25.憑依
ここに最初に来たとき、不意を突かれて取り憑かれ、自分が操られて暴走しないように必死でこらえていたとき、結城は傍らでうろたえていただけではなかったか。
「所長が本当に除霊出来るんですか。さっきだって、晃くんが来るまで、ただおろおろしていただけじゃないですか」
「今までだって、同じようなことはやってきただろう。早見くんが来る前から」
「確かにやっていましたけど、これだけ強力な霊体を相手に、所長と二人きりのとき依り代になったことはありませんでしたよ。そういうときは、もっと能力の高い本職さんを除霊役に頼んでいました。所長が、あれだけの邪気を発する霊に対して、正面から対峙出来るとは思えないんですけど」
結城は、苦虫を噛み潰したような顔になった。実際、わかっていて乗り込むならともかく、急にそういう事態になったときに困ると考えていたところに晃が現れたので、二人で拝み倒して顔を出すようにしてもらったというのが本当のところだったからだ。
だが今は、頼みの晃はいない。
結城とて、迷いがないわけではなかった。だが、このまま放っておける類のものでもない。ならば、相手の言い分を聞き、どうすれば満足するのか、聞き出さなければならない。
今の相手は、すべてを憎む邪気を発してはいるものの、何がしたいのか、何を望むのかはまったく読み取ることが出来ない。
それをするためには、こういう場合危険を伴うが、誰かに憑依させ、その人の口を使って話してもらうしか方法はない。
そして、これは晃にも指摘されたことがあるが、和海の能力は外に向かって力を行使するよりも、相手を自分に呼び込むことで意思の疎通を図る受動能力のほうが強い。
冷静に考えれば、“依り代”にふさわしいのは当然和海なのだ。
それは和海も、重々わかっていた。だが、自分で自分を除霊出来ないほど深く入ってしまった場合、結城の力では除霊出来るかどうか怪しい。だから、ためらってしまう。
そうしているうちにも、相手の霊体はより一層激しい憎悪を二人にぶつけてくる。
そのとき、林田が中に入ってきた。どうやら、先程の騒ぎや声などを聞いて、気になって様子を見に来たものらしい。それを見た日本兵の霊は、二人を無視して林田に飛び掛ろうとし、守護霊の力にはじき返された。しかし、それでも執拗にすがり付こうとする。
林田自身は、取り憑かれることはないだろうが、彼についていって外に出た場合、同居している娘が危ない。
一刻の猶予もないと感じた和海が、その場に正座してゆっくりと深呼吸し、わざと意識を無にし、霊を迎え入れる準備をする。
林田の守護霊に阻まれて近づけなかった旧日本兵の霊は、すぐさま向きを変えて和海に突進した。
結城の目の前で、日本兵の姿と和海の姿が交錯すると同時に、和海の体が床に一瞬倒れこむ。咄嗟に駆け寄ろうとした結城の目の前で、和海は体を起こした。
大丈夫かと声をかけようとして、結城は足を止めた。和海の形相が、別人のように変わっていた。
白目を剥き、口はだらしなく半開きになっており、絶えず小さな声で笑っている。その笑い方も、陰気で引き攣ったような笑いだ。
「……おれは……みんなぶっ殺してやるんだ……。みんな、敵だあ……」
和海は、男のような野太い声でつぶやくと、いきなり声を上げて笑い出した。その笑い方もまた、とても普通の人間の笑い方ではなかった。
「……これは正気の人間の態度じゃない……。この男は、気が触れたまま死んだんだ」
すべてを察した結城が、愕然としながらつぶやいた。口の中が急速に乾き、全身から冷や汗が噴き出してくる。
林田のほうは、いきなり目の前で起きた出来事に、言葉を失って棒立ちになった。いきなり若い女性が倒れたかと思うと、女とは思えない声で、女とは思えない発言をした挙句、狂気に満ちた笑い声を発したのだ。
「……これは一体、どういうことなんですかな……」
林田が、かすれ声で問いかける。結城が、和海から視線をはずさずに答えた。
「……憑依です。彼女は、この展示室に最後に残った霊体を、わざと自分に憑依させたのです。あなたを護るために……」
「……わしを護るため……」
「今憑依している霊は、あなたに取り憑こうとしていたのです。もちろん、あなた自身は守護霊の力が強いので、取り憑かれることはありません。ですが、あなたにくっついて、ここから出て行くことは可能です。そうなったとき、危険なのはあなたの娘さんになります。それを防ぐため、彼女はわざと自分の身に憑依させたのです」
結城がそこまで言ったとき、和海が、いや、その体を操るものが立ち上がった。
「……ぶっ殺してやる。みんなぶっ殺してやるっ!!」
激しい殺意を剥き出しにしたまま、野太い声が吠える。そして、近くにいた結城に摑みかかった。
素早く身構えてそれを受け止めた結城だが、憑依された和海の力は、とても女性のものとは思えないものだった。
武道を習っている結城が、危うく突き倒されそうになり、死に物狂いで踏み止まる。
「やめろ、やめるんだ。ここに敵なんかいない!」
思わずそう口にした結城だが、相手がその言葉を理解するはずはなかった。闇雲に突進し、首筋に手をかけようとする。結城はその手首を摑み、させまいとした。
「……予測はしていたが、ここまで制御が効かない霊体だったとはな……」
結城も、手首を摑んでいる掌に念を込め、何とか相手を落ち着かせようとするが、和海の体を支配する霊は、罵詈雑言を浴びせかけるだけだった。
普段、如何に和海が受動的な能力のほうが高いとはいっても、ぎりぎりのところで自分の肉体の制御は行っている。急に暴れ出したりすることは、普通はないのだ。
だが、この男の霊は、和海の体を完全に支配し、彼女の意思を奪ってしまっている。ここまでの霊だとわかっていたら、さすがに憑依はさせなかった。しかしすべては後の祭りだ。全力を持って、この事態を収拾するしかない。
結城は、懸命に相手を押さえ込もうとした。こうなれば、力づくで相手の動きを封じるしかないと思ったのだ。
ところが、相手の力は想像以上で、結城の力をもってしても、容易に押さえ付けることが出来ない。それどころか、無理矢理結城の手を振りきり、耳障りな笑い声を上げながら身構える。
結城は、ベルト通しのところに結んである護り石に意識を合わせ、晃が込めてくれた力を自分の中に取り込むように図った。こんなことをしても焼け石に水なのはわかっているが、どんなものにすがってでも、この事態を終息させなければならないと思った。
これは、自分の責任なのだ。和海とて、自分があんなことを言わなければ、憑依などさせなかっただろう。仮にされたとしても、徹底的に抵抗して、ここまで体を乗っ取られることはなかっただろう。
すべては、自分の判断ミスだ。体を張ってでも、この悪霊の暴走を止める。
そのときふと、護り石に晃が込めた力に、結城は違和感を覚えた。確かに、小さな石に想像を超える力が秘められているが、その力を自分の中に呼び込んだとき、言葉には出来ない違和感を覚えたのだ。
だが、一瞬意識がそちらにいったのを見透かした相手が、一気に飛びかかってきた。不意を突かれた形の結城は、バランスを崩して床に転がる。しかし、咄嗟に相手の手首を摑んで、もろともの体勢になる。もう、なりふり構っていられる状態ではなくなった。
二人はそのまま床を転がりまわり、相手にのしかかろうとする。またはそれをかわすため、再び転がる。
展示室の壁にぶつかったとき、和海に憑依した存在が上になっていた。相手は笑いながら、結城の首を絞めようとする。結城はその手首を摑み、させまいと抵抗した。満身の力を込めて上に乗った相手を跳ね除けると、今度は自分が相手にのしかかり、押さえ込もうとする。
体は和海だが、別人のように形相が変わっているので、これは悪霊を相手にしているのだ、と自己欺瞞が出来た。
唯一案じられるのは、相手が憑依をやめて霊体に戻ったとき、今以上に対処するすべがないということだ。
焦りを隠せない結城をよそに、相手は罵声を浴びせながら笑い続けていた。