05.嫌な予兆
義彦は、納得いかないという表情で部屋を飛び出していく。それを見送りながら、晃はどこか沈んだ表情になる。
「……人形が見つかれば、かえって全面解決に持っていけるんですが、気配も何も感じられなかった。おそらく、今更いくら探しても見つからないでしょう。あの人形は……いや、あの人形に入っている“モノ”は、ちょっとやそっとのものではありません」
晃は立ち上がると、ベランダに行った。先程は夢中で感じなかったが、夕方近い冷気が肌を差す。晃に続いて、和海もベランダに下りると、下を覗き込んだ。確かに晃の言うとおり、人形らしいものの姿は見えない。
そこへ、義彦がやってくるのが見えた。上を見上げて、二人の姿を確認すると、ベランダの真下からその周辺へと、人形が落ちた痕跡がないか探し始めた。
丈夫なプラスチック製の人形と違って、数十年も前に作られた古い市松人形が七階から落ちて、無事であるはずがない。誰かが拾ってしまった可能性があるにしても、破片や何かの痕跡は残っているはずだ、と義彦は考えたようだ。
「直後に僕が覗いて確認しても、痕跡はおろか、気配さえ消えていました。今だって、何の気配も感じない。消えたんですよ……」
晃のつぶやきに、和海は困惑を隠しきれない表情のまま、問いかける。
「消えたって、本当にどこかへ消えたわけなの。人形自体は、実体があるものなのに」
「強力な存在なら、短い距離を瞬間移動することは可能でしょう。ベランダから地面まで、一階分三メートルほどとして、直線距離にして二十メートル前後。このくらいの距離なら、瞬間移動してもおかしくないと思いませんか。あるいは、空中浮遊したということも、考えられる。人間の当たり前の常識として、ああいう場合は咄嗟に上は見ないですからね。僕も、上を確認するということは、今気づいたばかりです。もちろん、今現在は、気配が感じられなくなるほど離れた場所にいるでしょうが。あれが、自分で自我を持ってしまった存在なのか、人形を依り代として何かが宿ったのかまではわかりませんが、あれほどの気配を周囲に発していた存在だと考えれば、何をやっても、おかしくはない……」
晃が溜め息をつくと、和海も下で探し回る義彦を見ながら、大きく息を吐いた。
「あの人形、またやってくるのかしら」
「可能性はありますよ。梨枝子さんは、人形の意識に相当同調していましたからね」
寒くなってきたので、二人は室内に戻り、窓を閉めた。
部屋の中では、相変わらず梨枝子がどこか事態を把握出来ない様子で、ぼんやりと天井を見上げたままぐったりと横たわっている。 二人が戻ってきたのを見て、頼子が二人の元に小走りにやってきた。
「あ、あの、どうなんでしょう。人形は、見つかったんですか」
二人は一瞬顔を見合わせ、首を横に振った。
「しばらくは、注意が必要ですね。一度人形の意識と同調したので、人形自体を浄化しない限り、また狙われる可能性があります。人形にとって、操りやすい存在ということですから。人形にとって、人間に運んでもらうほうが、都合がいいのは間違いないですからね。出来るだけひとりでの外出を控えて、近くの神社仏閣でお祓いをして、護符やお守りなどをいただいたほうがいいでしょう」
晃の答えに、頼子は複雑な表情を浮かべた。
「この一件の根本的な原因は、あの人形です。あの人形を浄化しない限り、完全解決にはならない。一応、この家の中に結界を張っておくことは出来ますが、強固な意思を持って入ってこようとする存在に対して、どこまで持つかということについては、はっきりということは出来ません。絶対的なものではないということです。それを承知していただけるなら、結界を張るところまでは今日中に出来ますよ」
頼子がそれを承知したとき、義彦が戻ってきた。
「だめだ。何かが落ちた跡さえ見つからない。どうなってるんだ、ほんとに人形が消えるなんて」
それを聞いた梨枝子が、ふと気がついたようにかすれ声でつぶやいた。
「……人形……。何で私、人形と話せたんだろう。人形と話が出来るわけないのに」
「今更なんだよ、姉貴。それは、姉貴がどうかしてたんだよ」
「いえ、そうではありません」
姉弟の会話に、晃が割り込んだ。
「あの人形は、意識を持っていました。梨枝子さんは、人形の意識に一時的に同調していたのです。だから、本当に話が出来た。気のせいではありませんよ」
姉弟は、晃の話が飲み込めず、呆気に取られている。そこへ和海がさらに割り込む。
「晃くんは、人形の意識と接触しようとしたから、そういうことがわかるのよ。結局、相手が頑として拒絶したから、やむなく力づくで梨枝子さんと人形の縁を切ったの。そのときのドサクサで、人形が消えてしまったんだけど……」
とにかく、結界を張ったほうがいいということになり、晃と和海は、塩と小皿を用意してもらった。家の各所に盛り塩をし、結界の要とする。
「小田切さん、家の人を連れて、外に出ていてください。一気に結界を張ります。十分と掛からず終わると思いますから、それまで三人を護っていて下さい」
晃の言葉に和海は、以前緊急に事務所に結界を張ったときと同じことをやろうとしているのだ、と気がついた。あのとき晃は、結界を張る姿を所長である結城にも、和海にも見せようとはしなかった。
和海は仕方なしにコートを着込み、頼子と義彦は梨枝子を支えて何とか立ち上がらせると、防寒具をそれぞれ着込んで、晃の指示通りに全員で外に出た。
それを確認して、晃は遼の力を呼び込んだ。冷たい炎が全身を駆け巡り、全身が冷え切り、それでいて燃え上がるように熱くなる。 本来は死霊のみが持つ霊力が、晃の持つ霊能力と合わさり、一気に増幅されて強大な力となる。
晃は、自分の“左腕”を視た。義手ではなく、遼が与えてくれた、霊気で出来た腕だ。
実体を持たないその“左腕”を伸ばし、先程作った盛り塩にその指先を入れ、“気”を直接込めていく。念入りに、じっくりと。
入り口である玄関、鬼門、裏鬼門、各部屋の窓、マンションの一部屋を、そっくり結界の中に囲い込んでいく。
結界が完成したところで、晃は遼の力を分離し、その反動の軽い虚脱感を抑えるために深呼吸をしてから、外にいる四人を中へ入れた。一歩入った途端、頼子がつぶやく。
「雰囲気が、明るくなってるわ。人形が来る前に戻ったみたい」
とりあえず、家族が中に入ったところで、晃は和海に話しかけた。
「家族の中では、お母さんがそれなりに霊感がありそうですね。梨枝子さんの場合、人形の中の“モノ”と波長が合っていたために、ああいう事態になったみたいです」
和海は、周囲に視線をやりながら、静かにうなずいた。
「そうね。雰囲気は感じてたようだし、“笑い声”を聞いたのもお母さんひとりだったみたいだし。……でも、相変わらず強力な結界ね。わたしや所長だったら、到底無理だわ」
そこへ、一旦奥に入った頼子が戻ってきて、二人に声をかけてくる。
「とにかく、お疲れ様でした。お茶でも入れますから、どうぞ」
それを聞き、二人も表情を緩めて申し出を受けることにした。
奥の居間で勧められた席に座って待っていると、頼子が栗羊羹を用意し、緑茶を入れてくれる。何でも、近所においしいと評判の和菓子屋が出来たのだそうだ。
「お袋、あんたが連れてきた彼、すっかり気に入っちゃったみたいでさ。さっきから妙にはしゃいでいるんだ」
義彦が、苦笑交じりに和海に告げた。和海がなるほどとうなずく。
そして梨枝子はというと、本人の部屋でベッドに寝かせたといい、横になってすぐに寝息をたて始め、今はぐっすり眠っている、と頼子は言った。
「もう、安心ですよね」
確認を取る口調が、やはりどこか華やいでいる。晃は、微苦笑しつつうなずいた。
(また、微妙な雰囲気になってきたなあ)
(何が微妙な雰囲気だ。お前がにっこり笑うと、大概の女はこうなるんだよ。もうちょっと自覚しろ。まったく“天然”なんだから。いつも言ってるだろう、お前がここで、かっこいい口説き文句のひとつでも口にすれば、大抵の女は落ちるって)
(遼さん、人形の行方がわかっていない今の段階で、そんな呑気なことしてられないってば)
晃と遼が話している間に、目の前に小ぶりの湯飲みが置かれた。暖かな湯気とともに、緑茶独特の香りがあたりに漂う。全員の前に一通り緑茶が置かれると、皆が着席し、しばしくつろぎの時間となる。
けれど、程なくして間宮家の二人も、晃の左腕が動く様子がないことに気づいた。しかし、それについても話を向けられない。
晃のほうが気がついて、左腕が肩口からそっくり義手なのだと告げた。高校二年生、十七歳のときに、交通事故で失ったのだ、と。
「そのとき、医者からは99%助からないといわれたそうですが、何とか命を取り留めて、現在に至っています。でも、今こうして生きているんですから、それで充分ですよ」
晃が微笑むと、二人も救われたように笑みを浮かべた。
緑茶を飲み終わったところで、和海が頼子に名刺を渡し、もしまた何かあるようだったら、ここに連絡してくれればいいと話した。
「今回は義彦さんからの緊急の依頼ということで、足代ほどいただければ結構です」
和海の言葉に、頼子はほっとしたようにダイニングから出ていき、程なくして白い封筒を二つ手にして戻ってきた。それを晃と和海にそれぞれ手渡し、今回の礼を言う。
「梨枝子を正気に戻してくれて、ありがとう。もしまたおかしなことが起きたら、またお願いするわね」
「はい。ただ、探偵事務所への依頼となると、調査料はそれなりに上がりますので、その点はご了承ください。あとは、梨枝子さんをゆっくり休ませて上げてくださいね」
そこへ、晃が口を開いた。
「ところで、ご主人は事情をわかっていらっしゃるのですか」
「一応は。人形を抱いたまま、食事のときでも手放そうとしなかった様子は見てるので、おかしいとは思ってるはずです。今日仕事納めで、もうすぐ帰ってきます」
「ご主人が、盛り塩を崩さないように、事情をきちんと話しておいてください。一ヶ所でも崩れると、結界が機能しなくなってしまいますから」
晃が念を押すと、頼子はうなずいた。
そして、再び義彦が送っていく形で、二人はマンションをあとにした。
「あの人形が、あの結界で諦めてくれればいいんですが」
後部座席の晃のつぶやきに、義彦が運転席から話しかけてくる。
「あの人形、本当に消えちゃったのかい」
「ええ、あの場からは。よほど、僕と接触するのがいやだったんでしょうね」
それには、その場にいた和海もうなずいた。
「確かに。晃くん自身は、話し合いでどうにか出来ればって思っていたのはよくわかったけど、向こうがシャットアウトだったものね」
そこで和海は、改めて隣に座る晃に目をやった。
「ところで、晃くんはあの人形、どう思う」
「“視た”感じでは、相当な“モノ”ですね。あれが、人形の中で自我が目覚めて付喪神と化したものか、人形を依り代として別な“モノ”が入り込んだのか、まだ判別出来ないんですが。直感的には、付喪神に近いとは思うんですが、何か異質な要素も感じたもので……」
「もしかして、正体を察知されるのがいやだったのかしら」
「可能性はあります。あれだけ拒絶したのも、長時間接触すると、正体を完全に見極められてしまうという恐れからだったのかもしれません」
二人の会話を聞きながら、義彦は大きく溜め息をついた。
「……オレ、よくわかんないな。そういうの、全然感じないから」
「いや、感じないというのも幸せなことなんです。余計なものを“視”なくて済みますからね」
晃が、どこか諦観したような笑みを浮かべた。