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ある異能者の備忘録  作者: 鷹沢綾乃
第二話 神隠し
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27.帰還

 晃の挑発は功を奏したようで、陰気の塊は一気に晃に覆いかぶさってきた。体感温度は急降下し、あたりは粘りつく闇に閉ざされる。あの時と同じ、空気の密度さえ変わったような、何も見えない闇。それは、本来人間が本質的に持つ“闇に対する恐怖”を増幅させるもの。だが、晃の心に、動揺はなかった。晃には、相手の動きが“視え”ていた。

 晃はしばらく周囲を見回すと、方向を見定めて“左腕”をまっすぐに突き出し、目の前の闇をわしづかみにした。途端に、背後から闇が裂け、地平の仄明かりが見えてくる。

陰気の塊は、晃の手を振り解こうと、激しく暴れた。茫洋とした姿が急速に輪郭がはっきりし、漆黒のアメーバのようになって晃の“左腕”に巻き付き、締め付け、さらに偽足のごときものを突き出し、晃の体を突き放しにかかった。

 一撃受けるたびに、魂が削られていくような、一瞬体の力を抜き取られるような、異様な感覚に襲われる。

 だが晃は、歯を食いしばってこらえた。晃には“視えて”いた。自分が摑んでいるものが何であるのか。それは、陰気の塊の一部ではなく、それを通して“視えた”旧日本兵の霊の襟首だった。絶対に、放すわけにはいかない。

 「……すべてを終わらせるためにも、お前を祓い清めなければならないんだ……」

 晃の見つめる先には、旧日本兵の姿があった。襟首を摑まれ、苦しげにもがいている。その動きが、“手ごたえ”となって伝わってくる。

 「……本当なら、お前も被害者だ。それはわかっている。だが、だからといってこのままにしておくわけにはいかないんだ。お前自身のためにも、僕はお前を祓う」

 晃は、残された力を全開にして、霊界への道を開こうと試みた。目を閉じ、霊界へと繋がる道を、懸命に思い浮かべようとする。

 しかし、陰気の塊が偽足を叩きつけてくるたびに、体の力が抜けそうになる。座り込まないようにこらえると、精神集中が乱れてくる。

 (こいつら、あくまでも成仏する気がないな。晃、まだ持つか)

 (……ぎりぎり。このまま膠着状態になったら、倒れる……)

 (頑張れ、もう少しだ)

 遼の声に励まされ、晃は霊界への道を思い浮かべ、自らを媒体として道を開こうとした。

 ゆっくりと、山道が見えてくる。うっそうとした森の中を通る、昼とも夜ともつかぬ細く険しい山道だった。その道を、まるで人ひとり背負っているかと思うほど動かない体を引きずりながら、喘ぐように登っていく。

 後ろからは、絶えず背後の急な斜面に向かって引き摺り下ろそうとする力を感じているが、死に物狂いでそれに抗い続け、登り続ける。

 絶対に引き返すことは出来ない。確かに引導を渡すまで。

 あともう少しで登りきるというところで、いきなり背後から首を絞められた。夢中でその手を振り解き、相手の手首を摑んだまま振り返ると、血走った目が眼前に飛び込んできた。旧日本軍の軍服を着た男が、晃に向かって目を剥いている。

 「……みんな、みんな敵だあ。ぶっ殺してやる」

 しかし晃は、悲しみとも哀れみともつかぬ眼差しで見つめるだけだった。

 「……哀れな人だ。普通なら犠牲者であるはずなのに、狂気の思念が残ってしまったばかりに、加害者に等しくなってしまった……」

 男は、晃の言葉など耳に入らないようで、激しく暴れながら、憎悪と殺意をぶつけてくる。晃はもう何も言わず、男の手を引っ張って上り始める。

 男は喚き散らし、晃を背後から闇雲に殴りつけながら、手を振り解こうとした。けれど晃は、手首を摑んだ手を離さない。

 男に殴られるたび、背中や後頭部に衝撃が走る。一瞬息がつまり、動きが鈍くなる。しかし、歩みは止めない。

 やがて、晃は山道を登りきった。急に視界が開け、お花畑が広がる。

 (やっとここまで来た。抵抗されなければ、いきなりお花畑まで意識を飛ばせるのに)

 (それは言いっこなしだ。あと一息だぞ。それにしても、そんなに成仏するのが嫌なのかな、この男は……)

 お花畑の一本道を歩く晃に、男はなおも殴りかかり暴れ続けた。それでも、少しづつ抵抗する力が弱まってきているのを感じる。

 (……自分を救うためにこんなことをしているなんて、この男は考えてもいないんだろうな。憎悪と殺意に支配されたままで、本当は苦しいだろうに)

 (お前は本当に優しいやつだな、晃。本当だったらこいつ、同情されるべき時期はとっくに過ぎているんだぞ。今だってお前、ぼこぼこに殴られてるじゃないか。まったくお前は……)

 そのときだった。前方から人が歩いてくることに、晃は気がついた。

 思わず立ち止まると、緋色で丈の長い貫頭衣のようなものを身にまとった長身の女性が、こちらに近づいてくる。腰より長い艶やかな黒髪を、毛先近くでひとつに束ねていた。

 年齢は若いようで、意外と年を取っているようにも感じる。だが、はっきりとわからない。顔立ちは美しいのだが、そのわりに印象に残らない顔だった。

 緋色の衣の女性は、晃の正面に立つと、静かに微笑みかけた。

 「ご苦労様でした。その男は、私が預かります。その男が引きずっている、陰気の塊とともに」

 その言葉とともに、女性が両手を差し出してくる。その女性がまとう“気”の強さに、晃は圧倒された。直感が、『太刀打ち出来ない』と告げる。

 晃は、背後の男の腕を引っ張って、場所を入れ替わるように男を女性の前に出した。

 男も、不思議と暴れることもなく、無抵抗になっている。その顔は、まるで呆けてしまったように見えた。

 晃が手を離すのと同時に、女性が男の腕を取る。男は一瞬体を震わせたが、急に力が抜けたように、よろめいた。しかし倒れることはない。

 「あなたは一体、誰なのですか」

 晃の問いかけに、女性は微笑んだ表情のままに答えた。

 「私は、人の生死に関わるもの。特に、その命脈尽きたものに、引導を渡すのが使命」

 それを聞き、晃は全身総毛立った。

 「……死神?」

 女性は微笑を崩すことなく、静かに言った。

 「人は、そう呼んでいるようですね。けれど、私の使命は、あくまで命脈尽きたものに引導を渡すこと。その定めにないものの命を摘み取ることなどあり得ません。だから、あなたは安心して現世にお帰りなさい」

 女性は、あくまで優しい表情しか見せないが、まとっている“気”の強さがはっきりわかる晃にとっては、それですら威圧感があった。

 「あなたは、自分が出来うる以上のことをしました。これ以上、無理をする必要はありません。無理をしすぎると、命を縮めてしまいますよ。早く、お帰りなさい」

 晃は女性に向かって深々と一礼すると、来た道を戻っていった。お花畑を抜け、いつの間にか入っていた山道を、転げ落ちないように慎重に下っていく。

 そうして下りているうち、いつしかあの茫漠たる焼け焦げた地面に立ち尽くしている自分に気がついた。

 あたりには、何もなかった。空虚という言葉が、頭をよぎっていく。それと同時に、背後から気配が徐々に消えていくのを感じた。

 (晃、急げ。もうすぐここは虚無になる。早く脱出しないと、出られなくなるぞ)

 遼の声に押され、晃は走ろうとした。だが、足が思うように動かない。それどころか、その場に座り込みそうになる。手足の感覚がない。消耗しつくしてしまったのだ。

 (晃、体は俺が動かす。お前は、向こうで待ってる女の子との会話だけしろ。行くぞ)

 刹那、遼の意識がより一層強く流れ込んでくるのを感じた。晃は遼に身を(ゆだ)ね、陽炎のようなものが浮かんでいる場所を見据える。 そこに、人影があった。先に行って待っているようにと言われた持田裕恵の姿だ。

 晃の体が走り出す。その後ろから、次第に加速しながら気配が消えていく。晃が陽炎のすぐ近くにまでやってきたとき、音もなき虚無への崩壊は、恐ろしいまでの速さで迫りつつあった。

 けれど裕恵は、『振り返るな』という約束を守り、陽炎のような揺らぎの前に、じっと立っていた。

 「……持田さん、帰ります」

 そう声をかけ、それではじめて晃のほうを振り返った裕恵が、驚きに目を見開いた。

 「どうしたんですか? 顔色が真っ青で、影が薄くて、まるで幽霊みたい……」

 けれど晃は答える余裕もなく、裕恵の肩に右手を掛けると、裕恵とともに一気に陽炎の中に飛び込んだ。一瞬にして、周囲が白さの中に霞む。

 そのとき、前方に四角い窓のようなものが見えた。防空頭巾を被った、幼い少女の姿だが、モノクロ写真のネガのように、白黒が反転している。“あの写真”の裏だ、と晃は思った。しかし、それさえも急速に姿が薄れていく。

 最後の力を振り絞り、晃は裕恵の肩を抱きかかえたまま、“ネガ写真”に向かって突進した。その瞬間、体が宙に浮いたような気がした……

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