08.状況
泰典は、結城から問われるままに、いなくなった当時の状況を話し始める。
仕事を終えて家に帰ってきたとき、梨枝子はひとまず正気に戻ったが、かなり疲労していることと、当分の間充分気をつけるようにと注意を受けたことは聞いていたので、半信半疑ながらもひとりにしないように気をつけていたという。
そして、いつものようにまだ年が明ける前に家を出て、除夜の鐘を聞きながら境内に入り、初詣をするために人波の中を家族で歩いていた。それが、ここ十年ほどの毎年の習慣だったのだという。
ところが、梨枝子がいやに早足で歩いているのに、家族は気づいた。声はかけたが、本人が『早くお参りして、変な出来事が終わりになるようにしたい』と言ったので、まだ疲れが残っているはずなのにと思いながらも、そのまま行かせたのだという。
そのうち、どんどん混雑がひどくなってきて、人混みの中に梨枝子の姿が紛れてしまった。それでも、子供ではないのだし、はぐれたときの待ち合わせ場所も、駐車場の場所もわかっているのだから、とその場では姿を確認することもないままに、本堂まで大勢の人と押し合いながら進んでいって、いつものように参拝を終え、人波に流されるように境内の外に出て、そこで初めて梨枝子の姿がまったく見られないことに気がついたという。
「確かに境内は混んでいました。でも、人の流れは規制されていて一方通行で、境内から出る道は私らが出たそこだけになっていました。そして、そこにはちょうど交番もあって、はぐれた人同士が待ち合わせるには、ちょうどいい場所でした。私ら家族も、そこを待ち合わせ場所にしていました。娘の梨枝子も、そこで待っていると思ったのです。ですが、そこに梨枝子はいませんでした。いつまで待っても梨枝子は現れませんでした。それで、もしかしたら駐車場に行っているのかもしれないと思い、私が駐車場に様子を見に行きました……」
しかし、交番のほうにも、駐車場のほうにも、梨枝子は姿を現さなかった。交番のほうで待っていた頼子や義彦も駐車場に戻り、人波が途絶えるころまで待ったが、梨枝子は戻ってこなかった……
「散々探し回った後、明け方頃になって交番の警察官にことの次第を話して、『もし娘が尋ねてきたら連絡をください』と言付けて、ひとまず家に帰ってきたんですが……」
それでも、いても立ってもいられず、和海に連絡を取ったのだという。
「状況はわかりました。それで、人混みの中で、何かいつもの年とは違う感じがした場所とか、物とか、そういうものには気づきませんでしたか?」
結城が重ねて尋ねるが、泰典は首を横に振る。それを見て、和海が、頼子や義彦に同じことを尋ねた。
義彦は、泰典と同じようにかぶりを振ったが、頼子だけは『そういえば』とこんなことを言い出した。
「境内で一箇所だけ、妙に重苦しい感じがした場所があったんです」
「え、それはどこですか?」
和海ばかりではなく、その場の全員が頼子に注目した。
「最初に境内に入ったときに、一回だけ感じたんですけど、本堂に向かう道の左脇に小さな祠があって、その脇に細い小道が続いていました。その道の奥のほうから、重苦しい気配が漂ってきていたように思ったんです。すぐ通り過ぎてしまいましたし、そちらのほうは人がいなくて真っ暗で、何も見えなかったので、それ以上気にしませんでした……」
重苦しい気配を感じたのはそのときだけで、梨枝子を探すために再度境内に入ったときには、どこに行っても何も感じなかったという。
「だから、あれは気のせいだと思ったんですがねえ……」
頼子が肩を落とすと、晃が慰めるようにこう言った。
「それだけでも、大きな手がかりになります。そこの場所に行けば、何か痕跡が残っているでしょう。それを辿れば、そのとき何があったのか、わかるはずです。そうすれば、梨枝子さんの消息のことも手がかりが摑めるはずです」
そして晃は、結城のほうに向き直った。
「所長、参道の本流から外れたところなら、多少人が出ていても、何とかなりますよ」
「そうだな。さっそく行ってみるか。では、詳しい場所を教えていただけますか」
結城が差し出したシステム手帳のメモページに、頼子はつたない線で手書きの境内の地図を書いた。そして、問題の重苦しい雰囲気を感じた場所に、印をつける。
それを確認し、結城はシステム手帳をコートの下のスーツのポケットにしまった。
「我々は、全員がいわゆる霊能力を持っています。その能力のほうで調査しますので、必ず娘さんは探し出して見せます。ご安心ください」
結城が力強く言い切ると、家族の顔にわずかながら明るいものが見えた。
とにかく、一応警察のほうに捜索願は出しておくことと、結界はいじらないこと、そして、かつての伯母の家に出入りする許可を与えて欲しいことを、結城は家族に伝えた。
「どうして、義姉の家に行く必要があるんですか」
泰典が、怪訝な顔で三人の顔を順番に見つめる。それには、和海が答えた。
「先程も言ったとおり、わたしたちは三人ともが霊能力を持っています。亡くなった笙子さんの家は、本人の思い出が詰まっているところでもあるし、ここに来る前に、人形が二十数年という歳月を送った場所でもあります。そこには、必ず“想い”が残っているものです。それを調べることによって、人形の素性がわかるかもしれない。素性がわかれば、人形が隠れ家と考えそうな場所も推測出来るかもしれない。そう考えたわけです。人形が隠れ家としている場所には、間違いなく梨枝子さんがいるはずですから」
その言葉を引き継いで、晃がさらに付け加える。
「もちろん、勝手に入り込んだりはしません。ご家族の誰かの立会いの下に、入りますから」
頼子が鍵を預かっていることもあり、笙子の家に入ることを承諾してもらった三人は、まず姿が見えなくなった寺の境内に行くことにし、ひとまず間宮家をあとにした。
エレベーターで下へ降りる途中、ふと結城が口を開いた。
「すまん、コンビニに寄らせてくれんか。小腹が空いてきた」
中途半端な時間に急に呼び出されたため、きちんと腹に溜まるものを食べていないのだという。
「これから能力を使って調べるのに、それこそ『腹が減っては戦が出来ん』からな」
それを聞いた晃も、自分もそうだと告白した。
「ちょっとおせち料理をつまんだ程度で、きちんと食べてないんですよ。本当は、初詣の帰りがけにでも、露店で買い食いしようと思っていたくらいで」
そういうことならと、三人はマンションを出たその足で、ちょうど視界の中に見えているコンビニに向かった。
その店で、手軽に食べられるおにぎりやサンドイッチ、中華まんなどを買い込んだ三人は、そのまま駐車場に止めてある車の車内で、大急ぎでそれを腹に収める。
「しかし、仕事とはいえ、元日早々コンビニで買ったものを車の中で大急ぎで食べなきゃならん羽目になるとはな」
結城が、中華まんの最後の一口分を口にほおばったまま、愚痴半分でつぶやく。
「言いっこなしですよ。ある意味、これは人命が掛かってる仕事なんですから」
温かいペットボトルのお茶を飲み干しながら、晃が応える。
「そういうことね。食べ終わったなら、出発よ」
ゴミの類は、コンビニの袋にすべてひとまとめにし、後部座席の後ろにある小さなトランクスペースにひとまず押し込み、それを確認して和海は車を発進させた。
目的の寺は、マンションから車で二十分ほどのところにあった。近くの駐車場に車を止めると、すでに人の流れが境内に向かって続いているのが見える。
「あ、僕、マスクしておきます」
晃が、コートのポケットから引っ張り出したマスクを再びかけた。これだけ人がいては、どこに歩きタバコをやらかす人間がいてもおかしくないからだ。
そして三人は、人の流れに紛れ込み、互いにバラバラにならないように気をつけながら、境内の奥へと進んでいった。
元日の昼過ぎ、人波はいよいよ数が増え、互いの姿を見失わないようにするもの大変になってくる。それでも三人は、頼子の話にあった参道脇の祠と、その傍らの小道を探した。参道の両脇には露店が並び、呼び込みの声も聞こえてくるが、とても立ち止まってどうこう出来る状態ではない。店の者たちも承知していて、もう少し空いてきたら本気で商売しようと、今は気を抜いた状態に見える。
人波に揉まれながらしばらく進んでいくと、ちょうど露店が途切れたあたりに少し奥まった感じの空間があり、そこにこじんまりとした祠があるのが見えた。その脇には、確かに小道が通じている。
三人は、体力のある結城を先頭に、何とか人波を外れて祠のある空間にたどり着いた。そこには他にも、人波から逃れて一服している人たちの姿が何人か見える。晃は、タバコを吸っている人の傍に近づかないようにしながら、小道の入り口に立った。他の二人は、 喫煙中の人間が、晃に近づかないようにガードする形で、晃の脇に陣取った。
「……タバコ臭いですね。ほぼ風上側なのが救いですけど、時々風が舞ったりすると、臭いがここまで来ます」
マスクの中の晃の顔が、外から見てもわかるほど歪む。タバコはとことん苦手だった。
風で薄まり、ほとんど臭いだけになっている煙でさえ、その臭いが鼻につき、喉がいがらっぽくなる。マスクに挟んだガーゼに滲みこませたユーカリオイルの清涼感ある香りのせいで、かろうじて咳き込むのは押さえられているが、精神集中の明らかな妨げになっていた。
「晃くん大丈夫? 苦しくなっていない?」
和海が問いかけると、晃は目元にわずかに笑みを浮かべる。
「そこまではいっていないから、大丈夫です。まともに煙を吸い込んでいるわけじゃありませんから」
そうは言っても、今の晃が本来の実力を発揮出来ない状態であるのは、結城も和海も察知していた。二人もまた、晃を助けるように、小道の奥を覗き込んだ。