23.脱出へ
晃は歩きながら神経を集中して、出入り口となるべき場所を探った。出入り口となる場所には、必ず“この世界”とは違う気が流れている。それを探し出さなければならない。
「……そういえば、持田さんはどのくらいここにいたのですか」
晃がふと、思い出したように尋ねる。裕恵は右手で頭を押さえながら、はっきりとはわからないといいながらも、答えてくれた。
「大体、一晩くらいでしょうか。ここには朝の光もないし、スマホも電源そのものが入らなかったんで、どのくらいここにいたかわからないんですよ。あたしの事を探していたというなら、あなたのほうが、わかっているんじゃないですか?」
晃はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「ここが、普通の世界とは違うことはわかりますよね。ところで、お腹が空いたとか、喉が渇いたとか、そういうことはありませんか」
「いいえ。不思議と、そういったことは感じませんでした。それで、どのくらい経っていたのか、教えてください」
晃は、ことさら淡々と事実を告げた。
「冷静に聞いてください。あなたがここで一晩くらい過ぎたと思っていた間、外では二週間が経っていました……」
裕恵は、その言葉がにわかには飲み込めなかったらしく、一瞬きょとんとなった。
晃は立ち止まると、背中のワンショルダーからペットボトルのお茶を取り出した。
「これ、大学の購買部で買ったもので、まだ封を切っていません。どうぞ、飲んでください」
裕恵はまだ事態が飲み込めないまま、それを受け取って封を切り、口をつける。飲み始めて初めて、喉の渇きを覚えたようで、五百ミリリットルのペットボトルを喉を鳴らして飲み干していく。
それを確認して、晃は空になったペットボトルを受け取り、再びワンショルダーにしまった。
「これで、少し落ち着いたでしょう。行きましょうか」
晃は裕恵を促して、また歩き始める。
「……ところでさっき、二週間といっていましたけど、あたしがここにいる間に、本当に二週間経ったんですか」
晃のすぐ後ろを歩く裕恵が、戸惑いを隠せない口調で問いかけてきた。
「……本当です。深山さんから依頼があった時点で、十日が経っていたそうですから」
裕恵は、絶句したまま立ち止まる。晃もそれに合わせて立ち止まると、裕恵を静かに見つめた。そして、あなたは浦島太郎なのだ、と言った。
「浦島太郎は、竜宮城で三日間を過ごして、帰ったときには三百年が過ぎていた。あなたはそれほどひどくはないですけれど、それに近い経験をしたということです。詳しいことは、戻ってからじっくりお聞きすることになると思いますが、とにかくそういうことです。ですが、今は脱出することを最優先にしましょう」
裕恵がうなずいた直後、晃は再度近づいてくる気配に気がついた。素早く裕恵のもとに行くと、背中から彼女を庇うような形で右腕で肩を抱きかかえた。
「いきなり何するんですか」
思わず抵抗する裕恵に、晃は真顔で告げた。
「気配が近づいてきています。これから何が起こっても、僕から離れないでください。もしこの手を無理に振り切って離れたら、ここに連れ込まれたとき以上の災厄が、あなたを襲うことになりますよ。そうなったら、僕でも護りきれません」
その言葉を言い終わらないうちに、二人の周囲の地面から、まるで湧き出すように真っ黒な人影が姿を現した。裕恵が悲鳴を上げる。
「僕から離れないで。離れたら、取り憑かれてしまう」
行きに出会ったときより人数は減っていたが、それでも十数人ほどが周囲を取り囲んでいる。震える裕恵の様子から、彼女もまたこの真っ黒な人影が、焼死者であることに気づいているようだ。
晃はより一層裕恵を強く抱き寄せながら、前方の人影を睨みつけた。
「体があれば、ここから出られる」
「体をよこせ」
「体をよこせ」
死者の群れは、先程晃に向かって発したのと同じ言葉を、今度は裕恵に向けて発している。これほどまでに執着するから、逆にこの地に縛られてしまっていることに、気づいてもいないのだろう。
「……何か言ってる。いや、『体をよこせ』って……」
裕恵が、怯えた声でつぶやいた。やはり、彼女にも聞こえているのだ。
「僕が護ります。絶対に、離れないでください」
晃がもう一度念を押すと、裕恵は真っ青な顔でうなずいた。
「あんたたちは、まだ目が醒めないのかっ! 今から誰かに憑依して戻ったところで、いまさらやり直しは出来ない。あんたたちが命を落としてから、もう何十年も経っているんだ。あの頃赤ん坊だった子供も、今は孫がいてもおかしくない年齢になっている。そのくらいの歳月が流れたんだ。今外に出たところで、世の中の変化についていけずに取り残されるだけだ。早く成仏して、あの世へ行きなさい。そのほうが、身のためだ!」
晃は、全身全霊を込めて説得に入った。
もはや自分の親の年齢であっても、戦争というもの、空襲というものがあったことは、教科書でしか習ったことのない歴史上の出来事になっていること。街並みは建て替えられ、大きく変貌したこと。たとえ戦火を免れたところがあっても、人は皆変わってしまったことなどを、順序だてて説明し、さらに今の街並みのイメージを実際に思い浮かべ、それを送りつけるようにして訴えた。
「成仏してください! ここに留まっているのはもちろん、誰かに憑依して外に出て行くのも、決して救いにはならない! 僕は、争いたくはないんです!!」
晃の真剣な訴えに、死者たちは悄然となっていく。やがて、ひとり、またひとりとその姿が薄れ、消えていく。地面に吸い込まれるのではなく、空中に溶け込むように消えていくのだ。これは、生を諦めて成仏したのだということを、物語っていた。
すべての死者たちが姿を消したのを確認して、晃は裕恵に声をかける。
「死者たちは、黄泉の国へと去りました。行きましょう」
それを聞いた途端、裕恵はその場に座り込んだ。
「……怖かった……。あんなの、初めて見たから……」
それを聞いた晃は、花子が彼女を“護って”いたのだと悟った。ここに来てすぐに、“自分の家”に連れて行き、結果的に他の霊たちから彼女を護る形になったのだ。
陰気の塊とて、花子が創った家の中に入るのは、容易ではなかったはずだ。“家”は一種の結界の機能を果たしていたはずだから。
だからこそ、晃が“家”に向かったとき、ついてきていたに違いないのだ。“家”の主ではない晃が入るには、必ず戸を開けなければならない。その隙を突こうとしていたのだろう。
晃は裕恵に手を貸して立たせると、その目を見つめながら言い含めるように告げる。
「いいですか、これで終わりだと思わないでください。本当に現世に戻るまで、決して気は抜かないでください」
裕恵は、その目にかすかに恐怖の余韻の涙を浮かべながらも、静かにうなずいた。