28.エピローグ
結城と和海は、天と地がひっくり返ったような慌しさからやっと解放され、病院のロビーのベンチに座り込んでいた。二人のその手には、売店の自動販売機で買った缶コーヒーが握られている。結城はそれを一口飲み、しみじみとつぶやいた。
「それにしても、疲れたな。持田さんが早見くんと一緒に帰ってきたはいいが、早見くんは消耗しきって気を失うし、持田さんは茫然自失で詳しい事情は聞けないし、二人が戻ってくる瞬間をまともに見た林田さんは、パニック起こした挙句に救急車を呼んでくれるし、もう何がなんだかわからんうちに、嵐が通り過ぎていったような気がする」
「……ほんとですよねえ。私も、途中から意識が飛んでいたから、我に返ったら晃くんが倒れてて、持田さんが座り込んでて、林田さんが『救急車っ!』って叫びながら展示室を飛び出していって、所長は何から手をつけたらいいかって顔しておろおろしてるし……」
結城は深い溜め息をつくと、和海に向かって本当に何も覚えていないのかと訊いた。
「おそらく、体のあちこちに、痣が出来ているはずだぞ。取り憑かれて我を失い、大暴れしたんだが……本当に覚えていないのか?」
「そうだったんですか。そう言えば、なんだか体のあちこちが痛いと思ったんですよ。でも、そういうことになったということは、やっぱり除霊は出来なかったんですね?」
和海が軽く結城を睨む。結城は肩をすくめ、否定はしないと言った。
「だから、なんとしてでも人様に襲い掛かることがないように、必死に押さえていたよ。だからこっちも、あちこちぶつけて痣だらけだ」
結城は、和海が正気に返ったときのことを思い出していた。
それまで、笑いながら暴れていた和海に取り憑いた霊体が、急に苦しみ出したかと思うと白目を剥いた。一瞬焦ったものの、それが和海自身に起因するものではなく、取り憑いた霊がおかしくなっているのだと気づいた。
やがて、男の野太い声で“俺は行きたくない”とか“放せ”とか喚き散らしたが、一度大きく体を震わせたあと、不意に霊が離れた。いや、離れたというよりは、その存在が消え去ったというように“視えた”。
その数瞬後、和海が目を開けて起き上がってきたのだ。
そのとき感じた、恐ろしいまでの静謐な雰囲気を、結城は忘れることが出来なかった。
おそらくは、取り憑いていた霊を通して繋がっていた“何か”の最後の残滓を感じたのだろう。
その直後だった。写真の前の空間が直径一メートル半ほどの渦を巻いたかと思うと、その中から晃と行方不明だった持田裕恵が飛び出してきた。二人を吐き出したあと、程なくして渦は消え、展示室にあった異様な気配は、すべて消え去った。
そして、自分のすぐ隣に二人が倒れこむように着地したためか、和海はそれで完全に我に返った。
事情を聞きたかったがそれも出来ず、やむなく、林田が呼んだ救急車が到着した時点で、二人を病院へ連れて行くことにしたのである。
意識のない晃がストレッチャーで運ばれ、座り込んだままろくに返事も出来ない状態だった裕恵は、やはり様子がおかしいからと、救急隊員に抱きかかえられるようにして救急車へ向かった。
結城が二人に付き添い、到着後にどこの病院に収容されたか連絡を受けた和海が、軽自動車で駆けつける形になった。
一通り緊急の検査を受け、その結果を医師が確認して、二人してそれを聞かされたところだった。
晃は、極度の疲労状態で、しかもどうしてこれだけ消耗したのかわからないと医師が首をひねるほどひどい有様で、今は点滴を打たれている。
裕恵のほうは、精神的なショックが相当強いものの、体そのものは軽い脱水症状程度のものだったという。彼女もまた、今は落ち着くまで休ませたほうがいいという病院の判断で、充分な水分を取った後、ベッドで横になって休んでいる。
結城はふと、腕時計を確認した。午後八時半を少し回ったところだった。
「たかだか二時間ほどの騒ぎだったんだな……。もっと長い時間、経っていたような気がする」
「……わたしも、人生で一番長い二時間だったかも知れませんね」
和海もそう言うと、喉を鳴らして缶コーヒーを一口飲んだ。
一応裕恵の身分は病院に明かしたし、クライアントである深山春奈には、先程連絡を済ませた。そのうち、駆けつけてくるに違いない。彼女から、あるいは春奈本人から、家族のほうにも連絡がなされるだろう。
自分たちの“公の仕事”は終わった。安堵感とも虚脱感ともつかぬものが、二人を押し包んでいた。
そのうち結城が立ち上がり、林田に連絡してくると言って、玄関から外に出る。スマホを取り出すと、電源を入れて着信を確認した。見慣れない番号がいくつか着信している。よく見ると、林田の自宅の電話番号だった。心配して、かけてきたのだろう。
結城はさっそく、林田の自宅に電話をかけた。
「はい、林田でございます」
林田の娘の声がした。
「先程はお騒がせしました。結城です。政之助さんは、もうお休みですか」
「いいえ、まだ起きています。父も、皆さんのことは、ずいぶんと案じておりました。今、代わりますので」
保留の電子メロディがしばらく流れていたが、やがてそれが途切れ、林田の声が聞こえた。
「結城さん、林田です。どうですか、様子は」
「いろいろ大変なものをお見せしまして、さぞ驚かれたでしょう。すべては、悪い夢でも見たと思って、お忘れください。早見くんのほうは、今点滴を受けて休んでいます。過度の疲労という診断でしたから、今日のうちに自宅へ帰れるでしょう。もうひとりの女性のほうも、精神的なショックを受けてはいるものの、体のほうはたいしたことがないということで、身内の方にも連絡をしましたから、ご心配なく。それで、こちらも少々お聞きしたいことがあるのですが、よろしいですか?」
「はい、なんでしょうか」
結城は、パネルの裏に隠されるように置かれていた品物や写真は、どういうわけであのようなところにおいてあったのか、と問いただした。
林田は、恥ずかしそうにこう言った。
「あれは、一時よそに貸し出してあったんですよ。『昭和と戦争展』という展示会に、一ヶ月ほど貸していて、ほんの一週間ほど前に戻ってきたばかりだったんです。ただ、それなりの数があったもので、早く片付けて展示し直さなければと思いつつ、ちょうど風邪を引いてしまいましてな。やっと治ったところに皆さんから連絡がありまして、やむなく見た目だけでもと思い、未整理の品をパネルの後ろに隠しておいたわけでして……」
「なるほど」
結城は、その展示会がどこであったのかを尋ねた。すると、かなり規模の大きい博物館での、特別展示だったという。そして結城は、その博物館の場所が、深山春奈と持田裕恵が勤めていた会社から程近いことに気がついていた。
『神隠し』に遭った持田裕恵は、その特別展示を見にいったに違いない。そして、“あの写真”を見てしまったのだろう。
すべてはまだ憶測に過ぎないが、そう考えると辻褄は合う。
「わかりました。いろいろご迷惑をおかけしましたが、その代わりあの場に凝っていた思念や、想いを残した霊は、すべて祓い清めました。あと、ご自宅のほうにも、何か品物が置いてあるはずです。それも、霊能者の方にお願いして、祓ったほうがいいですよ。能力を持つものとして、老婆心ながら、ご忠告します」
「わかりました。ありがとうございました……」
林田は、心底感謝を滲ませた声で礼を言い、二人は会話を終えた。
電話を切ったあと、結城は大きな息をひとつ吐き、空を見上げた。きれいな星空だった。
「……都会の空でも、結構見えるもんだな」
そうつぶやいた結城の背後から、看護師が近づいてきた。
「早見さんが、目を覚ましましたよ。女性の方は、もう面会に行きました」
「ああ、そうですか。今から行きます」
看護師に続いて病院の中に戻りながら、結城はもうひとつの厄介ごとがあったことを思い出した。晃の両親に知られないように、事態をごまかすにはどうすればいいだろうか。
保険診療をしてもらうには、晃の自宅に連絡して保険証を持ってきてもらう必要があるが、そうでなくても目を付けられている状態で、さらに救急車を呼ぶような事態になったと知られたら、何を言われるかわかったものではない。
「全額自己負担ということにして、自宅連絡しないで済ませてもらうか……」
結城は、余計な出費に頭痛を覚えた。
これで、第二話終了となります。
何日かお休みし、第三話の投稿を始めます。