21.約束
周囲は薄暗かった。遥かかなたの地平線に見えるところに、茫漠たる朱赤の光が見える。
「……意外に広いな」
晃がつぶやく。周囲を見回しても、かろうじて踏みしめることの出来る赤茶けた大地と思しきものがあるだけで、他には何もない。時折、どこか焦げ臭い生暖かい風が、一瞬吹き抜けていく。
唯一目の前に、怒っているようにも涙をこらえているようにも見える顔をした女の子が、立っている。
晃は、かがんで女の子の目線に合わせると、静かに問いかけた。
「花子ちゃん、ここが、いつも君のいるところなの?」
花子はうなずいた。それを見て、晃もまた無言でうなずくと、花子を“抱きしめる”。
「……寂しかったんだね。ずっとひとりで、寂しかったんだね。だから、お姉ちゃんに見えた人を、ずっと追いかけていったんだね……」
花子がうなずき、しゃくりあげ始める。晃は、花子の頭を“左腕”で優しくなでた。
「本当なら、こんなところじゃなくて、ちゃんと天国に行けたはずなのにね。どうして、ここにいることになったの?」
「……真っ黒い人たちが、あたしのこと引っ張ったの。ここにいてって。あたしがいないと、何も見えないって……」
「大勢の、真っ黒い人たちだね。もしかして、怖かったの?」
花子はうなずく。自分の死に気づかないままだった彼女にとって、空襲の焼死者たちの姿は、恐ろしかったに違いない。
「真っ黒い人たちは、他に何か言っていたかな?」
「……熱い、痛いって……。あと、真っ黒い人たちと一緒に、黒いもやもやがいるの。そのもやもやが、気持ち悪いの。あたしに、いろんな人、見ろって……」
あの陰気の塊に違いない。彼女が“見た”人に取り憑いて精気を啜り、負の感情を貪って、依り代になった人間を破滅させつつ、自らは肥大してきた存在だ。
おそらく、最初に存在していたのは、陰気の塊の元になった死せる者の思念だったはずだ。それが、空襲で生を断ち切られた死者たちの無念の思いを喰らい、それを利用して生あるものにも取り憑き続けてきたのだ。
「花子ちゃん、僕が、必ず気持ちの悪いものからも、真っ黒い人たちからも、助けてあげるよ。約束する」
「それ、ほんと?」
花子が、体を離して晃の顔をじっと見つめる。晃は、力強くうなずいた。
「ほんとだよ。だから、あのお姉ちゃんがどこにいるのか、教えてくれないかな」
すると花子は、いきなり右手を目に前に持ってくると、小指を立ててこう言った。
「約束するなら、指切りげんまん」
晃も微笑みながら、右手を差し出す。そして、晃の生身の小指と、花子のおぼろげな小指が絡んだ。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます。指切った」
最後の一言で、勢いよく指を離すと、花子は元気よく“お姉ちゃんはあっち”と言いながら、斜め後ろを指差した。晃は立ち上がると、花子とともに歩き出す。
(ここは……焼け跡みたいだな。すべてが焼き尽くされて、更地になった場所みたいだ。俺も一回、大火事で更地になった場所に建物再建のために入ったことがある。ちょうどこんな感じだった。ここのほうが、ずっと焼け焦げがひどい感じだけどな)
(空襲の焼け跡のイメージなんだろうね。こんなところで、外の時の流れもわからないまま縛り付けられて、どれだけ苦しかっただろうか……)
と、急に花子が立ち止まるなり、晃にしがみついてきた。晃もまた、周囲から迫る重苦しい気配に、足を止めて身構える。
それはまるで、地面から湧き出してきたようだった。黒い姿が周囲から現れると、二人を取り囲んだ。その数は、ざっと数えても二十人近い。
すべてが、真っ黒に焼け爛れた人の群れだった。人々は、死ななければならなかった無念さを口々に訴え、叫んだ。
「生きたかった」
「帰るんだ。家に帰るんだ」
「子供に会いたい。会いたい」
そして、遂にはこう言い始めた。
「体があれば、ここから出られる」
「体をよこせ」
「体をよこせ」
焼け爛れた人の群れは、急速にその輪を縮めた。花子が、火がついたように泣き出す。
「いい加減にしろっ!」
一気に遼の力を呼び込んだ晃が、激しく怒鳴りつけた。同時に、自分の霊力を叩きつけ、威圧する。
「空襲で死んだのは、あんたたちだけじゃないっ! 自分だけがつらい思いをしてると思うなっ! この子がかわいそうだと思わないのかっ!」
黒焦げの死者たちの動きが、たちまち鈍くなった。表情もわからないほど崩れた顔が、それでも確かに硬直したように感じた。
「どきなさい。道を開けなさい。僕は、力づくのごり押しはしたくない。あなたたちも、被害者だということはわかっている。だからこそ、争いたくない。道を開けなさい!」
晃は、特に進行方向を閉ざしているものたちに向かって、強い口調で言った。それと同時に、晃の体から生者のものと死者のものが入り混じった“気”が燃え上がるようにあふれ出し、周囲を囲むものたちをさらに怯ませる。
「道を開けなさい! 僕は争いたくはないんだ!!」
晃が再度、強い口調で繰り返す。こういう死者たちに対しては、同情は禁物である。同情しては、かえって引き込まれてしまう。強気な態度を崩さず、押し切らねばならない。
効果はあった。死者たちはそれに呼応するように、ゆっくりと道を開けた。晃は、まだ泣き止まない花子を“左腕”で“抱き上げ”ると、無言で歩き出す。
晃が死者たちの囲みを抜けると、彼らの姿は、現れたときの様子をそっくり逆回しで見るようにして姿を消した。
「怖い人たちはいなくなったよ、花子ちゃん」
晃が声をかけると、花子はやっと泣き止んできた。辺りを見回して、人影が消えていることを確認し、安堵の表情を浮かべる。
「さあ、行こう。僕が抱っこしていてあげるから、お姉ちゃんのところへ行こう」
晃の言葉にうなずき、花子はあっちと指差した。
花子を抱き上げたまま、晃は焼け焦げた地面を歩き続ける。そして、程なく気がついた。あの時と同じく、陰気の塊が背後から近づいてきている。大きさは、直径一メートル半ほど。
「もやもやが来てる」
花子も気づいたようで、晃にしがみついてきた。
「お姉ちゃんのところへ行くとき、いつもついて来ていたの?」
「いつもじゃない。でも、ついて来たときあった。お家の前で、消えちゃったけど」
晃は、自分の腕の中で怯えている花子から、思念を読み取った。
長屋の一角を切り取ったような造りの部屋、古い箪笥に押し入れ。晃にとっては、教科書や昭和風俗の資料館のようなところでしか見たことがない、戦前の下町の家をイメージさせる部屋の中。細部があいまいなのは、花子自身が正確に覚えているわけではないからだろう。
花子自身が、生前の記憶によって創り上げた『自分のお家』。その中に、若い女性が座っている。クライアント提供の写真で見た、持田裕恵に間違いはないようだった。
少なくとも、花子の記憶の中では、持田裕恵は“生きている”。
晃は、背後からつかず離れずついてくる陰気の塊を警戒しながらも、花子の『お家』へと歩みを進める。
(気をつけろ。確かに今のお前なら、不覚を取ることはないだろうが、被害者が生きているとしたら、そいつを護らなきゃならないからな。しかし……行方不明になってから何日経ってるんだ? よく生きてるよな)
(遼さん、“仙境”って知ってる? 昔話に出てくる、人ならざるものが住む異界。竜宮城なんかが代表だけど、そういうところって、時の流れが現世とは違うんだ。ここもそういうところの一種なら、時の流れが違っていてもおかしくはない。ならば、生きている可能性はある。僕は、所長の〈過去透視〉でおぼろげながら神隠しの瞬間のイメージを見たときから、その可能性をずっと考えていた。だから、ここに乗り込んだんだ)
(そういや、そんな話はあるな。確か、三日のつもりが三百年だったな、竜宮城では)
やがて、前方にぼんやりとした何かの塊が見えてきた。あれが、花子の“家”だと悟った晃は、ことさらゆっくりとそこに近づいていく。背後の重苦しい気配も、徐々に間合いを詰めているように感じられる。
あそこにいるであろう被害者を狙っているのだ、と察した晃は、無言で振り返った。
「花子ちゃん、ちょっと待っててね。こいつを今から、追い払うからね」
晃は花子を“降ろす”と、彼女を背後に庇い、陰気の塊と対峙した。