04.消えた人形
二人は、なおも周囲を見回し、気配の出所を探ろうとしていたが、二人とは違って強くは気配を感じない頼子の方は、晃の飛びぬけた容貌に釘付けになっているらしい。すぐ隣の自分の息子をつついて、妙にはしゃいだ声を出すのが聞こえる。
「あの子、きれいな子ね。タレントさんか何かなの?」
「さあ……。小田切さんからは霊能者だって聞いたけど。それよりお袋、あんまりみっともないまねすんなよ」
「どうせだったら、こんな痣なんかないときに来てくれればよかったのに」
「……いい加減にしろよ、年甲斐もなくみっともない」
そのとき、和海が頼子に問いかけた。
「お姉さんの部屋というのは、どこなのですか」
その声に我に返ったように、頼子は慌てて近くのドアを示した。
「ここです。今も、娘はこの中に閉じこもっているんですよ」
和海は一度ノックをすると、慎重に、ドアノブに手をかけ、開けようとした。だが、まったく動かない。それどころか、ノブを握っているのも苦痛になるほどの拒絶の意思が、その手にはっきりと伝わってくる。何とか、中の存在との接触を試みるが、拒絶の意志が強すぎて、取り付く島がない。次第に、ノブを握る掌に、針を突き刺されるような痛みが走り始めた。
我慢し切れなくなって手を放すと、和海は顔をしかめたまま首を振った。
「……わたしじゃ開けられない。物凄く拒絶されてる」
義彦が首をかしげながら、中に声をかけつつドアを開けようとした。
「姉貴、お客さんだよ。入るよ」
だが、義彦がいくらドアノブを回しても、ドアはびくともしない。
「あれ、姉貴の部屋、鍵付けたの?、お袋」
「誰も鍵なんて付けてないよ。小一時間くらい前、普通にドア開けて一回梨枝子の様子を見たんだもの。そのときは、人形抱いて、ニコニコしてたんだよ、機嫌よさそうに」
そのとき、晃が進み出た。
「皆さん、僕が開けます。他の人は、下がってください」
頼子と義彦は、和海に促されてドアから離れ、様子を見守ることになった。
晃は右腕をドアノブに向かって伸ばし、掌をノブのすぐ前まで持ってくると、目を閉じて念を込め始めた。
掌からは、中に入れさせまいとする意思をはっきりと感じる。ゆっくりと深呼吸しながら、中の気配を探ってみる。まるで、二人いるような気配だった。
その二人の片方が、強く拒んでいるのがわかる。もう片方は、ほとんど意思が感じられない。おそらく、そちらが梨枝子のほうだろう。本来、人間が人形を抱いているはずだが、気配からすると、人形のほうが人間の上に立っていると感じられる。
晃は、拒絶している気配に向かって、もし拒絶し続けるならば、力づくで入らざるを得ないことを思念で伝え、話し合いをするためにも、入れてくれるように訴えた。
だが、あくまでも拒絶の意思は変わらなかった。晃は、力づくで入ると告げると、右手を頭上高く差し上げ、人差し指と中指を揃えて伸ばすと、鋭い気合の声とともにドアを刀で切るかのように振り下ろし、ドアを封じていた拒絶の念を断ち切った。
間髪いれず、ドアノブに手をかけると、今度は何の抵抗もなくドアは開いた。素早く部屋の中に踏み込む晃に、和海が慌てて後を追う。
部屋の奥、カーテンの引かれた窓のすぐ傍らに、目を吊り上げた女性が、市松人形を抱いて仁王立ちになっているのが目に飛び込んできた。
しかし、部屋を圧するほどに憤怒の気配を迸らせているのは、紛れもなく人形のほうだ。
肩ほどの長さの黒い髪は、まるで生きている人間の髪のように艶やかな光を帯び、風もないはずの室内で、ゆらゆらと揺れている。 一瞬エアコンの風かと錯覚するが、梨枝子が立っているのはエアコンの真下で、あんな風が吹くはずはなかった。
胡粉を塗った白い顔は、唇こそ微笑の形に結ばれているが、その目は濡れたように黒々と、部屋に入ってきた闖入者二人を睨みつけているようだ。
萌黄色の着物は、ずっと抱き続けだったというわりには、少しも崩れたところがなく、つい先程着付けたかのように見える。
着物の袖口から覗く手は、やはり胡粉を塗られた白い手だったが、わずかながらに胡粉が剥げ、生地が見えている。けれど、その圧倒的な存在感から、今にも動き出しそうにさえ思えた。
市松人形は、全体の大きさは五十センチにも満たない。それが、敵意を剥き出しにして二人に対峙していた。
“立ち去れ”
“声”ではない“声”が、二人に向かって告げる。怒気を孕んだそれは、和海を後ずさりさせた。しかし、晃はじっと見つめたまま、人形に語りかける。
「あなたは、何が望みなのですか。何をしたいのですか。事情によっては、お手伝い出来るかもしれない。話して下さい」
だが、人形は頑なに心を閉ざしたまま、晃を“睨み”つけた。
晃は、何とか人形の“心”に接触しようと試みたが、怒りと拒絶しか感じられない。
もはや、力づくで梨枝子と人形の縁を断ち切るしかないと判断した晃は、和海に合図してゆっくりと梨枝子に近づいていく。
そのとき、梨枝子が突然カーテンを開け放つなり、窓を開けた。窓の外は、小さなベランダになっている。そこに梨枝子は飛び出した。
「いけないっ!!」
咄嗟に、晃は梨枝子を凝視する。刹那、今にもベランダの手すりを乗り越えそうだった梨枝子の動きが、凍りついたように止まった。
和海が大急ぎで駆け寄ると、硬直した梨枝子の体を引きずるようにして室内に戻し、晃も駆け寄り、素早く窓を閉めた。
晃は金縛りを解いたが、直後にあることに気づき、あたふたと窓を開けると、ベランダへと飛び出した。手すりから下を覗いてみたが、そこにはちょっとした植え込みがあるだけで、異物は見えない。
「……消えた。人形が消えた……」
茫然と振り返る晃に、和海も信じられないとばかりに首を横に振った。梨枝子の腕の中に、あの市松人形はなかった。梨枝子は、真っ青な顔をしたまま、力なく横たわっている。
「とにかく、縁を断ち切らないと、何が起こるかわかりません」
晃は再度窓を閉め、梨枝子を自然な姿勢で寝かせると、右手の人差し指を梨枝子の額に当て、彼女の中に残っている、魅入られたが故の人形への異常な思い入れなどを探り出し、引き寄せ、念の力によってそれを断ち切った。梨枝子から断ち切った“思い”を天に差し上げて浄化し、ひとまず祓いは終わった。だが、晃の顔は曇ったままだった。
「人形が、“気”を吸い取っていったようですね。梨枝子さんから吸い取った“気”を使って、自分は逃げたんでしょう」
そこへ、恐る恐る頼子と義彦が部屋の中に入ってきた。
「姉貴、大丈夫か」
義彦の問いかけに、和海と晃は顔を見合わせ、晃は咄嗟に梨枝子の額に手を当て、少し“気”を補った。梨枝子の顔色が、わずかに戻る。
「顔色が真っ青じゃないの。大丈夫なの?」
頼子が、心配そうに覗き込む。
「人形に、“気”を吸い取られたんです。ゆっくり休ませれば、そのうち回復するはずです。一応、人形との縁は断ち切っておきましたが、まだ安心とは言い切れないですね」
晃の言葉に、その場の全員が晃を見た。
「……それ、どういうこと」
思わず尋ねる和海に、晃は言った。
「すべての元凶だった人形が消えてしまったんですよ。これは、大変なことです。本当は、人形の中にある想いこそ、浄化しなければならないものなのに、姿を消してしまったんですから。一度は縁を断っても、また人形を見たら、魅入られるかもしれない。それが、一番怖い事態です」
「あら、そういえば、人形がないわね」
頼子が、改めて気づいたという顔をした。義彦が、怪訝な顔で晃を見た。
「消えたって、そんなことがあるはずない。姉貴が、窓から放り出しでもしたんじゃないの」
「僕も、真っ先にそれは思いつきました。だから、窓から下を覗いて確認したんです。いくらここが七階でも、それらしいものが下に落ちていればわかるはず。でも、何もありませんでした」
「そんな馬鹿な。オレ、確認してくる」