02.和海からの頼み
大晦日を翌日に控えた朝、さすがに遅く起きた早見晃は、いつものようにブランチを取ると、部屋に戻ってのんびりとビーズクッションの上に座っていた。
(お前、蜂蜜トーストと牛乳好きだな。休みの朝なんかちょくちょく食べてるが、よく飽きないなあ)
遼の呆れ声がする。遼は、晃の中に宿る幽霊で、晃の超常の力の源となる存在であり、晃の親友でもある。
(食べ慣れた味だし、自分で用意して食べられるからね。遼さんは、甘いもの駄目なんだったっけ)
(ああ。俺は酒のほうが好きだったからなあ。おまけに、デザートがバナナかよ。甘いもんばっかり。甘党だよなあ、お前は)
(栄養のバランスにうるさい母さんが、否応なしに付けてくれたものだけどね)
休みの日のブランチは、自分ひとりでも簡単に用意が出来るトーストなどで済ますことが多い。
高校二年のときの交通事故で、左眼と左腕、左肺を失ったこともあり、母の智子が必要以上に手を出そうとしてくるので、それを嫌って自分でも用意が出来るトーストに牛乳という朝食になることが多かった。なかでも、子供の頃から食べている蜂蜜を塗った甘いバタートーストは、晃にとって朝食の定番メニューだ。
そのとき、傍らにおいてあった携帯電話がトッカータとフーガを奏でる。
着信を確認すると、小田切和海からだった。超常事件の調査を裏家業にしている結城探偵事務所の女性だ。いつものように、事件の助っ人の依頼だろう。
結城探偵事務所は晃にとって、自分の能力を認め、活かしてくれる大切な場所だった。
「小田切さん、また何かあったんですか」
「それがね、今回は正規の依頼じゃないんだけど、聞いてくれる」
「はあ?」
和海の話は、こうだった。
以前、秘書資格を取った専門学校時代の同期生に、間宮義彦という人物がいた。一緒に遊びに行くことが多かった友人のひとりだったのだが、その彼から、昨日急に連絡があった。姉の様子がおかしいので、様子を見に来てほしいというのだ。
彼は、和海がいわゆる“霊感”の強いたちだということを知っていた。それで、様子を見て欲しいと頼み込んできたという。
「年末年始休暇で家に帰ってきたら、お姉さんの様子がすっかりおかしくなっていたというの。いつも市松人形を抱きかかえて放そうとしないし、人形に話しかけては意味もなく笑っていることが多いのだそうよ。魅入られたんじゃないかって思うんだけど……」
「そうですね。魅入られたのだとしたら、厄介なことになるかもしれません。……わかりました。フォローに入りますよ」
晃がそう言うと、和海は弾んだ声になる。
「ありがとう。後で、おいしいイタリアンでも奢るわね。そういえば、今度成人式でもあるんだし、成人祝いも兼ねて、奮発するわ」
今日の午後二時に、駅前のハンバーガーショップで待ち合わせることになり、そこで電話は切れた。
(なんか、厄介ごとを持ってきたなあ、あの姐ちゃん。人形ってのは、人の写し身だから、いろいろ抱え込んでる場合があるからな)
(わかってる。だから、かえってひとりで行かせるのが心配になったんだ。たとえ“本気”にならなくても、僕が行けばフォローは出来る)
(気になるか、あの姐ちゃんが)
(遼さん、からかわないでよ。僕がどう思っているかは、遼さんもわかってるだろう)
(わかってる。冗談だってば。お前は堅物だな、まったく)
晃は時計を確認した。午後一時を少し回ったくらいだ。晃は愛用のワンショルダーを引っ張り出すと、一旦セーターやシャツを脱ぎ、義手を無骨な能動型のものから、見た目が目立たない装飾用のものに変え、左手に手袋をはめる。
隠すつもりはないのだが、やはり気づく人は気づくので、他人の表情の変化を見るのがなんとなく嫌だった。冬の間は、手袋をしていても不審に思われない。
立ち上がって、パソコンデスクの上においてある掌大の鏡を右手で取って、覗き込む。義眼の見た目がずれていたりしないかを確認するためだが、否応なしに自分の顔が目に入る。自分の顔を否定するわけではないが、この顔のせいでかえってクラスメイトから浮き上がってしまった記憶しかない。
(自分の顔を否定的に見るなよ、晃。お前、半端じゃない美形なんだぞ。まあ、そのせいで浮き上がった経験がそうさせるのかも知れんが……)
遼が、慰めるような、激励するような口調で声をかけてくる。
晃はかすかに微笑むと、直後に溜め息をついた。
(もう、こういう話はやめよう。これから、霊視に行くんだから)
(わかった、わかった)
それから晃は、時間を見計らって、智子には友人と約束して遊びに行く、と言い残し、ナイロン製のカジュアルな紺色のコートを着込んで早めに家を出た。
駅までは歩いて五分ほど。駅ビルはショッピングセンターになっているので、晃もよく買い物に来る場所だ。その駅ビルのすぐ隣のビルの一階が、目的のチェーンのハンバーガーショップになっている。
晃は、外からまず眺めてみた。全面ガラス張りで店内がよく見える造りになっているので、中にいる人がよくわかる。和海は、まだ来ていなかった。
晃は、注文カウンターでホットコーヒーと一番安いハンバーガーを頼んで、わざと外からよく見える席に座った。ガラスは、ちょうど座った人の顔辺りがスモークガラスになっていて、外からは顔が見えないように工夫されている。
晃は、バーガーをゆっくり齧りながら、和海が来るのを待った。
和海は約束の時間より五分遅れてやってきた。駅からこっちへ、小走りにかけてくる姿が、遠目にも和海とわかった。わずかに赤みを帯びた茶色のコートの上から、晃も見慣れた愛用のショルダーバッグを提げている。
和海は、晃がすでに来ていることに気づいたらしく、そそくさと店内に入ると、ホットコーヒーだけを頼んで晃の向かい側に座った。
「ごめん、家を出る直前に別な知り合いから電話が入っちゃって、遅くなったの。長く待った?」
和海が首をすくめる。晃は笑いながらかぶりを振った。
「たいして待ってませんよ。それこそ十分も待ってませんから」
二人は、世間話もそこそこに、さっそく本題に入った。
晃に連絡した直後、再度間宮の家に電話で詳しく話を聞いたところ、姉の梨枝子が抱えて放さない人形は、一週間ほど前に亡くなった伯母の形見で、寺社に納めて供養してもらうことになっていたものを、自分が引き取ると言い出して聞かなくなり、誰も止められない勢いで家に持ち帰ってしまったものだという。
「それで、人形の出自はわかってないんだけど、伯母さんが若かった頃、骨董屋で買ったものだという話だったから、人形自体も相当古いもののはずよ。直接見たわけじゃないから断定出来ないし、わたし自身詳しいわけじゃないからなんとも言えないけど、どんなに新しくても昭和初期、もしかしたら、明治期のものかもしれない。そういう古い人形なら、人の想いを吸って魂を持ってしまっても、不思議はないわよ」
「完全に魅入られましたね。魅入られているから、自分がしていることの異常さに気づいていないんですね」
「私もそう思うわ。もしかしたら、かなり本格的な祓いになるかもしれないわよ」
和海は言いながら、薔薇色の石を晃の目の前に示した。それは、約一ヶ月前に関わった事件の折に、晃が護り石として和海に渡したものだ。
「それで、悪いんだけど、もう一度“気”を込めてくれないかしら。仕事と直接関係ないところの出先で、偶然性質の悪い霊に出くわして、何とか祓えはしたんだけど、護り石の力を相当使っちゃったのよ。ほら、全然弱いでしょ」
一目見て、晃が込めた力がすっかり弱くなっていることが見て取れる。
晃は内心苦笑した。この場で、おいそれと“気”を込めるわけには行かない。それをするためには、遼の力を呼び込み、超常の力を呼び起こさなくてはならないからだ。
そんなことをすれば、普段は霊能者にも気づかれない遼の存在が、露わになってしまう。
「急に言わないでくださいよ。“気”を込めるのだって、それなりの時間と気合が必要なんですから。いくらかでも消耗もしますしね。いうなら、早めに言ってください」
晃が頭を掻くと、和海も苦笑しながら石をしまった。
「そうよね。ごめんね、晃くん。つい、あなたの能力の高さに甘えちゃうのよねえ。悪い癖だってわかってはいるんだけど」
晃と和海では、同じ霊能者でもその能力の高さが断然違う。和海がひよっ子だとすれば、晃のそれは老練な術者に匹敵する。だから、つい頼ってしまうのだった。
「とにかく、問題の家へ行きましょう。本人に会って、状況を確認しないと」
晃が、最後のコーヒーを飲み干した。それを見た和海も、ぬるくなりかけたコーヒーをさっさと飲み干し、二人同時に席を立つ。
ダストボックスに空のコーヒーの紙容器やバーガーの包み紙などを棄てると、トレイを所定の場所に重ね、店を出た。