を当てると、鋭い気合の声とともにまるで何かを払うように指を上に向かって一閃させ、大きく息を吐いた。
「い、一体何が……」
姿勢を戻した晃に向かって、結城が困惑の表情のままに尋ねる。晃は、真顔で答えた。
「何かが、絡み付いていました。黒い“糸”とも、“髪の毛”ともつかないものが。外では、さまざまな人の気が辺りに溢れていたので気づかなかったんですが、ここには僕ら三人しかいませんから。僕も、危うく見逃すところでしたよ。首から弾き飛ばして、霧散させましたけど」
それを聞いた結城の顔が、真っ青になる。どう考えても、池のほとりで体験したことに繋がっているとしか思えない。
「でも、晃くんが祓ってくれたんだから、大丈夫ですよ、所長」
和海が、明るい声を出して結城を元気付けようとした。しかし、当の晃が真剣な表情を崩さない。
「ただの杞憂で済めばいいんですけど、どうしても嫌な予感が消えないんです。僕自身、はっきり未来を見通せるわけじゃないんですが、何かが小骨のように引っかかっているんです。後で、護り石にもう一度力を込めておきます。所長も、充分気をつけてください」
結城は、苦笑とも引き攣り笑いともつかぬものを浮かべる。
「おいおい、脅かさないでくれ。とにかく、和尚さんのところへ行くぞ」
二人から“和尚さん”と呼ばれている西崎法引は、今いる寺からは車で三十分ほどのところで、妙昌寺という寺の住職をしている。 妙昌寺は、初詣客の集まる大きな寺社と違って、檀家の人しか顔を出しに来ない、小さな寺だった。
和海は電話で、訳あって訪ねる旨を話して承諾を得ると、車を走らせる。その道すがら、晃は法引のことを尋ねた。
「僕は、その西崎さんという人に会ったことがないんですが、どういう人ですか?」
「見た目温厚そうで、めったに怒らないんだけど、悪霊と対峙するときなんか、すごい迫力で経文を唱えたり、錫丈振り回したりするから、依頼人はそれだけで納得したりするくらいよ。もちろん、実力もちゃんとあって、晃くんが手伝ってくれるようになる前は、ずいぶんお世話になったの。とてもいい人よ」
やがて車は、住宅地の中にぽつんと建つくだんの寺にやってきた。
鉄筋コンクリートの寺の建物は、ブロック塀で囲まれたごく普通の二階建てで、入り口の門の脇に妙昌寺という寺号を記したものが掲げられていなければ、とても寺とは思えない。ただ、二階へと直接上がる外階段がついているのが、目立つといえば目立つ造りだ。 一階が住職の自宅、二階が本堂になっているのだという。
門をくぐり、建物の脇を入っていくと、傍らに小さな駐車場があり、さらにその奥が檀家の墓地になっている、そういう造りの寺だ。和海は、迷うことなく駐車場に車を止めた。
三人が車から降りると、それを見計らっていたかのように、法引が姿を現した。
結城は元警察官だけあって、大柄で肩幅が広いが、法引はどちらかといえば小柄でなで肩。結城より一回り年上の五十代前半で、きちんと剃られた頭に、墨染めの衣を着て数珠を手に、にこやかに微笑みながら三人を迎えた。
「お久しぶりですね。急に来られるとは、何かありましたかな」
「はい、一年近くご無沙汰してしまいました。実は、また厄介な出来事に遭遇しまして、和尚さんのお力を借りたいと思いまして」
和海はそういうと、さらに振り返って晃のことを法引に紹介した。
「彼が、今事務所で超常事件を調査するとき、手伝ってくれている早見晃くんです。とても強い能力を持っているんですよ」
「なるほど。わかりました。立ち話もなんですから、どうぞ中へお入りください。自宅のほうで、ゆっくりと話をいたしましょう」
法引は、あくまでも柔和な笑みを崩さぬまま、三人を自宅に招いた。
コタツのある居間で、法引の妻登紀子が入れてくれたお茶をご馳走になりながら、三人は今までの経緯を話した。法引は黙って聞いていたが、結城に、手帳のメモに描かれた複雑な図形のようなものを見せられたとき、唸り声を発した。
「……これは、私も専門ではないのでなんともいえませんが、古神道もしくは修験道に関係するものではないかという気がいたしますな」
「古神道か修験道ですか」
結城がやはりという顔で、晃の顔を見る。
「早見くんの勘が当たったようだな」
「そうね。その二つは、ある意味呪術的な体系を持つ宗教ですものね。今はそれこそ、暦とか山岳修行なんかに雰囲気が残っているくらいだけど」
和海も、納得したとばかりにうなずいた。
「しかし、消えた人形というのは、わたくしも気になります。かといって、実物を見たのが小田切さんと、早見さんといいましたか、そのお二人だけですからな、判断の下しようがないのが、なんとも……。後で、知り合いの修験者にも見てもらいましょう」
法引も、決め手はないようだ。三人は、まだ時間があるからと、今度は人形が長年置かれていた前の持ち主の伯母の家に向かうことに決め、法引に別れの挨拶をした。
すると法引は、晃と話をさせて欲しいと言い出した。
「そう、時間をとることではありません。こちらへ」
法引は、結城と和海を居間に残し、晃とともに自分の書斎へ行った。
書斎の戸を閉めると、法引は静かに切り出した。
「あなたは、“人にして人にあらざるもの”ですな」
晃は、息が止まるほど驚いた。“本気”を出していない状態で、自分の“正体”を見抜いた人など、今までいなかったからだ。
「何、案ずることはありません。“それ”がなんであるか、わかりますゆえな。祓おうなどとは考えてもおりません。もし無理に祓えば、おそらくはあなたの命にかかわることにもなりかねないでしょうし、あなたとあなたの中にいるものの間に、なんびとも断ち切ることなど許されぬ絆があることも、“視えて”おりますゆえ」
法引は、あくまでも静かに、晃に語りかけた。
「あなたは、自分のもつ力が、“人ならざる力”であることを、充分わかってらっしゃる。あなたの中にいるものも、自分というものを充分わきまえている。わたくしから言えることは、今の気持ちを忘れず、決して力に飲まれぬように、ということだけです」
晃は、あまりのことに言葉も出なかった。しばらく立ち尽くしていたが、やっとのことで口を開いた。
「和尚さん、本当に、“視える”んですか? 遼さんが……」
法引は優しく微笑みながら、うなずいてみせる。
「ええ、“視え”ますとも。正義感の強そうな若者ですな。あなたの“本当の左腕”は、本来はその方の腕。強い力を秘めておる腕です。そして、その“左眼”もまた……」
「……遼さんの存在、認めてくれるんですね……」
晃は、自分でも抑えきれない感情が、湧き上がるのを感じた。たちまちのうちに大粒の涙が溢れてくる。嬉しさとも感激ともつかない、言葉にならないものが後から後から湧き上がって、自分でそれを止めることが出来ない。どうすることも出来ず、ただうつむいた。
法引は、涙が止まらなくなった晃の両肩を優しく抱きかかえ、こう言った。
「今まで、ひとりで抱え込んできたのですな。苦しかったでしょう。ここで、吐き出してしまいなさい。そして、つらくなったらいつでも訪ねてきて下さい。わたくしでよければ、いつでも話をお聞きしましょう」
晃は、ただしゃくりあげることしか出来なかった。
(……遼さん……。遼さんのこと、わかってくれる人がいた。僕のことを、わかってくれる人がいた。……どうしよう、涙が止まらない……)
(いいんだ、晃。なんだかんだいっても、お前に厄介な力を与えちまったのは、紛れもなく俺なんだ。お前が、本当はつらかったこと、俺だってよくわかってる。思いっきり泣いちまえ。俺は、何もしてやれない……)
(そんなことはないんだ。遼さんがいてくれたから、僕は今までやってこれた。遼さんは、僕にとって、兄さんみたいな存在だから。だから、遼さんの存在を認めてくれた人がいたのが、嬉しくて……)
(……晃……)
落ち着くまでに、五分ほどかかったろうか。床にいくつも涙の粒が落ち、小さな水溜りになったあたりで、晃はやっと顔を上げた。 法引は、泣きはらした晃の顔を見て、ハンカチを渡してくれた。
「落ち着きましたかな。わたくしは、秘密は守ります。安心して、お行きなさい」
晃は法引の顔に、父に対してすら感じたことのない安らぎを覚える。勧められたハンカチで涙の跡を拭うと、やっと笑みを浮かべ、深々と一礼した。