01.プロローグ
投稿再開します。
ここから第三話となります。
間宮梨枝子は、もう寝ようと思う頃になると、誰かに見られているような気がすることに気づいていた。その視線はどこから来るのだろう。
自宅にいながら感じるその不思議な眼差し。それは、ここ何日かのことだ。あと数日で今年も終わるという押し詰まった時期に、何故こんな感じがするのだろうか。おかしなことに、怖さは感じない。でも、何かが引っかかる感じがする。
辺りを見回してみても、特に変わり映えのしない子供の頃からの自分の部屋だ。両親が、自分が小学校低学年の頃に、住宅ローンを組んで買った分譲マンションの一室。両親が与えてくれた、自分の部屋。
たったひとつの窓には、星座の模様の遮光カーテンが引かれ、この間の冬のボーナスをはたいて買った真新しい液晶テレビが目立つぐらいで、あとは見慣れたものだけのはずだった。
梨枝子は、フローリングの床に敷いてあるホットカーペットに座ったまま、考えをめぐらし、ふと、ひとつだけ思い当たるものがあるのに気がついた。
それは、先日亡くなった伯母の元から、形見分けでもらってきた人形だった。
伯母が若い頃、骨董屋で買い求めたという古い市松人形で、まだ働き盛りの五十三歳で癌に倒れたとき、家に置いておくのは可哀想だからと病室にまで持ち込み、病院関係者を呆れさせたという逸話のある人形だった。
母や弟とともに出席した葬儀のあとの形見分けで、何故かその人形に心惹かれ、引き取って自分の部屋に持ってきてしまったものだ。
幼い頃から可愛がってくれた伯母は、結婚することもなく働き続け、いわゆるキャリア・ウーマンの先駆けのようなことをした人だった。時折ひとり暮らしのマンションに、母とともに遊びにいくと、決まって見せてくれたのが、あの市松人形。
黒く艶やかなおかっぱの髪は、肩にかかるほどの長さにきれいに揃えられ、胡粉を塗られた白い顔には、優しい少女の微笑が浮かんでいた。着物は、伯母が新たに買い求めていたらしく、そのたびに違ったものを着ていたが、それは伯母に可愛がられている証拠だと、子供心にはっきりとわかる。そういう人形だった。
いつしか伯母の家から足が遠のき、伯母本人には時々顔を合わせていても、人形は見ない日々が続き、葬儀の場で対面するまで、人形の存在まで忘れていた。
だが、あの日人形を見た途端、人形が可哀想になって思わず自分が引き取ると言ってしまった。寺社に納めて供養した後、お焚き上げをしてもらおうという話を親族がしていたのを小耳に挟んだからだ。
そういえば、伯母がこの人形と出会ったのも、今の自分と同じ二十代半ばのときで、自分が生まれてまもなくのことだった、と聞いたことがある。
「結婚して子供が生まれた妹を羨ましく思っていたとき、ちょうどこの子に会ったのよ」
伯母は、いつもそう言ったあと、だからこの人形は自分にとって娘だと言っていた。
梨枝子は立ち上がり、ローチェストの上に座らせてある市松人形のところへ行った。人形は、あどけない表情を浮かべたまま、梨枝子を見ているようにも見える。
今の彼女が身につけているのは、伯母が最後に着せたのだろう柔らかな萌黄の縮緬の着物に紅色の帯。色の対比が鮮やかな、それでいてどこか落ち着いた取り合わせだ。
伯母らしい、と梨枝子は改めて思った。
そのとき梨枝子は、初めてどこかに違和感を覚えた。それがなんなのかはわからない。けれど、違和感など覚える自分がおかしいのだ、と思った。
「ねえ、あなた、なんて名前なの」
人形に向かってふと問いかけたとき、梨枝子の脳裏になんとなく『喜美子』という名前が浮かんだ。
「『喜美子』なの。あなたの名前、『喜美子』なのね」
梨枝子が微笑むと、人形が微笑み返してくれたような気がした。
「喜美子ちゃん、よろしくね。伯母さんの代わりに、私が可愛がってあげる」
梨枝子は、人形を抱き上げた。急にいとおしさが募り、そのまま抱きしめる。
伯母が、“この子は自分の娘”と言っていた言葉が、急に実感出来るようになった。
喜美子ちゃん、喜美子ちゃん。今まで、抱きしめてあげなくてごめんね。寂しかったね、悲しかったね。もう大丈夫。私が可愛がってあげる。私が可愛がってあげる。
梨枝子は、人形を抱きしめたまま、部屋の真ん中に立ち尽くす。
そのとき、部屋のドアがノックされた。ドアの向こうから、母の頼子の声が聞こえた。
「ちょっと、梨枝子。こんな夜遅くに、誰と話しているの? 笑い声が響いてうるさいわよ。ご近所迷惑だから、やめなさい」
梨枝子は、一応わかったとは言ったものの、母の言葉の意味が、まったくわからなかった。うるさいって、どういうこと? 笑い声って、何を言っているの?
「おかしいわよね、喜美子ちゃん」
梨枝子が話しかけると、人形がうなずいたように思った。
なんだか、人形の表情が生き生きしてきた気がする。きっと、喜んでいるんだ、この子。
梨枝子は無性にうれしくなった。まるで本物の赤子をあやすように、人形を抱きかかえて揺らしてやると、人形が喜んでいると感じた。
突然ドアが乱暴に開けられ、頼子が血相変えて飛び込んで来た。
「いい加減にしなさいっ! うるさいってさっきも言ったでしょうがっ」
頼子は、またもうるさいほどの笑い声が聞こえたといった。
「マンションの壁を通して、隣の部屋に聞こえるほどの笑い声だったのよ。あれじゃご近所にも聞こえるわよ。いい加減にしなさいよ」
頼子は本気で怒っているが、梨枝子には何のことなのかさっぱりわからなかった。
「よく見てよ、お母さん。誰かいるって言うの? 私以外誰もいないでしょう。ケータイで話をしてたわけでもないし」
梨枝子にそういわれ、頼子は首をかしげた。
「……変ね。確かに、笑い声が聞こえたんだけど……。なんだか、若い女性みたいな、甲高い笑い声が」
「いやだ、お母さん。ここにもうひとりいるわけないじゃないの」
そういって笑う梨枝子に、頼子は不意に言った。
「ちょっと。その人形、笙子姉さんの形見の人形じゃないの。なんでこんな時間に、人形なんか抱いているのよ」
梨枝子は、急に腹が立った。自分の大切な時間を、否定された気がしたのだ。
「お母さん、口出ししないでよ。何してたって、いいじゃない。この子は私が引き取ったんだから」
頼子を無理に追い出すと、梨枝子は再び人形を見つめる。人形は、気にしないでいいと言っているような気がした。
「ごめんね、喜美子ちゃん。うちのお母さん、あなたのこと、理解出来ない人だから」
梨枝子は、時間を忘れて喜美子に小声で話しかけた。大声を出して、また母親に怒鳴り込まれたくないと思ったからだ。
そのうちに、梨枝子は人形が自分の話に答えを返してくれていると思えるようになった。
「喜美子ちゃん、話が出来るの?」
“人と話したのは、何十年ぶりよ”
「伯母さんとは、話さなかったの?」
“あの人は、私の声が聞こえなかったの。愛情込めて、大事にしてくれたけど”
「私とは、話が出来たわけね」
“そう。だから私はうれしいの。あなたなら、きっと……”
「何、何かして欲しいの?」
“そう。あなたなら出来るわよ……”
人形が、ひときわうれしそうに笑った気がした。
それを“視て”、梨枝子もなんだかうれしくなって、にっこりと微笑んでいた……